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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/16のブログ 中村館
所在地
 福島県郡山市片平町字鹿島
歴史、人物、伝承

経緯不詳の独立丘陵
 「まほろん」(福島県文化財データベース)「郡山市文化財包蔵地マップ」「福島の中世城館跡」(福島県教育委員会/編著)には何れも鹿島館とのみ表記されていますが、郡山市内には同様の名称をもつ中世城館跡は少なからず存在していることから、あくまでも便宜上の表記として「片平鹿島館」と表記することした。
 また「鹿島」の地名は「かつて鹿島神社(片平の上館築城の際に鬼門除けとして奉祀したと伝う)が所在していたことによるもの」とされ、明治42年の台風で倒壊し、段子森に移築され片平神社と改称された」といわれている(「郡山の地名」2005年/郡山市より)また同書に掲載されている明治期に作成されたと思われる鹿島の地籍図にはこの丘陵部分がそっくり抜け落ちていることから、少なくとも明治期にはある程度の遺構が現存していたことも推定される。
  この地を中世城館跡とするのは「相生集」(幕末に編纂された地誌のひとつ)に記されていることによるもなのたが、その歴史的経緯の詳細については不明とされている。

確認可能な遺構
 丘陵、切岸 ?、堀跡?、郭?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月16日 午前9時45分から10時15分
訪城の記録 記念撮影


 突然の強風
 舘跡の周辺は広大でなだらかな低丘陵丘陵とその谷津を利用した水田地帯が広がる地形で、片平城からみると鬼門とされる東北東約1.5kmほどの地点に所在する独立丘陵です。水田面からの比高差は最も高い部分で8m近く(北側はそれよりもだいぶ低い)を有していることから、西側を南北方向に走る郡山西部広域農道側から眺めますと、平坦ではありますが相当に存在感のある地形が目に入りますのでまず迷うようなことはありません。
 現状は揚水ポンプにより水を引き込みそのほぼ全域が水田として利用されていることから相当程度の地形改変が含まれていることが推定されます。規模は東西方向約200m、南北方向約150mに及ぶ浅い谷津の入り組んだ不正形地状を呈していました。
 終戦後間もない時期に撮影された在日米軍の航空写真によると、こうした谷津田は終戦後に開発されたもののようにも思われ、丘陵北西部の削平は戦後の圃場整備などによるものと推定されます。かつての郭跡の形跡やその北側にあるL字形をした堀跡の痕跡などを見て取ることもできますが、現在ではそうした大半の痕跡は棚田としての水田耕作の進展などにより元々の形状を確認することは難しくなっておりました。
 なお、南側からアプローチを行い丘陵の最高地点まで到達した直後、一切の遮るものがない独立丘陵上にて俄かに風速20m/秒前後の突風が吹き荒れました。時間でいえばたかだか20秒前後くらいのものでしたが、一瞬体が強風にもって行かれそうな恐怖を覚えました。お陰様で姿勢を低く両足を前後踏ん張り無事に乗り切ることができましたが、この時ばかりは自分の体重の重さ(たぶん85kg+α)に感謝するという貴重な体験を味わいました。

( 2017/09/21  記述)

片平鹿島館の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
片平鹿島館の航空写真(国土地理院航空写真から)
( 2016/11/16 撮影 )
訪城アルバム
艦船のような遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
丘陵南側 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 艦船のような遠景
 西側の市道から撮影したものですが、200m以上距離をとらないと全景が納まりきれない規模の大きな独立丘陵です。画像右側のいくぶん高く見える辺りが主郭であったものと想定されます。
凸2 丘陵南側
 比高5mほどの高さしかないのですが、このように台地がかなり切り立っていますので余り端の方には行けませんでした。子の地形を「切岸」とみるのか、元々の自然地形と見るのか、圃場整備などにより切土された跡と見るのか悩みます。

推定主郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 推定主郭付近
 左手に中段の棚田が見えますが、ひとつ前の「画像2」はその棚田の畔部分から左手の方角を撮影したものです。なお、上空に写り込んでいる灰色の雲が急速に広がると同時に猛烈な強風に見舞われました (^^ゞ
凸4 推定主郭付近
 上記航空写真の下の方に見える弧状の部分に相当し、土塁状の地形を呈してはいますが、おそらくは水田面がある程度掘り下げられその残土を盛土したようにも思われます。同航空写真をよく観察しますと、旧鹿島神社跡と思われる木立らしい姿が見えます。しかしその部分にこうした弧状の地形は確認できないようですので、戦後の圃場整備に伴う地形改変と考えるべきなのかも知れません。

最高地点 ⇒ 画像クリックで拡大します
切り落とされた地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 最高地点
 全体として眺望に優れた地形ですが、この画像のように特に逢瀬川が流れる南方側の眺望に優れています。なお、土塁状に見える畔の凹み部分はポンプアップした農業用水の流路です。
凸6 切り落とされた地形
 切岸か、自然地形か、安積疎水整備後における大規模な圃場整備にともなう切土などによるものなのか・・・迷います (^^ゞ

2014年撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
周辺の城館跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 2014年撮影の航空写真
 サイト更新時点では最も新しい航空写真画像です。だいだいの丘陵地形が残存し、どうにかL字型の地形も確認はできますが、すでに丘陵北西部は削平された水田に変貌しています。
凸8 周辺の城館跡
 東西1.5km×南北1.2kmという決して広くはない領域に6個所の城館跡が密集しています。また画像左上(北西)にも狐館、西狐館があり、画像右下にも東西の権官館が所在しています。ちなみに諸資料を見るかぎりでは片平町地区の中世城館跡は少なくとも14か所が存在し、このほかにも字西館、舘山など気にかかる個所が数か所あったりします。「蒲生領高目録」の数値が正しいとすれば片平は約3000石弱の所領とされてはいますが、それにしてもかなりの密集度となります。

交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)掲載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)掲載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているが、この館についての言及はない。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)掲載なし
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 「表7 安積地区の城館」として編纂された一覧に記載あり。
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」字名の由来について記載がある

史料、地誌
・「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)記載なし
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその関連する城館についての考察がある。
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)航空写真画像を編集加工した


・2017/09/21 HPアップ
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