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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/18のブログ 稲荷館/郡山城 
所在地
 福島県郡山市桜木1丁目、同2丁目並びに西ノ内1丁目
歴史、人物、伝承

伊達政宗と佐竹・蘆名勢が対峙
 「奥羽永慶軍記」(巻15佐竹、伊達と安積合戦)などによりますと、天正16年(1588)6月、決着のつかないままに終わった天正13年(1585)の人取橋合戦の後、安積方面に侵攻してきた2万を超えると伝わる佐竹・蘆名勢に対して、伊達勢が寡兵(恐らく数千人規模か)を以て持ち堪えた「郡山合戦」(「窪田合戦」とも)の舞台と考えられています。
 当時の城主について沼舘氏の著書によれば伊東摂津守( 伊東太郎左衛門または郡山太郎左衛門などとも )とも言われていますがやや不明な部分も多いようです。また郡山丹波守との人名も登場しますが、この郡山城との関連は委細不明です。また「諸国廃城考」においても、当該城主についてはその名を失うと記されています。
 なお、この時政宗は相馬、最上の各氏とも同時に事を構えていたために一定の備えを残さなければならず、多くの軍勢を派遣することが困難な情勢であったものとされています。
 
※一方の舞台である窪田城の所在地については、一般には富久山町久保田の辺りと推定されている模様です。なお、この久保田には山王館跡が日吉神社境内地として現存していますが、「盛実日記」等によれば政宗は「窪田山王山付近に布陣したという記述が見えます。また「奥羽永慶軍記」においても、会津長沼城城主新国上総介が大物見(威力偵察)に出かける際に、「馬上五騎・足軽歩者百余人打連れ、郡山の南より北の要害窪田の矢羅井の中を、敵陣近く打ちて通る...」と記されていることからもその概ねの位置関係が推定されます。

(注)従来は「福島県の中世城館跡」(1988)の調査報告書において、「郡山城」として表記された事情などにより当該城館跡が「郡山城」であることが通説のような扱いを受けていた時期がありましたが、近年では伊達勢が布陣したとされる山王山と両軍の配置、小競り合いを伝える記録類などからみて、郡山駅西口の「稲荷館」(陣屋)を郡山城に比定する説の方が有力となっているように思われます。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月18日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/11 )
 「楽して一城」の目論見ならず
 事前に所在地情報等を「城郭図鑑」さんのHPより入手させていただいておりました。しかし市街地内であるということに加えて、余りに近辺の交通事情と道路事情等に疎いこともあり、時間の浪費ともおもったものの宿泊した郡山市内のビジネスホテルから片道約2キロほどの距離を徒歩にてアプローチ。
 現地には案内板のようなものは見られなかったのの、城跡は確かに桜木町1丁目の台地を中心とした地域に相当することは間違いがなさそうな印象。もとより概ね市街地化したその現状からは、明確な遺構等を確認できるような状態には非ず。 また北側の中心部には宅地分譲予定地の看板が立てられ、本格的な造成工事そのものは開始されてはいないもののすでに大きく地形が改変されている様子も窺えました。
 城跡の名残りについて強いて挙げるとするならば、最大比高差8メートルほどの台地北縁部と東側の細長い都市公園に面した辺りの崖線付近に何処と無く面影が残されているようにも見えます。

 多少の起伏を伴う地形が含まれているとはいえ、僅か往復4キロ強の道程さえも時速約4キロ前後という余りの情けなさ。遠征3日目とはいえども、この歩行速度の著しい低下現象に確実に体力の衰えを痛感して暫し呆然とする始末。帰路には予め目星をつけておいた地元の地酒と名物の土産物を購入して、取敢えず所期の任務を達成したのでありました。

「郡山城の台地」 ⇒ 画像クリックで拡大します
郡山城跡の台地
( 2008/06/18 北側より撮影 )
訪城アルバム
原則的に画像クリックで拡大します
「郡山合戦の顕彰碑」か? ⇒ 画像クリックで拡大します
「懐かしの琺瑯看板」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 郡山合戦の顕彰碑?
 梅雨入り前の眩いばかりの強烈な紫外線が降りそそぐ郡山の市街地をてくてくと...途中市内の善導寺境内で偶然拝見したもので、刻まれた碑文によれば郡山城主伊東摂津守に従って討ち死にを遂げた横山氏についてその子孫の方々が建立したもののようです。( ⇒画像が逆光で然も漢文体のため誠に恥ずかしながら委細不明 )
 もちろん明治期のものなのでさほど古いものではありませんが、現地の城跡には殆ど何も残されていないという状況ではこれもまた関連史跡の一つなのかも知れません。

凸2 懐かしい琺瑯看板
 こうした杉材を用いた下見板張りの民家もあまり見かけなくなりました。地方によって相違があるとは思われますが、一般にこうした外壁が施工されていたのは建築基準法の耐火基準が強化される以前の恐らく昭和30年代の前半頃までかと思われます。なお、誠に失礼ながらその外壁としての経年変化等から判断いたしますと、昭和30年前後のものと推定されます。
 従いましてこの懐かしいキンチョールの琺瑯看板の設置年代は昭和30年代後半あたりということになるのでありましょうか。

