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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/20のブログ
所在地
 福島県郡山市冨久山町久保田字山王館
歴史、人物、伝承

郡山合戦時の伊達氏側陣城か
 一般には「山王館」(さんのうだて)の呼称が多用されているが、北北西約3kmに所在している山王館(富田)との区別を明確にするため、便宜上その所在地である久保田の地名を付加した。この周囲にはこの山王館のほかに合戦当時の関連地名とも考えられる、「岡の城」「桝形」「夜討川」「幕ノ内」のほかに、「稲荷館」(郡山城の有力な比定地)「久保田館」(伊達氏側の陣城か)なども存在している。
 天正16年(1588年)の「郡山合戦( ⇒ ほかに郡山の陣、窪田の陣、安積の合戦、夜討川の合戦などともいわれている)」において、伊達氏と葦名・佐竹連合が対陣した際の伊達成実が布陣したとされる伊達氏側重要拠点であったとされているが、合戦当時の両軍の布陣状況、兵力、城砦の配置、合戦の推移、両軍の被害などについては以前から様々な見解があり必ずしも統一されてはいない。
 一説には伊達氏側600騎(人)に対して佐竹氏側4000騎(人)というものもあるように、いずれにしても伊達氏側にとっては圧倒的不利な条件での戦いであった模様である。
 この郡山合戦はもともと当時病床に伏していた田村清顕の後継者問題に絡み、伊達氏と佐竹氏の主導権争いに端を発したものとされたが、圧倒的に有力な兵力であったはずの佐竹側の幕下の足並み不揃いを含めた佐竹氏側の戦略の破綻なども重なり、合戦の戦況は勝敗のつかないままに岩城氏、石川氏などの仲介により和議を迎え、その戦況に比し伊達氏側は事実上の勝利を得たといえよう。
 おおまかな両軍の配置については、概ね逢瀬川北岸に伊達氏側が陣取り、その南岸に蘆名・佐竹連合が布陣し対峙していたであろうことだけは確実であろう。

確認可能な遺構
 土塁、伊東重信の古碑(郡山市史跡指定)とその解説板がある
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月20日 
訪城の記録 記念撮影


 伊達氏本陣は
 郡山駅の北北西に所在する山王(日吉)神社境内とその周辺が該当地と考えられます。神社の駐車場に数台程度は駐車可能ですが、収容台数に限りがあることから満員の場合には近くのコンビニで昼食などの買い物をして駐車させていただくのが無難かも知れません。
 土塁状の地形は社殿の西側から北側にかけてを取り巻くように残されていますが、神社の社殿建立などの際に大きく改変されている可能性も窺えます。比較的原型が保たれていそうなのは北側参道沿いの部分ではないかと思われました。
 麓からの比高差は約10メートルほどを測る比較的規模の大きな丘陵ではありますが、伊達勢の一部が拠点とすることはあっても、政宗の本陣が出張ることはリスクが多すぎて考え難いものがありますので、政宗自身は相馬氏や最上氏との抗争も抱えていたことから、より後方の高倉城あるいは福原あたりに在陣していたと考えた方が良いのかも知れません。

( 2016/08/06 記述)
山王館の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
日吉稲荷神社に残る山王館の土塁
( 2015/10/20 撮影 )
訪城アルバム
東側の坂道 ⇒ 画像クリックで拡大します
北側の参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 東側の坂道
 丘陵麓との比高差は目測で約7mぐらいで、画像右上のコンクリート構造物は東北新幹線の高架橋です。
凸2 北側の参道
 画像1の市道から通じている北参道で、沿道からさらに3mほどの比高差がありました。

北側の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
北側の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北側の土塁遺構
 北側の参道から境内へと進む右側(西側)に所在する土塁跡です。高さは2mほどで参道沿いの長さは約10mくらいです。
凸4 北側の土塁遺構
 土塁上から俯瞰した画像です。参道から眺めるよりも思いのほか土塁の規模が大きいという印象があります。

北側の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
伊東肥前の古碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 北側の土塁遺構
 参道から境内地へと入る辺りで前記の北側の土塁は西に曲がり20m以上続き、さらに日吉神社社殿背後へとのびてはいるのですが、土塁のラインが明確に分かるのはこの辺りまでになります。
 神社社殿の背後にもやや幅広い土塁状の地形が残されていますが、社殿建立などにより相当程度の形状改変が行われているという印象がありました。
凸6 伊東肥前の古碑
 堂宇のなかに設置されているのが、郡山合戦の際に戦死した伊達側の将、伊東肥前重信の事跡を刻んだとされる石碑ですが、長年の経年劣化により判読が難しくなっておりました。
 ⇒古碑移転の経緯を示した現地解説板の画像へ
 ⇒伊東肥前の古碑画像へ
 ⇒左手前の郡山市史跡指定石碑画像へ

東側の表参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
丘陵中腹から ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 東側の表参道
 
凸8 丘陵中腹から
 この丘陵中腹の平坦地形をどう評価すべきなのか悩みます。「図説戦国合戦総覧」158頁に
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) 一覧表に城館名などが記載されているのみ
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) 一覧表に城館名などが記載されているのみ
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 ⇒  「積達古館弁巻ノ五安積郡」の項を引用したと思われる記述がある。

郷土史関係等
「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述し、この山王館については郡山合戦当時の伊達成実による陣城説を明示されている。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している伊東氏一族の人物として冨久山町久保田では「窪田修理亮祐守」、郡山では、安積伊東氏惣家ともいわれている「伊東下野七郎藤原祐時(祐持)」の名が見られる。
 郡山合戦については、「概略図」を含む比較的詳しい記述があるが通史の普及版としての性格上から史料等についての明示は記されてはいない。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 郡山合戦に関する詳しい記述があり、典拠史料についても明示している。近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「久保田村山王館 政宗の本陣なり 飯坂右近太夫・大嶺式部少輔を込めらるるよし くわしき事は郡山城の項に示した 高倉の項に会津勢のなかで窪田十郎という者あり この久保田の者か 政宗と会津勢・須賀川勢がこの場所で一戦した 世にいう久保田合戦とはこのことである くわしくは郡山の城の項に示した」(現代文に意訳)との記述があるが、もとよりその典拠となる史料は示されてはいない。

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。
「図説戦国合戦総覧」(1977/新人物往来社)
 ⇒ 「窪田の戦い」と題して、157頁から159頁に従来の通説に従った記述が見られるが、それよりも特筆すべきなのは恐らく1960年代頃の撮影と推定される麓に水田が残されている山王館全景の写真が掲載されていることが注目される。
「ふくしまの古戦場物語」(1988/歴史春秋社)
 ⇒ 「夜討川の合戦」と題して79頁から86頁に地元郷土史家によるエピソード豊かな記述があるが、歴史読物としての体裁上からそれらの典拠史料の明示はされていない。

・2016/08/06 HPアップ
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