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鶴馬城(宮崎氏陣屋)
関連ページのリンク  2004/12/19の日記   2004/12/20の日記  多門氏館    
所在地
埼玉県富士見市諏訪2-6,7,8
歴史と沿革

■ 別名「殿山」
 「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、「屋敷蹟 是も同じ方(巽=南東)にあり、土人殿山と呼ぶ、高さ1丈ばかりの丘にて廻りに堀の跡あり、砦など構えし所と見ゆ、ここにも古の地頭宮崎氏の居跡なりと云う」とされ、1988年の発掘調査により台地の中央部で折のある深さ2mの堀が確認され、徳川氏の旗本宮崎氏の陣屋であったことが半ば確定的に推定されている。
 しかし諏訪神社方面を含む規模の遺構であるとした場合には、最終的に3500石の高禄となったとはいえ一旗本の居館としては規模が大きすぎるようであり、多門氏館と同様に戦国末期の後北条氏の有力家臣の居城であった可能性が大きく浮かび上がるのではないだろうか。
■宮崎氏の陣屋
 宮崎備前守時重は徳川秀忠に仕え、大阪の陣の軍功により500石を賜り、その後、家光・家綱にも仕え寛永11年(1634年)には備前守に任じられ3500石の高禄を知行し明暦2年(1656年)67歳で死去した。(「富士見市史 通史編」より)

確認できる遺構
現在地表で視認できる遺構はありません。
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■武蔵野台地の北東の先端に位置し、南北方向に約100m、東西方向に約250mの規模を有し、比高は8mから10m程度あり、台地続きとなっている南西側を除いて要害性は極めて高いことが窺え、約1km北東を新河岸川が北西から南東に向けて流れている。
■多門氏館は北北東約200mの近距離に所在していることから、後北条氏の支配の時代においても何らかの関連があって然るべき地理関係である。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「富士見市史 通史編 上」(1994年 富士見市教育委員会/編集・富士見市/発行)
「富士見市史 資料編2考古」(1986年 富士見市教育委員会/編集・富士見市/発行)発掘当時の記録、多門氏についての記述が詳しい。
「郷土ふじみ第2号」(1972年 富士見市郷土史同好会/編集・発行)
「富士見風土記」(1980年 富士見市教育委員会/編集・発行)
「神社と神々」(井上順孝監修 1999年/実業之日本社刊行)
「民間信仰辞典」(桜井徳太郎編 1980年/東京堂出版刊行)    

文化財指定
訪城年月日
2004/12/19、12/20
訪城の記録

( 2004/12/19 )
ここも発掘中、しかも樹木伐採のおまけまで付いて......
 富士見台中学校が目印。というか、それそのもの場所で多門氏館から南東に直線で400メートルほどの近距離に位置する。こちらの方は、流石に「城」と名がつくだけあり規模はなかなかのもの。同じ台地の先端部分とはいえ比高もざっと12m位あり、崖の傾斜もきつく登攀を試みたが、何かに掴まらないと無理なことが判明(^^;
 実は、この場所も現在埋蔵文化財の発掘調査中でした。宅地開発が行われるのでしょうか、重機のキャタピラの道が刻まれ、以前に生えていた見事な木々は一本残らず伐採され、かなり悲惨な状態に........(^^;
 テニスコート脇の土塁状の土の段差は遺構なのか、学校の整地に伴う段差なのか。うーむ分からない。多分に中学校の造成時の段差であると思われますが。
 それにしても実に寂しげな茫漠とした風景写真になってしまったなあ.....。

( 2004/12/20 )
翌日は諏訪神社の方を参詣に
 そんな前日の訪城でしたので、付近に所在する諏訪神社の境内も鶴馬城の領域らしいことが分かり参拝をかねて探索。
 もちろん具体的な遺構は確認できませんでしたが、道路を挟んだ反対の北側の畑の段差にもなにやら意味があるように思えてきました。
 いずれにしても、現在進行中の発掘の成果がまとまれば何か新しい事実が分かってくるのかもしれません。
(追記)2004/12/23に脇の道路を通ったときも、祝日にもかかわらず大勢の発掘関係者が作業を遂行している様子でした。