「郡山城」が所在した台地を貫く県道142号線 ⇒ 画像クリックで拡大します
「郡山城跡」の宅地分譲予定地 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 郡山城を東西に貫く県道
 「業務スーパー」と「東京靴流通センター」のライン(現在は都市公園化された「せせらぎこみち」と名付けられた小河川が介在)の向こう側が、かつて郡山城が所在した台地に相当します。
 なお、当時の両者の勢力の位置関係から想定しますと、おそらく佐竹・蘆名の軍勢は、この小河川を挟んで「業務スーパー」の左側方向(南東あるいは南側方向)に所在する小高い台地付近に布陣したものと推定されます。
 ただし、郡山城の範囲は最大でも東西約500m、南北300mから400mほどと推定されていることから万余の軍勢が包囲するには、やや不釣り合いのような印象も受けました。
 この点「三春町史」等では佐竹・芦名勢4千、伊達勢6百(恐らく郡山城、窪田城の人数を除く人数)余りと記され、軍勢の規模についてはやや過少なようにも思われますがどちらにしてもその真相は不明なのでありました。
凸4 宅地分譲予定地
 郡山城の北西部に相当する逢瀬川に面した河岸段丘は既に一部造成が開始されているようにも見えましたが、この時点では一時的に中断しているようにも見えました。
 沼舘氏の下記の著書によりますと、「今城址付近は人家周密し或は菜園と化し、遺構は明らかでない。全くの平城で拠るべき地区地物に乏しい。巨大なる濠渠と土居とは唯一の防御築設物であったと思われる...それらの土塁濠渠は今は殆ど見られぬが、今城地の北辺に少しの遺跡が窺われる」と記されています。
 こうした昭和20年代の前半の踏査においてすらも、耕地化、宅地化がすすみ明確な遺構を把握しづらいという状況であった模様です。また、この辺りの地形については正にその僅かに遺された景観の一部であったのものとも考えられますが、現状はこのような状態なので当時の面影があるといえばある、無いといえばないというような印象の光景が展開しておりました。


城跡の東端に相当する「せせらぎこみち」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「薔薇の花」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 郡山城の東端部
 「せせらぎこみち」と名付けられた郡山城東端部の細流と台地の崖線で、この辺りの比高差は目測で5m前後でした。
 なおこの小川は郡山城の南側から東側へと大きく回り込んで回り込んで逢瀬川に合流しているため、ことによると天然の堀として利用されていた可能性もあるのかも知れません。
凸6 丁度見頃の薔薇の花
 郡山城へ向かう途中の民家の道路際に咲いていたものなので城跡とは直接の関わりはありません。しかし見頃の被写体としては誠に申し分なく加えて光線の加減も丁度よく作為のない比較的自然な色合いで写りそうな予感が...
 かくして、キンチョールに続いて貴重な時間を次々と潰していたのでありました。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「戦国時代の城」(2009/峰岸純夫ほか編著/高志書院)所収の「軍事施設としての中世城郭」(松岡進)
同書によりますと、松岡氏は郡山合戦における郡山城について、広長秀典、柳田和久らによるJR郡山西側の「稲荷館」を紹介し有力視するとともに、元来から通説となっている当該「郡山城」については、佐竹・蘆名連合軍の付城と推定しています
郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「三春町史1通史編」(1982/三春町)
「三春町史7中世資料編」(1978/三春町)
 ⇒所収の 「奥陽仙道表鑑」に「久保田合戦之事」として読み下し文が掲載されています。下記の「図説戦国合戦総覧」の記述は概ね「伊達成実日記」とこの軍記に依拠しているように思われます。

史料・資料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒「諸国廃城考」(1770 編纂)

「図説戦国合戦総覧」(1977/小和田哲男 著/新人物往来社)
 ⇒当時静岡大学助教授であった小和田哲男氏による執筆で、「窪田の戦い」として両軍の布陣合戦の経過と岩城常隆、石川昭光らの仲介による講和の模様が記述されています。同書によれば「安積表の合戦」「郡山の陣」とも呼ぶとのこと。

「史伝 伊達政宗」(2000/小和田哲男 著/学研) 「伊達政宗 知られざる実像」(1986)を文庫化したもの
 ⇒天正16年大崎氏攻略の敗北に始まる政宗の苦境を背景に「窪田の戦い」の概要が記されている。

「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

白河市役所公式HP


・2008/08/11 HP暫定アップ
・2008/08/13 画像説明追加訂正
・2008/08/24 「郡山合戦」関係の資料・史料に関する記述の追加・訂正
・2009/07/18 松岡進氏の見解等を追加
・2017/02/13 「稲荷館」を郡山城に比定する説を加筆し、「稲荷館/郡山城」のページを作成し参照できるようにした。
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