福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
福島県郡山市の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/15のブログ 郡山城(郡山館) 久保田山王館 郡山館/郡山城 
所在地
 福島県郡山市駅前1丁目
歴史、人物、伝承

郡山合戦の鍵となった城館
 天正16年(1588年)の「郡山合戦( ⇒ ほかに郡山の陣、窪田の陣、安積の合戦、夜討川の合戦などともいわれている)」において、伊達氏側についていた郡山氏が守りを固めていたとされる城館である。葦名・佐竹連合はこの城に攻め寄せたが、伊達氏側の支援により落城を免れた。伊達氏側は伊達成実らが久保田山王館(山王山)に布陣したとされるが、合戦当時の両軍の布陣状況、兵力、城砦の配置、合戦の推移、両軍の被害などについては以前から様々な見解があり必ずしも統一されてはおらず、一説には伊達氏側600騎(人)に対して佐竹氏側4000騎(人)というものもあるように、いずれにしても伊達氏側にとっては圧倒的不利な条件での戦いであったことは間違いがなさそうである。
 この郡山合戦はもともと当時病床に伏していた田村清顕の後継者問題に絡み、伊達氏と佐竹氏の主導権争いに端を発したものとされたが、圧倒的に有力な兵力であったはずの佐竹側の幕下の足並み不揃いを含めた佐竹氏側の戦略の破綻なども重なり、合戦の戦況は勝敗のつかないままに岩城氏、石川氏などの仲介により和議を迎え、その戦況に比し伊達氏側は事実上の勝利を得たといえよう。そのおおまかな両軍の配置については、概ね逢瀬川北岸に伊達氏側が陣取り、その南岸に蘆名・佐竹連合が布陣し対峙していたと解されているが、いずれにしても郡山城は佐竹・蘆名氏の軍事力をまともに受けざるを得ない条件下におかれていた。
 なお「相生集」などによると、郡山城の前身と推定される稲荷館は西側の清水台遺跡に所在していたと推定される諏訪館から安積伊東氏が移転したとも伝わる。

(注)当該郡山城の所在地については従来より「西ノ内」「稲荷館」という2つの説があったが、近年では下記の参考資料が示すように稲荷館説が有力となってきている。

確認可能な遺構
 郡山駅前の市街地であり地表部の遺構は確認できないが、わずかに陣屋ビル前に設置された近世陣屋の案内図のなかに「郡山城」の文字が記されている。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月14日 午前9時00分から10時10分
訪城の記録 記念撮影


 有力な比定地
 従来は西方の桃見台近くの西ノ内(幕ノ内とも)/桜木説が通説のように扱われている時期もありましたが、「郡山の城館」「2014年版 郡山の歴史」などにも記されているように、近年では郡山合戦の郡山城については「伊達治家記録」などの史料における佐竹・蘆名勢と伊達勢の位置関係から、この郡山駅西口の代官陣屋(稲荷館)を郡山城に比定する説が有力視されています。
 現地にはシティタワー郡山(下層階は寿泉堂総合病院)を始めとして、チサンホテル、NTT郡山支店、大東銀行本店などのビル群が立ち並んでいるために、近世陣屋はおろか中世城館の面影は全く感じることはできません。それでも北西部の一角で陣屋通り西側には陣屋を冠したビルが所在し、北辺の代官小路に面したビルの間には二本松藩の近世代官陣屋などに関する解説版が設置されています。 さらにその古い解説版の左側に置かれた新しい方の解説版の周辺案内図には「郡山城」の文字も記されております。 しかし、それが指し示す場所には郡山城に関する標柱、説明版などの存在は見られないことから、この案内図の表記が、今のところでは現地における郡山城の存在を示す唯一の証となっているようです。

( 2017/02/12  記述)