Best Shot?
■諸先輩のサイトの画像では樹木がしっかりと根付いた城跡の崖線が見事な調和を見せていたのですけど.......今は残念ながら、このような状態となってしまいました(^^;
 赤く見える鳥居は崖の中腹にある庚申塔です。
庚申信仰 は干支の庚申を基にしており、中国の道教の影響を受けもともとは平安貴族の年中行事のようなものでした。本来は長命厄病除けの信仰であり、その後陰陽道、仏教、神道と結びつき、江戸時代には庶民の間で庚申講として流行した民間信仰であるということです。
 庚申の夜に行われた庚申待を3年続けた証に庚申塔をつくり、さらに塚の上に庚申塔を立てた庚申塚もつくられました。
 庚申の崇拝対象は青面金剛やサルタビコを本尊としていますが、庚申待では真言や般若心経を唱えたあと、宴会と歓談に及び徹夜をするという娯楽性の面もあるものであったようです。写真の庚申塔には「延宝二年」(1674年)と刻まれていましたが、相応しい移転先はあるののでしょうか。
 ( 2004/12/19 撮影 曇 )
交通アクセス

・東武東上線鶴瀬駅より北東へ徒歩約20分。市内循環バス台中下停留所より徒歩1分。富士見台中学校の敷地。 


( 2004/12/19 撮影 )

■ブルーシートをかけての発掘作業ですが、当日は日曜日のため作業はお休み。切り株のあとが痛々しく見えてしまうのですが....そういえば自分が生まれた場所の近くに「庚申塚」、「新庚申塚」という都電の停留所があった....確か都電の路線番号は「19番」だと記憶しているが....40年前の話で....
■この斜面が登れそうでなかなか登れない....あとで知ったことですが、何も登らずに上にある中学校の脇の畑のほうから行けることを知りました(^^;
■中学校のテニスコートの脇の畑でも、発掘作業が行われているようです。南側の鶴瀬駅からの市道を北上してくると、かつては規模の大きな舌状台地であったことが窺われます。
■テニスコートのほうから見ると土塁に見えてしまう性分で(^^;....たぶん中学校を建設する際の造成による掘削のための段差だと思いますけど。

( 2004/12/20 撮影 )

■富士見台中学校の道路を挟んで北側にある畑の段差。2段になっており、下の方が約3m弱、上のほうが2m弱あります。この辺りも城域であった可能性もありそうですが、あくまでも推測ということで。
■北側の道路から見た富士見台中学校の高台、つまり鶴馬城跡。比高差はこの辺りでは8メートルほどですが場所により最大で12メートルぐらいあります。
「大けやき」
富士見市指定の保存樹木第1号の「大けやき」で、城跡の北側に所在する諏訪神社のご神木。台風か落雷の自然災害のため、幹の一部に人の手が入った補修の跡があります。
■諏訪神社は厄病除け、厄除け、家内安全、交通安全...健康増進とここまで来ると、もう何でもというような(^^;境内社として八幡神社、八雲神社も所在する。
 祭神は「建御名方神」(タケミナカタノカミ)で出雲の国譲りで敗北し信濃に土着した神様で本来は農業の神様。
■樹齢数百年という様子が、太い幹周りと力強く張られた根がありありと物語っている。
■拝殿を正面から。笠木の反増しが少ないように見えますが、鳥居の形式はたぶん明神鳥居らしい。諏訪大明神ということで.....
■拝殿を南西側から撮影。この神社と氷川神社の間の道は以前仕事で100回以上も通っているのですが、参拝を含めてゆっくりと拝見したのは初めてで....。
 以前の遺跡の発掘のとき中世城館関係の遺構も確認されたので、従って鶴馬城の城域についてもこちらの方に及んでいたらしいということです。
 「富士見市史」によれば、上幅約10m、深さ約3mの堀が発掘されているということで、2の郭に相当するものではないかと推定しています。
■一方、こちらはお隣の氷川神社。参道の長さはこちらの方が長く、より神社らしい空間となっているような気がします。
 祭神はスサノオノミコトとクシナダヒメ、大国主命で埼玉の大宮(現さいたま市)に本社があり荒川と多摩川に挟まれた一帯に集中している。大宮の本社は古代の出雲族が武蔵国造として赴任したときに祀ったことを起源とするという。
■氷川神社の境内に続いている地元の名所「雲井の滝」。小さな谷津が形成する湧水による渓流が本来はあったと思われます。
 人工的な手が入れられているものの、周囲が崖線により囲まれており、なかなか歴史的な雰囲気を感じさせる場所です。こちらのほうは鶴馬城との城域としての接点は無いそうですが。
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■氷川神社の縁起。画像クリックで拡大します。五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、交通安全、学業振興などにご利益が....そういえば受験生と思われる若い人が参拝していた....境内社に北野天神もあることだし。
 
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