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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/16のブログ 片平下館 片平鹿島館 中村館
所在地
 福島県郡山市片平町字上館、字新町
歴史、人物、伝承

安積伊東氏最後の拠点か
 平地の下館に対して片平上館ともいい、 鎌倉時代の初期に安積伊東氏の一族が東側の下館に暮らしはじめ、その後戦国時代にはより防御性の高い西側の丘陵に城をかまえたものという考え方もあるらしいのだが、その詳しい関係は不明である。また研究者の間ではこの片平に館を構えた伊東氏が継続して安積伊東氏惣領家であったと見るのか、或いは庶子家であるのかについては見解が分かれているようであるが、何れにしてもその始まりは安積伊東氏一族の館跡に由来するものであるこだけはまず間違いはないものと考えられる。
 安積地方は15世紀半ば戦国時代の初め頃には、早くも会津蘆名氏の影響下に置かれていたとされていた。しかしその後幾度かの三春田村氏による安積地方への侵攻が行われたが、天文20年(1551)の畠山氏、白川氏の仲介を背景として蘆名盛氏と田村隆顕の和睦が一時的に成立を見ることとなった。しかしその際に、安積伊東氏の名跡と名代とそれぞれに分けて安積地方に関する権益を領有するという痛み分けとなった感がある。( ⇒ この名跡・名代については、「蘆名盛氏証文」の記述解釈に「新版郡山の歴史」と「図説郡山・田村の歴史」「三春町史通史編」「田村町史通史編」などの記述の間で多少の差異が見られ、そのに解釈ついては統一されてはいない傾向も感じられる、※下記参考資料参照)この正に名実を振り分けたような「玉虫色の決着」ともとれる不安定な領有形態が次なる動乱へと繋がっていったのかも知れない。
 伊東氏が支配していた領有していたとされる片平城については、天正4年(1576)三春田村氏の旗下にあった大内氏により攻略され、当時城主であった伊東大和守はその庇護者である会津蘆名氏を頼り城を明け渡したとされている。このとき片平城は大内義綱の二男親綱(大内氏綱の弟)に与えられ、その名字を片平姓へと改め、伊東氏本流の安積伊東氏名代であった領主としての家系は事実上途絶えたものとされている。( ⇒ 「郡山市史」482頁、「新版郡山の歴史」42頁など ※異説あり、下記参考資料参照)
 その後、片平氏は蘆名、伊達とめまぐるしくその盟主を変えていくが最終的には伊達氏の影響下に置かれた。また「仙道記」によれば「天正19年蒲生式部がこの館を拝領した」旨の記述があるともされ、これが片平城を指すのか、片平下館を指すのかは必ずしも明確ではない。こうしたことから仮に早ければ蘆名氏滅亡の直後、あるいはどれほど遅くとも徳川氏による一国一城令が出されたのちには廃城となりその役割を終えたものと考えられる。 別名を上館、片平館、片平上館などともいう。

確認可能な遺構
 郭、土橋、切岸、小口(丘陵北西部と愛宕神社に遺構が残存している)、城跡標柱あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月15日 13時30分から14時30分
訪城の記録 記念撮影


 遺構の大半は消滅するも
 東側の愛宕神社の境内にもコの字型の土塁が現存していますが、これとは別に西側約150mほど離れた丘陵部にも、城跡の一部として2か所の郭をはじめとして小口、土橋、土塁、切岸などの一連の遺構がしっかりと残されておりました。 この遺構へのルートは丘陵地帯(字中館辺りか)の削平により、現在では愛宕神社から直接向かうことはできません。 いささか迂回路にはなりますが、愛宕神社の参道の分岐を南側に回り込みそのまま新町と呼ばれる集落を通過し、突き当りの丁字路を右折(「嬉しい案内標識」の画像参照)すると、正面に「片平城の遠景」と題した画像の個所が見えますので、介護施設の脇を過ぎてそのまま真直ぐ北へと向かい民家東側の小道を道なりにすすめば小口へと続いています。(愛宕神社の分岐からは約500mほど) なお、愛宕神社に参詣したところ賽銭箱の付近に都合80円分の硬貨(現流通通貨)を発見したので、手持ちの小銭と合わせてお参りさせていただきました。
 このようにして郡山市3日目は、確実なところで11城館、その他4か所という結果に終わりました。 その翌日には少なくとも帰りがけに篠川館くらいは訪れる予定でおりましたが、生憎と突然の降雨に見舞われてしまったことなどにより、また生憎と市立図書館も耐震改修工事のため長期休館でもあり資料調べもままならず、そのまま帰宅の途につくこととなってしまいました。年々歳々体力の低下が顕著となってきましたが、明らかに気力の方もこれに比例して減衰してきたようです。