陣屋の解説板 ⇒ 画像クリックで拡大します
Maggy陣屋前に設置されている陣屋の解説板−画像A
( 2016/11/15 撮影 )
訪城アルバム
郡山駅東口の保土谷化学 ⇒ 画像クリックで拡大します
東側付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 郡山駅東口の保土谷化学
 この遠征時には郡山駅東口のコンフォートホテルに宿泊したところ、ホテル8階の窓からは広大な化学工場の敷地が目に入りました。この画像は日の出直後の早朝の風景を撮影したものですが、何か記録しておかねばならないというような形容しがたい行動だったことを克明に覚えています。
 その後下記の古い航空写真を拡大加工していると、保土谷化学の工場と思われる一帯にボツボツと無数の穴のようなものを確認しました。かつて郡山市は軍都でもあったことから、市史をひも解いてみますと郡山空襲の記述に行き当たりました。1945年4月12日のB29による空襲では市内は計460名の方の尊い命が犠牲となり、そのうち当時は軍需工場となっていたこの保土谷化学工場では204名の方が亡くなり、うち26名は勤労動員された生徒であったことが分かりました。
 合掌
凸2 東側付近
 城館跡および陣屋跡の東側に相当するこの辺りを歩いて訪れたのは2度目で、一度目は2008年5月でしたが、自分の貧弱な頭のなかでは中世城館跡である稲荷館と二本松藩の近世陣屋と郡山城の比定地のひとつであることなどが、ごちゃごちゃに混ざり合い全く整理がついてはいなかったこともあり完全にスルーしておりました。
 その後幸いにして2015年、2016年と計度ほど続けて訪れることが叶い、相応の関係資料も閲覧・蒐集できたことからどうにか状況をつかむことができました。なお、この郡山駅前から続く南西へのびた150mほどの街路は、下記の古い航空写真からも分かるように既に戦時中には完成していた模様です。

南西部付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
どら焼きの大黒屋 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 南西部付近
 二本松藩の近世代官陣屋の様子を描いた絵図にもあるように、陣屋の南西部付近にはこの曲がりくねった道が描かれておりました。おそらくは陣屋、城館跡の南西角付近に相当するものと思われます。
凸4 どら焼きの大黒屋
 どら焼きなどで市内では有名な大黒屋さんで、ここと駅ビル内でばら売りの商品を購入。よく見ると画像が少し傾いているように見えますが、画像右側が僅かに高く緩い下り坂になり、人の歩いている道も画像の奥に向けて緩い下り坂となっています。陣屋、城館跡の南西付近で「画像3」の個所を北側から撮影していることになります。

絵図/陣屋の解説板から(部分拡大)⇒ 画像クリックで拡大します
陣屋の解説 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 絵図/陣屋の解説板から(部分拡大)
 「画像A」を拡大したもので、この絵図は画像右側が北になります。近世の丹羽氏による二本松藩支配の時代には安積地方を海道組、片平組、大槻組の3か所に区分し、この代官陣屋で包括的な支配を行っていたとのことです。なお、円内画像右海道組代官所は中世の城館跡の北隣に相当し、完全に近世陣屋と中世の城館跡が一致しているという訳ではなさそうです。また「現在地」の表示のあるとおり、「代官小路」と記された個所がこの陣屋ビル前の道となっています。
凸6 陣屋の解説
 近世陣屋についての解説はそこそこ詳しく述べられていますが、残念ながら中世の稲荷館あるいは郡山城などに関する表記は殆どありません。

代官小路/代官通りの解説 ⇒ 画像クリックで拡大します"
郡山城の文字 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 代官小路/代官通りの解説
 同じ個所に後年に設置された解説板にも表記されているのは近世代官陣屋に関するものだけですが、よく見てみると右下の案内図に「郡山城」の3文字があります。
凸8 郡山城の文字
 「画像7」の案内図だけを部分拡大して撮影したものです。赤色の楕円で囲んであるこの個所(当サイト管理人が画像加工しています)だけが、これらの現地説明板のなかで、「郡山城」との関連を示す唯一の表記なのでありました。

陣屋ビル ⇒ 画像クリックで拡大します
大東銀行社屋 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 陣屋ビル
 この「陣屋一番館」の看板と外壁の色の方が、画像Aのビルよりも目立ちます。画像の右方向が「陣屋小路」で、画像左方向が「陣屋通り」に相当するようです。この辺りが中世城館跡の北辺部分にあたると思われます。
凸10 大東銀行社屋
 「画像8」には「郡山城」の三文字がしっかりと表記されているにもかかわらず、こちらの画像下辺の中央に設置されている説明板には明記されていないので、初めてこの地を訪れた場合には「?」マークで頭のなかが満たされます。こうした表記の不統一は「郡山城」の比定地を巡るある種の混乱を象徴しているものなのかも知れません。

