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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/21のブログ 前館 平館 芹沢館
所在地
 福島県郡山市西田町三町目字穴沢
歴史、人物、伝承

穴沢氏の移住と今泉氏
 かつては阿武隈川東岸の氾濫原である微高地に存在していたが、1980年代頃の圃場整備や小河川の流路改修などにより地表上からほぼその姿を消滅してしまったかのような印象もある城館跡ではある。しかし下記の国土地理院航空写真などからも明瞭な形跡が残され、その所在地を含め周囲の景観の変遷についてもある程度は把握できる。
 1982年に行われた発掘調査などにより、掘立建物柱穴、経塚、陶磁器のほかに空堀、土橋、郭などの存在が確認されているが、土塁についてはその時点ですでに消失していたとされている。
 「郡山市史第1巻」の記述によれば、天正16年の郡山合戦の際に伊達氏側の軍勢の一部が布陣した可能性を示唆しているが、おそらくは高倉方面から阿武隈川西岸を南下する旧奥羽街道を睥睨し監視する役割を果たしていたという可能性は濃厚であると考えられるが、その当時の館主についての詳細は不明である。
  遡って、「相良文書 北畠親房袖判沙弥宗心書状」(延元4年、1339年、「三春町史第7巻資料編32」)からは、南北朝時代の初頭頃には田村氏一族の穴沢佐衛門尉成季の居館であったとことが知られている。
  次に「白川文書 吉良貞家奉書」(観応2年、1351年、「郡山市史第8巻資料編」46」、「足利尊氏?御判御教書案」正平8年、1353年、「郡山市史第8巻資料編」59)からは、南朝方の宇津峯城落城により田村荘司家が勢力を失い、北朝方の白川顕朝が「三与田(御代田か)、穴沢、八田河」と闕所の検断職(地頭職)を宛がわれた旨が知られている。
 しかし、後年の「応永一揆連判状」(応永11年、1404年)では、穴沢の領主として田村氏一族とされる穴沢宮内少輔秀朝が連判状に加わっていることから、事実上の検断権がある程度は復活していた可能性も想定される。
 その後16世紀半ば過ぎには穴沢信徳(あなざわ のぶのり)が永禄7年から9年(1564〜1566)にかけて、蘆名氏家臣として伊達輝宗の会津侵攻を撃退する旨の記録も伝わり、時代はさらに下り天正15年から同18年頃(1587から1590)には三春田村氏領の西方要害の一つとして「三城目居館 今泉主水」と記されるに至ったが、三城目館=穴沢館であるという史料もなく、またこの信徳が阿武隈川東岸の穴沢氏と直接関連しているものなのかも明確とはいえない。

確認可能な遺構
 なし(藪の中を逐一確認はしていない)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月21日 13時45分から14時05分
訪城の記録 記念撮影


 空堀と郭のゆくえ
 現状ではおおむね森林となっている辺りに主郭が存在していたものと推定されるのですが、樹木が鬱蒼と叢生しており内部の様子を窺う気力を奪われてしまうとともに、あわせて己のあまりの足回りの脆弱性に呆れ果てました。
 2007年8月撮影の国土地理院航空写真でも郭の形状が明確に撮影されてはいますが、新旧の航空写真を比較した限りでは、おそらくは郭跡の土などを利用して空堀跡の低地を埋め戻しているのではないかと思われました。
 そうしたこともあり、いつの日か再訪することができましたら、郭辺縁部の様子を確認すべく東側の農道の方からアプローチしてみようと考えておりますが、そうした行動にトライできるのもそう長くはなさそうなのでこのまま消化不良に終わるのかも知れません (^_^;)

( 2016/11/03 記述)

北側方向から ⇒ 画像クリックで拡大します
北側方向からの遠景
( 2015/10/21 撮影 )
訪城アルバム
北西から見た穴沢館 ⇒ 画像クリックで拡大します
南郭が確認された辺り ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 南側からの遠景
 画像右上のやや小高い林が東西50m、南北70mの主郭部分と考えられますが、発掘調査当時には3mから5mの比高があったとされていますが、外側からはそれほどの比高差の存在を感じませんでした。
凸2 南郭が確認された辺り
 少なくともこの辺りの空堀跡は埋め戻されていることは間違いがなさそうです。

