■「新編武蔵風土記稿」の記述によると近世末の時代には打越村の南の端に所在しており、大きくは山口領に含まれ柳瀬郷(庄)ともいわれ、また鎌倉街道の枝道と伝わる道が通っていたとされている。「所沢の文化財と風土」や「所沢史話」によれば「児泉城」とも呼ばれているとのことである。
■山口城と村山党山口氏について ( 下記の参考資料などより ) 桓武平氏の流れを汲む平忠常の孫にあたる村山党の祖平頼任は村山の地に ( 東村山または瑞穂町との見解あり ) に居を定め、村山貫主とよばれ多くの馬を飼育し一族の長として大きな勢力があった。そして、その後頼任の子頼家の子の代に入り、村山氏の一族は入間郡の各地に分散し居を定めるようになる。山口氏は12世紀の後半に、村山頼家の子村山小七郎家継が山口の地に館を構え山口氏 ( 山口七郎 ) を名乗るようになったことに始まるという。一族には下記の通り大井氏、宮寺氏、金子氏、難波田氏、仙波氏、小越氏(越生氏)、横山氏、広屋氏(広谷氏)、須黒氏(勝呂氏、勝氏)などの諸流があるという。
頼任 | --- | 頼家 | ┬-- | 家綱 ( 大井五郎大夫 ) |
| | | ├-- | 家平 ( 宮寺五郎 ) |
| | | ├-- | 家範 ( 金子六郎 ) | ---高範 ( 難波田小太郎 ) |
| | | └-- | 家継 ( 山口七郎 ) | ┬--家信 ( 仙波七郎 ) |
| | | | | └--家俊 ( 山口六郎 ) | ┬--家恒(小越氏)---恒高 ( 須黒氏 ) |
| | | | | | ├--家光 ( 横山氏 ) |
| | | | | | ├--某 ( 広屋氏 ) |
| | | | | | └--家高 ( 久米氏 ) |
■源平の合戦の山口氏 村山党の一族は保元の乱(1156年)の時に源義朝に従い、「保元物語」には金子十郎、仙波七郎と共に「山口六郎」の名が見える。次に「源平盛衰記」によれば、元暦元年(1184年)木曽義仲追討の時に源範頼に従い、続く「一ノ谷の合戦」では源義経に従ったとされている。また「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に伴い「山口小七郎」の名がある。さらに、承久の乱(1221年)では「吾妻鏡」によれば宇治橋合戦で負傷した者の中に山口兵衛太郎 ( 家継の孫の季信か ) の名があり、寛元3年(1245年)の鎌倉での放生会には山口三郎兵衛尉 ( 季信の子信景か ) などの名が出てくる。 ■平一揆の敗北 しかし、「栄華物語」によれば、南朝方の新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した正平22年(1367年)の河越氏、高坂氏を中心とした武蔵平一揆に加わったものの、居城が鎌倉公方方 ( 足利氏満 ) の攻撃を受け、当主山口高清は急ぎ川越から戻るものの落城に間に合わず東の瑞岩寺で自害を遂げ、夫人は稚児を抱いて池に身を投げたと伝えられている。 ( 河越館が落城したので山口に戻り自害したという説もある ) しかし、永徳3年(1383年)高清の父高実と子の高治は再び南朝方と共に兵を挙げるがあえなく討死することとなる。 ■根古屋城の築城 その後、高清の孫に当たる小太郎高忠は応永年間(1394〜1428年)に西の勝楽寺にある根古屋城を築城し一時山口氏の本拠を移したが、戦国時代に入り山口城も土塁や水濠などが拡張されたらしい。更に、後北条氏の時代「小田原衆所領役帳」に他国衆の山口平六が山口の内、大鐘、藤澤、北野の地を40貫文で知行していたとされている。また、元亀3年(1572年)には山口平四郎資信が北野天神の天神縁起の修復を指示していることが、埼玉県の指定文化財となっている現存する天神縁起の絹本の軸木から読み取れるということである。 近世に入り城郭の大部分は耕地となり、近代に入り道路や鉄道の軌道が走り遺構はかなり破壊されたものの、東側の土塁の一部と西側の土塁・空堀が残されている。
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