「所沢市史」などによれば以下の通りである。 ■築城年代・城主については、資料も少なく不明な点が多いが、山口庄、山口郷と呼称されていることから城主については山口氏を想定するのが妥当である。城主について「新編武蔵風土記稿」には山口氏の家臣伏見小太郎および山口太郎の名が見える。しかし、「武蔵野話」「勝楽寺村地誌」「江戸名所図会」などでは後北条氏の家臣山住彦三郎としているが、「山口氏系図」を基に総合的に見て山口小太郎高忠を築城主としている。
■なお、「系図」から築城の時期は明徳・応永(1390〜1428年)の頃と推定されている。「龍谷」 ( リュウガイ )とは山地や丘陵の先端・山頂を占める要害堅固な城郭の表現である「要害」の訛であり、県内にもにも同名の城跡は少なくない。また、この城は居館としての形態ではなく砦の要素が強いため、平時は麓の根古屋に居住し戦時に城に立てこもったと考えられている。 ( 「山口貯水池小誌」より ) また、築城の当初は本郭と二の郭程度から構成される小規模な直線的な連郭形式であったものが、時代を下るに従い整備拡充されていったものであるとしている。そこで従来の本拠地である山口城のその後戦国期の拡充を考えると、両城は直線でも3km以上離れていることから、16世紀の後北条氏の時代にはどちらが本拠地とされていたのかという疑問がわいてくる。下記の「小田原所領役帳」に見る山口平六の知行分が、仮に山口氏一族の全ての領地であったとすれば、山口城に山口氏、根古屋城に後北条氏の家臣山角氏という棲み分けも想定できるのではないだろうか。
■村山党山口氏について 桓武平氏の流れを汲む村山党の祖平頼任は村山の地に居を定め、村山貫主とよばれ大きな勢力があった。その後頼任の子、頼家の子供の代に入り、村山氏の一族は入間郡の各地に分散し居を定めるようになる。そうしたなか、山口氏は12世紀の後半に、村山頼家の子村山小七郎家継が山口の地に館を構え山口氏 ( 山口七郎 ) を名乗るようになったことに始まるという。
村山党の系譜頼任 | --- | 頼家 | ┬-- | 家綱 ( 大井五郎大夫 ) |
| | | ├-- | 家平 ( 宮寺五郎 ) |
| | | ├-- | 家範 ( 金子六郎 ) | ---高範 ( 難波田小太郎 ) |
| | | └-- | 家継 ( 山口七郎 ) | ┬--家信 ( 仙波七郎 ) |
| | | | | └--家俊 ( 山口六郎 ) | ┬--家恒(小越氏)---恒高 ( 須黒氏 ) |
| | | | | | ├--家光 ( 横山氏 ) |
| | | | | | ├--某 ( 広屋氏 ) |
| | | | | | └--家高 ( 久米氏 ) |
■源平合戦と山口氏 村山党の一族は保元の乱(1156年)の時に源義朝に従い、「保元物語」には金子十郎、仙波七郎と共に「山口六郎」の名が見える。次に「源平盛衰記」によれば、元暦元年(1184年)木曽義仲追討の時に源範頼に従い、続く「一ノ谷の合戦」では源義経に従ったとされている。また「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に伴い「山口小七郎」の名がある。さらに、承久の乱(1221年)では「吾妻鏡」によれば宇治橋合戦で負傷した者の中に山口兵衛太郎 ( 家継の孫の季信か ) の名があり、寛元3年(1245年)の鎌倉での放生会には山口三郎兵衛尉 ( 季信の子信景か ) などの名が出てくる。
■平一揆の敗北と山口氏の弱体化 しかし、「栄華物語」「山口氏系図」などによれば、南朝方の新田義宗などの挙兵に呼応した正平22年(1367年)の河越氏を中心とした武蔵平一揆に加わったものの、居城が鎌倉方の攻撃を受け、当主山口高清は急ぎ川越から戻るものの落城に間に合わず東の瑞岩寺で自害を遂げ、夫人は稚児を抱いて池に身を投げたと伝えられている。「鎌倉大日記」によれば、この後鎌倉府による平一揆に対する処分が下され所領の没収などが行われたらしい。このことを不満とし永徳3年(1383年)高清の父高実と子の高治は再び新田氏の残党、下野の小山氏などの南朝方と共に兵を挙げるがあえなく討死することとなる。その後高清の子修理大夫高治の時「系図」によれば鎌倉府に降り武蔵守護の上杉家の家臣として存続したという。
■根古屋城の築城と山口氏支配の終焉 その後、高清の孫に当たる小太郎高忠は応永年間(1394〜1428年)に勝楽寺にある根古屋城を築城し一時山口氏の本拠を移したが、戦国時代に入り山口城も土塁や水濠などが拡張されたらしい。
高忠山口小太郎 「明徳・応永の頃新堀村の山上に城を築き、龍谷の城と名づく、龍谷跡は山口領勝楽寺村に在り...」 ( 「系図」より )
更に、後北条氏の時代永禄2年の「小田原衆所領役帳」(1559年)に他国衆として山口平六が山口の内、大鐘、藤澤、北野の地を40貫文で知行していたことが窺える。これと前後し高忠から5代目の山口主膳高種の時、北条氏康の攻撃により根古屋城が落城し後北条氏の家臣となったようで、この合戦の時に根古屋城の改修・拡張が行われたらしい。また、元亀3年(1572年)には山口平四郎資信が北野天神の天神縁起の修復を指示していることが、埼玉県の指定文化財となっている現存する天神縁起の絹本の軸木から読み取れるということである。 なお、天正18年の後北条氏の滅亡後当主山口大善は一時徳川から仕えたが、その後浪人したとのことであるが、現在の城郭遺構は、この後北条時代の支城としての整備拡張によるものであろうとされている。
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