野生化したコスモス ⇒ 画像クリックで拡大します
西側から眺めた主郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 野生化したコスモス
 だいぶ以前に観賞用に植えたものでしょうか、南郭とされる辺りの西側の耕地脇に咲いていました。
凸4 西側から眺めた主郭付近
 間違ってもこの方面から主郭内部へ入り込むのは、地面も柔らかく些か足元も危ういので躊躇されました。

旧天秤川跡か ⇒ 画像クリックで拡大します
北西から見た穴沢館 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 旧天秤川跡か
 河川改修と圃場整備などにより川筋が変わった現在の天秤川はこの画像左手の辺りを西に流れていますが、その改修前にはこの低丘陵の裾を流れていたものと推定されます。
 この地を訪れたのは晴天が続いている時期でしたが、いまだに足元は緩くかつて水路が存在していたという名残を身を以て感じました。
凸6 北西から見た穴沢館
 発掘調査報告書や下記の航空写真(画像7、8)から推定しますと、黄色い野草(セイタカアワダチソウなど)が群生しているあたりに「北郭」(画像中央のやや左側付近)が存在していた模様です。

2007年8月12日撮影の国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
1948年3月26日在日米軍撮影の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 2007年8月12日撮影の国土地理院航空写真
撮影高度2300m
CT020072
コースC4
写真番号21
 主郭南の南郭については、寧ろ右の画像よりもはっきりしており、現在でも概ねこの景観が維持されているように思われました。
凸8 1948年3月26日在日米軍撮影の航空写真
撮影高度2438m
R1172−98
 館跡の堀跡がかなり鮮明に撮影され、その北側を流れる天秤川は大きく蛇行を繰り返して、北郭の辺縁部を廻り込むような形で阿武隈川へと注いでいました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
 三丁目に所在しているとされる「前館」の項には注目すべき内容を含み、「舘地は方100mの広さで周囲に堀および土塁が廻らされている。城地は西側阿武隈川に臨み南北に谷地が入り込み小流が流れている..東方は丘続きとなっている(以下略)」とあり、その文面をみるかぎりでは平地に築かれた城館であることを想起させるものがあるが、その後における穴沢氏の会津地方への退去が正しければ、三城目館は「平館」である可能性が高くなるかも知れない。

・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているが、この穴沢館については収録されてはいない。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
 三城目村は正保2年(1645)に三丁目村から分村され、その後明治12年になり再び三丁目村に合併されている。この三城目(いわゆる美称)という地名が仮に近世の正保年代以降の新たな地名であるとすれば、「田母神氏旧記」自体の記述に対する疑問も発生することとなるが、熊野神社新宮年貢帳や熊野神社新宮領差出帳にみる「三町ノ目」「三町目」の当時における地名表記の曖昧・不安定さを考慮に入れれば、必ずしも三城目の地名自体が戦国期からのものではないと断言できるものではない。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 時の奥州公方に対する忠勤を誓約したとされる応永11年(1404)の田村氏一揆連判状(秋田藩家蔵白川文書)では、この地に関連している人物として田村氏一族とされる「穴沢宮内少輔秀朝」の名が見られる。
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが一部割愛されている部分もある。
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
・「三春城と仙道の城−三春城築城500年記念 平成16年度春季特別展図録」(2004/三春町歴史民俗資料館)
 田村地方(主に阿武隈川中流域東岸の三春田村氏支配領域)の村と城館に関して一覧表形式で約200か所近くを収録しており、穴沢館の館主として穴沢佐衛門尉成季などの名を記している。
・「三春町史第1巻」(1982/三春町)
 故小林清治氏による田村氏の権力構造とその家臣団に関する論考などが収録されている。

史料、地誌
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)
・「三春町史第7巻」(1978/三春町)
 戦国期田村氏の基本資料として欠かすことのできない「田村家臣録」「田母神氏旧記」などの資料を収録している。

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその関連する城館についての考察がある。
・「郡山東部3−穴沢地区遺跡」(発掘調査報告/1983/郡山市教育委員会)


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