稲荷館/郡山城の位置 ⇒ 画像クリックで拡大します
久保田山王館ほかとの位置関係 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 稲荷館/郡山城の位置
 画像右側の保土谷化学の敷地をよく見てみますと大小の穴があちこちに散見されます。既に終戦後3年近くが経過しているのですが、比較的小型の数十キログラム程度の様々な爆弾が投下された痕跡と推定されます。今から70年以上前にはこの場所で突然多くの人々の命が失われた証しでもあります。
 また郡山駅前近くでもあることから、赤枠で示した城館跡の部分はこの時期にはほとんど宅地化が進行していたことも窺えます。
凸12 久保田山王館ほかとの位置関係
 画像上部の「山王館」(拙サイトでは久保田山王館)は郡山合戦時の伊達氏側援軍の最前線と考えられ、その右の「久保田城」(別名比丘蓮館か)がその出城で、これに比して「稲荷館/郡山城」は伊達氏側に属しているものの敵中に孤立し安い立地であることも明瞭です。一方従来は郡山城に比定されていた台地に所在している「伝郡山城」(一説には茶臼館とも)の方は逢瀬川の対岸に所在しており、佐竹・蘆名連合軍の陣城説も頷けます。久保田城と稲荷館の間に両者を離間させる砦が築かれたとも伝わりますが、無理やり推定すれば、逢瀬川南岸の奥州街道と明記した辺りのようにも思われますが、発掘調査などの傍証のない限りは、こうなると最早空想の領域に突入していくのかも知れません。
 このように画像を拡大したりして見るとそこそこ分かりやすくはなってきたのですが、該当する航空写真の選定から加工追記に至るまでに結構手間が必要です (笑)
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)
※郡山城の所在地については大きく分けて「西ノ内説」(桃見台付近)と「稲荷館説」(郡山駅前)がある。

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林)⇒西ノ内説
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)掲載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
・「戦国時代の城」(2009/高志書院)
 ⇒ 79頁にて垣内氏は広長秀典氏、柳田和久氏の研究成果をもとに西ノ内説から稲荷館説への訂正を明記している

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)⇒西ノ内説
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)⇒稲荷館説
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているなかで、「郡山館」の項目で郡山合戦の際に両軍の争奪の的となった当城館について、案内図入りで解説をしている。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市)⇒稲荷館説 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「」の名が見られる。
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)⇒稲荷館説
 47頁に郡山合戦についての記述があり、「郡山地方史研究第42集」(郡山市の中世城館8)からの引用として、「郡山城(稲荷館」)とする垣内和孝氏の作図を掲載している。
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)両論併記
 ⇒ 安積の館主と題した項目の514頁において、「郡山城の位置については明らかではない。現在の郡山駅ないし方八丁(⇒保土谷化学の南隣)のあたりと伝えられるが、確証はない。あるいは夜討川の西北岸の西の内の台地であろうか・・・政宗本陣の窪田山王山から直線距離にして1から2kmの地点であろう」との見解を示している。
・「三春町史第1巻」(1982/三春町)郡山城の所在地に関する記述は見られない
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)」(2005/郡山市教育委員会)
・「図説郡山・田村の歴史」(2000/郷土出版社)⇒稲荷館説
 ⇒ 100頁から101頁にかけての記述として、「郡山城の位置については、西ノ内の幕ノ内と駅前の陣屋とする説がある。「伊達治家記録」等の資料の整合性や、郡山合戦の佐竹・蘆名勢と伊達勢の動きより、駅前陣屋の稲荷館とするのが妥当である」との見解を示している。
・「図説戦国合戦総覧」(1977/人物往来社)⇒西ノ内説
 ⇒ 合戦の概要を示す略図において奥州街道よりも西寄りに郡山城らしき城を配している。

史料、地誌
・「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)記述あり、但し所在地は不詳
 ⇒「諸国廃城考」(1770/深井彪 撰)に所収され、「郡山城 天正16年6月佐竹義重、会津義広と岩城須賀川の兵を合せて安積郡へ打出らる。政宗是を聞て大町宮内、中村主馬、塩ノ森六郎衛門、小島右衛門、大細金七郎を遣わして足軽200人を率いて城主(其の姓名失う)と共に此城を守らしむ。政宗も来て奮戦しかば佐竹勢遂に敗走す」とあるのみで、郡山城の所在地を窺う記述はない。
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)郡山城の所在地に関する記述は見られない
・「三春町史第7巻」(1978/三春町)に「奥陽仙道表鑑」を所収しているが郡山城の所在地に関する記述はない。
 
その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」⇒西内説により「郡山館」と表記
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」⇒西内説により「郡山館」と表記
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)所在地に関する言及はない
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)


・2017/02/12 HPアップ
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動