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山口城(児泉城)
関連ページのリンク  2005/02/05の日記  滝の城  北秋津城  
所在地
埼玉県所沢市大字山口字児泉1517
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態6 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯4 総合30
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によると近世末の時代には打越村の南の端に所在しており、大きくは山口領に含まれ柳瀬郷(庄)ともいわれ、また鎌倉街道の枝道と伝わる道が通っていたとされている。「所沢の文化財と風土」や「所沢史話」によれば「児泉城」とも呼ばれているとのことである。

■山口城と村山党山口氏について ( 下記の参考資料などより ) 
 桓武平氏の流れを汲む平忠常の孫にあたる村山党の祖平頼任は村山の地に ( 東村山または瑞穂町との見解あり ) に居を定め、村山貫主とよばれ多くの馬を飼育し一族の長として大きな勢力があった。そして、その後頼任の子頼家の子の代に入り、村山氏の一族は入間郡の各地に分散し居を定めるようになる。山口氏は12世紀の後半に、村山頼家の子村山小七郎家継が山口の地に館を構え山口氏 ( 山口七郎 ) を名乗るようになったことに始まるという。一族には下記の通り大井氏、宮寺氏、金子氏、難波田氏、仙波氏、小越氏(越生氏)、横山氏、広屋氏(広谷氏)、須黒氏(勝呂氏、勝氏)などの諸流があるという。

頼任---頼家┬--家綱 ( 大井五郎大夫 )
├--家平 ( 宮寺五郎 )
├--家範 ( 金子六郎 )---高範 ( 難波田小太郎 )
└--家継 ( 山口七郎 )┬--家信 ( 仙波七郎 )
└--家俊 ( 山口六郎 )┬--家恒(小越氏)---恒高 ( 須黒氏 )
├--家光 ( 横山氏 )
├--某  ( 広屋氏 )
└--家高 ( 久米氏 )

■源平の合戦の山口氏
 村山党の一族は保元の乱(1156年)の時に源義朝に従い、「保元物語」には金子十郎、仙波七郎と共に「山口六郎」の名が見える。次に「源平盛衰記」によれば、元暦元年(1184年)木曽義仲追討の時に源範頼に従い、続く「一ノ谷の合戦」では源義経に従ったとされている。また「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に伴い「山口小七郎」の名がある。さらに、承久の乱(1221年)では「吾妻鏡」によれば宇治橋合戦で負傷した者の中に山口兵衛太郎 ( 家継の孫の季信か ) の名があり、寛元3年(1245年)の鎌倉での放生会には山口三郎兵衛尉 ( 季信の子信景か ) などの名が出てくる。
■平一揆の敗北
 しかし、「栄華物語」によれば、南朝方の新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した正平22年(1367年)の河越氏、高坂氏を中心とした武蔵平一揆に加わったものの、居城が鎌倉公方方 ( 足利氏満 ) の攻撃を受け、当主山口高清は急ぎ川越から戻るものの落城に間に合わず東の瑞岩寺で自害を遂げ、夫人は稚児を抱いて池に身を投げたと伝えられている。 ( 河越館が落城したので山口に戻り自害したという説もある ) しかし、永徳3年(1383年)高清の父高実と子の高治は再び南朝方と共に兵を挙げるがあえなく討死することとなる。
■根古屋城の築城
 その後、高清の孫に当たる小太郎高忠は応永年間(1394〜1428年)に西の勝楽寺にある根古屋城を築城し一時山口氏の本拠を移したが、戦国時代に入り山口城も土塁や水濠などが拡張されたらしい。更に、後北条氏の時代「小田原衆所領役帳」に他国衆の山口平六が山口の内、大鐘、藤澤、北野の地を40貫文で知行していたとされている。また、元亀3年(1572年)には山口平四郎資信が北野天神の天神縁起の修復を指示していることが、埼玉県の指定文化財となっている現存する天神縁起の絹本の軸木から読み取れるということである。
 近世に入り城郭の大部分は耕地となり、近代に入り道路や鉄道の軌道が走り遺構はかなり破壊されたものの、東側の土塁の一部と西側の土塁・空堀が残されている。