( 2017/10/10  記述)

片平城主郭付近か ⇒ 画像クリックで拡大します
片平城主郭付近か
( 2016/11/16 撮影 )
訪城アルバム
愛宕神社鳥居 ⇒ 画像クリックで拡大します
愛宕神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 愛宕神社鳥居
 当時の文部省、県教育委員会などが軸となり1982年度から1984年度に行われた基本的な悉皆調査であるはずの「福島県の中世城館跡」(1988年3月報告)では、残存遺構に関する記述はこの愛宕神社の部分のみが記されています。さらにそれ以前の一般的な普及資料である「日本城郭全集」と、この記述を踏襲したと思われる「日本城郭大系」において遺構に関する詳細な記述を欠いています。このため現在でも北西部に残像している2か所の郭、これを繋ぐ土橋状地形、切岸、小口などの存在が希薄であるように感じられます。上町と中町の間の十字路を西へ150mほど進むとこの鳥居のところに出ます。
凸2 愛宕神社社殿
 「福島県の中世城館跡」において郭跡等として明示されている場所になります。
人家にも近接した集落のなかの低丘陵なのではありますが、「クマ出没注意」の警告表示もあります。人家とクマの生息域が近接する昨今では、この片平城を含めた逢瀬川沿いの低丘陵地帯を訪れる際には、くれぐれもご注意いただいた方が良さそうです。
 なお愛宕神社に参詣したところ、賽銭箱の付近に若干の古銭並に都合約80円分の硬貨(現流通通貨)を発見したので、手持ちの小銭と合わせてお参りさせていただきました。

片平城 ⇒ 画像クリックで拡大します
愛宕神社の丘陵 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 片平城
 東端の愛宕神社境内裏の土塁上から西側に所在する片平城の郭跡方面を撮影したものです。以前に行われた土砂の採掘により、手前の愛宕神社と向こう側の郭遺構とは事実状切り離されてしまっています。
 このため西側の遺構に向うには、愛宕神社からはいったん東へ60mほど戻り、南西方向にのびる新町集落内の道を約200mほど道なりに進んでいくと「画像6」の丁字路の個所に出ます。
凸4 愛宕神社の丘陵
 愛宕神社が所在している丘陵はその南北がこのように削り取られてしまっているために独立丘陵であるように見えますが、元々南北方向に細長くのびた形状の丘陵であったように思われます。

船の舳先のような ⇒ 画像クリックで拡大します
城跡への案内板 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 船の舳先のような
 愛宕神社の境内地は比高差5mほどの崖地となっているため、下手に降りますと崩落を起こしたり負傷する可能性がありますので、この平地部分に赴くには北側からぐるっと回り込まねばなりません。
凸6 城跡への案内板
 「画像3」の個所から新町集落内の通りを約200mばかり南西方向に向かいますと、この木札の案内板が所在する地点に到達します。
 画像の右側に見える段丘は耕作地化などにより形態が変貌してはいますが、元々は片平城の一部を構成していた郭跡等である可能性が考えられます。

西側郭跡へ ⇒ 画像クリックで拡大します
西側郭跡への登り口 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 西側郭跡への分岐
 「画像6」の個所から丁字路を北向きに右折し、そのまま100mほど緩い上り坂を直進しますとこの光景が目に入りますが、西側郭跡へはこちらの民家の右側(東側)の細い通路をお邪魔させていただく以外にはルートはありませんでした。
 なお、画像の個所を左側にすすんでしまいますと水路の方へと下り丘陵西麓に出てしまいますが、そちら側からのルートはありませんでした。一部発掘調査が行われ掘立柱穴、井戸、陶磁器などの遺物が検出されたのはこの画像の左側台地付近のようです。
凸8 西側郭跡への登り口
 すこし遠慮をしながら分岐から右側の道を50mほどすすみますと、この「入口」の標柱などが設置されている個所へと到達します。尤もすでに「画像7」の個所からでも、この「クマ注意」の黄色い標識がよく見えることから恰好の目印ともなっていました。この地点からややきつい斜面を登ることとなりますが、斜めに道が刻まれているため息が切れるような暇もないうちに郭部分に到達します。この比高差は約15m前後です。