確認できる遺構
土塁、空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■所沢市の南西部に位置し、狭山丘陵の椿峰が迫る標高79から90mの緩斜面にあり、当時においては城のすぐ南側を柳瀬川が大きく蛇行しながら東へと流れていた。北西の丘陵地帯を除く周辺は水田地帯であったとされており、現在の状況からは窺い知ることのできない天然の要害であったと考えられている。また、梅沢氏は著書の中でその規模について東西200m、南北100mとしているが、一方所沢市の下記の説明版では梨の木戸などの旧地名などから東西400m、南北200mという城域に関する説明があり分かりにくい。木戸の存在や外郭部などの総構えを想定するかどうかの違いなのであろうか。

参考資料、古文書、
記録

「写真集 所沢」(1986年/所沢市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「所沢市史 通史編 上」(1991年/所沢市発行)
「所沢市史 文化財・植物編」(1985年/所沢市発行)
「所沢史話」(1974年/所沢市教育委員会編集発行)
「所沢の文化財と風土」(1977年/所沢市教育委員会発行)
「所沢市史 中世資料」(1981年/所沢市発行)
「所沢市史」(1957年/所沢市)
「所沢ふるさと散歩」(1973/所沢市立中央公民館発行)

文化財指定
埼玉県指定記念物 旧跡 1962年10月1日指定
訪城年月日
2005/02/05
訪城の記録

( 2005/02/05 )
どんな形にせよ残されてよかったのでは
 北秋津城を後にして次の予定は山口城だったのですが途中2回ほど道を間違えて久米川辻の交差点付近をぐるぐると2周してしまいました。このあたりは東京の東村山市と埼玉の所沢市との境で、八国山の丘陵もあったりして道路が半端でなく曲がりくねっていますので、などと言い訳を(^^;
 ちなみに「八国山」という名称の謂れは武蔵、上野、下野、信濃、甲斐、相模、駿河、伊豆の山々が見えるので、こう呼ばれたらしいと「新編武蔵風土記稿」の山口領久米村の条に記述されています。標高僅か100m前後の丘陵地帯ですが、狭山丘陵の東端にあたるので、現在でもそうですが当時においては確かに眺望が良かったものと思われます。
 古くは新田義貞の軍勢が元弘三年(1333年)布陣したとつたえられる将軍塚が一番東の外れにあります。また最近でもないですけど、アニメの「となりのトトロ」で登場する「七国山」は多分この「八国山」がモデルとなっているようです。
 そのあと何とか無事に西部園の競輪場の近くまで辿りついて、またもや道を間違えて都営住宅の団地の中に迷い込みました。道路は工事しているし、丁字路に標識はないし、あっても見えないし......(^^; しかしそこからは順調に西部園の遊園地の前を通り山口城址通を北上し、西部狭山線の踏み切りの手前のところで線路沿いの2号土塁の姿がいきなり目の中に飛び込んできました。(^^)

土塁とショッピングセンター
 諸先輩方のサイトなどで目にしていたとはいえ、電車の線路とショッピングセンターに囲まれた遺構というのはある種の驚きと感動があります。保存運動などの動きもあって残されることとなったということですが、踏切やショッピングセンターなどの日常的風景の中に歴史的存在である中世城郭遺構の土塁が自然に溶け込んでいるというのが率直な感動の理由でしょうか。
 自分自身はいざ知らず、少なくとも日常的にここで生活をしている地元の方々にとっては次第に慣れ親しんだ見慣れた風景になりつつあるような感じがしました。ここの半地下方式の駐車場に車を止めさせていただいたので、このショッピングセンターでこまごまとした雑貨など623円の買い物を...箸が3組で89円とは破格の値段。
 城跡めぐりをしていて食事以外の買い物をしたのはこれが始めての経験(^^)