小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
切岸状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 小口付近
 南側郭の小口付近の画像です。画像の右側に尾根筋地形が見えるのですが、進入禁止の柵が設置されているように、途中からは切落された地形となっているため、崩落、転落の可能性もあり極めて危険な状態となっていました。
凸10 切岸状地形
 「画像9」の個所を郭上から撮影したもので、方位から見ても南側に面していることから、こうした郭面は耕作地として利用されていた時期もあるものと考えられます。果たしてどこまでが城跡としての名残であるのかは判別が難しいのですが、いちおう切岸ともいうべき地形的特徴を有しているように感じました。

南の郭(西曲輪) ⇒ 画像クリックで拡大します
南郭の西側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 南の郭(西曲輪)
 南側の郭で西曲輪という標識が設置されていましたが、これはおそらく東側の愛宕神社との位置関係から呼称しているものではないかと思いました。
 できることならば簡易な「遺構全体の縄張り図」のようなものが設置されていると有り難いのですが。
凸12 南郭の西側土塁
 南側の郭には土塁は全周はせず、西側部分のみに低土塁が崖線上に残存しています。なお「篝火台」の用途は祭事用かキャンプ用などのアウトドア用のものなのかは分かりません。

南郭からの眺望 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 南郭からの眺望
 丘陵の比高差はせいぜい20mほどなのですが枝の刈り払われている個所からの眺望は良好です。
凸14 北の郭から
 北側の郭から土橋状地形と南側の郭を撮影したものです。
神社の鳥居だけが目立つ北側の郭は南側よりもやや整地が甘くいくぶん傾斜面も残っています。北麓へと下る里道もありましたが途中からは藪がひどく通行は難しそうでした。

字中館方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真より編集加工 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸15 字中館方面
 「字中館」とも「中館」とも呼ばれ居館が置かれたなどとも云われている辺りなのですが、土砂の採掘により大きく地形が変貌しているため地表上からの手がかりになるような痕跡は認められませんでした。。
凸16 国土地理院航空写真より
 画像の左側が丘城となる片平城で右側が平地に所在する片平下館です。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林)
 ⇒ 掲載あり、ただし西側の遺構に関する記述が確認できない
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
 ⇒ 掲載あり、ただし歴史的経緯などについては「日本城郭全集」の記述内容をほぼ踏襲している
・「日本城郭全集「2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 ⇒ 掲載あり、「伊東大和守に実子が無く、大内親綱を養子とし後に片平姓へと改めた」との記載あり

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
 ⇒ 掲載あり、寛永5年書上(※いわゆる寛永諸家譜を指すのか)に「伊東大和守に実子が無く大内親綱を養子とした」という経緯を提示
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社) ⇒ 掲載あり
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述している。大内氏による片平城の攻略と伊東大和守の会津退転、大内親綱が片平に改姓した経緯を略述。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市)
 ⇒ 関連記述あり、「安積の名代は蘆名盛氏の若子が入嗣する」旨の記述がある
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 ⇒ 関連記述あり、安積氏名跡を田村氏が管理し、蘆名盛氏が田村隆顕の次子を名代に据え蘆名の勢力圏である片平城に居住させた(※事実上の人質か)
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
 ⇒関連記載あり、「安積氏名代は蘆名氏の若子の入嗣とする」「片平城は大内氏により攻略され伊東氏会津退転の後は大内親綱が領した」としている
・「三春町史第1巻」(1982/三春町)
 ⇒ 関連記述あり、「安積氏名代は盛氏の子息が継ぐ」との解釈
・「田村郡郷土史」(1904/田村郡教育会、1988/復刻版)
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」
・「図説郡山・田村の歴史」(2000/郷土出版社)
 ⇒「安積伊東氏の名跡は田村氏に、その名代は蘆名氏に一任する」旨の解釈

史料、地誌
・「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) ⇒ 関連記述あり
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)
 ⇒ 関連史料所収、解説において「安積の名跡は蘆名からの若子の入嗣による」としている
・「三春町史第7巻」(1978/三春町) ⇒ 関連史料所収

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院) ⇒ 関連記述あり
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその関連する城館についての考察がある。
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)航空写真画像を編集加工した

・2017/10/10 HPアップ
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