稚児ヶ池の伝承--武蔵平一揆の乱に敗れた山口氏
 慶安元年(1368年)の武蔵平一揆の時、山口氏は一揆の中心の河越氏の側につき鎌倉公方側に攻められ落城したといわれています。「ところざわふるさと散歩」によれば、そのとき「山口の殿様の小姓が、馬に乗ったまま、その池に入って死んだ」「殿様の奥方が子どもを抱いて池に沈んだ」という伝承があるそうです。
 そこで、大正期に入ってから刊行された「入間郡誌」を調べてみると、山口城址の項で、「兒ヶ池は二、三坪の小池のみ。然も落城の時山口夫人兒を抱て死せりと云い、或は一人の兒童、馬を馳せて池中に死せりと傳う。一種の説話なり。」とされています。
 さらにもう少し以前の「新編武蔵風土記稿」では、町谷村の塁蹟の記述の中に「この塁蹟の続き農家民右衛門が構の内に小なる池あり、是を兒ヶ池と呼ぶ、何れの年の合戦にや、一人の童子馬を馳せ来り、過て池中に乗入れて死せしなどいえど覚束なし」と記述されていて、やはり伝説・伝承というものは本当に曖昧なもののようです。

Best Shot?

 周辺には「堀の内」「城上」「梨の木戸」「藤の木戸(伝承地名)」といった城跡であったことを示す地名が残されています。
 また「所沢市史」によれば、山口城の名称は武蔵七党の村山党の村山小七郎家継が築城し、山口氏を名乗った所から呼称されているそうです。

 ( 2005/02/05 撮影 晴 )
交通アクセス

・西部狭山線下山口駅より県道を西に徒歩8分、西武バス山口城跡停留所下車徒歩1分
MapFan Web の案内図です


( 2005/02/05 撮影 )

■「1号土塁(現地の説明版による名称)」とよばれるもので、「2号土塁」の北側に平行に位置している。高さ2mから3m以上あり東西23mの直線状を呈している。発掘調査により、南側の2号土塁と共に20m×35mの小郭を形成していたことが判明している


■「2号土塁」で、西武狭山線の線路とこのショッピングセンターの敷地の間に所在している。高さ2m以上、東西23mで西側が幾分北側に向かうような形になっている。ショッピンクセンターの駐車場側から見るとその場所が半地下方式に掘り下げられているために、実際の高さよりも大きく見えてしまう。


■南側の線路沿いの空き地から見た2号土塁の東部分。

■2号土塁(左)と3号土塁(右)で間の低くなっている場所は「稚児ヶ池」(雉子池とも呼ばれているらしい)という近世初期の溜池らしい。柳瀬川に架かる児泉橋のコンクリート製の構造物に登って撮影した割には、どうって言うことがない画像です。落ちると4m下には柳瀬川が流れています(^^;

■西側から見た「3号土塁」。土地の管理者が設置したよく目立つ注意書ですが、せめて文化財なので大事にしましょうというコメントがほしい所です(^^; 高さ2m以上で東西16m、南北18mのカギ型状の土塁。

■東側から見た「3号土塁」で山口城全体の南東の角に位置しています。「山口大明神」という稲荷社の小さな祠があるのですが、遺構として何んとか残されたのもご利益と思い参拝しようと思ったのですが、フェンスに囲まれていて入れません。致し方なく、心の中で山口大明神に感謝を(^^)

■山口地区の文化財マップ。

クリックで拡大します

■城跡のかなり詳しい説明版。クリックすると拡大します。以前はこの場所にもう一つ土塁らしきものがあったのですが、近年の発掘調査により宅地造成に伴う残土であることが判明したようです。

■北西400mにある城上公園。狭山丘陵の尾根の先端部分に当りますが、もうこのあたりは山口城の領域ではないようです。

■城山公園の坂の途中から土塁の多く残るあたりを撮影。向かって右側の木の植えられている部分(藤森稲荷神社)も土塁・空堀であるとのことで、城域の北西の端に当たります。左側の崖に様に見える部分は山口小学校校庭のコンクリート擁壁。

 
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