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根古屋城(龍谷城)
関連ページのリンク  2005/02/05の日記  山口城    
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態4 探し易さ3 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯4 総合26
所在地
埼玉県所沢市勝楽寺、上山口にまたがる狭山湖の北岸
歴史と沿革

 「所沢市史」などによれば以下の通りである。
■築城年代・城主については、資料も少なく不明な点が多いが、山口庄、山口郷と呼称されていることから城主については山口氏を想定するのが妥当である。城主について「新編武蔵風土記稿」には山口氏の家臣伏見小太郎および山口太郎の名が見える。しかし、「武蔵野話」「勝楽寺村地誌」「江戸名所図会」などでは後北条氏の家臣山住彦三郎としているが、「山口氏系図」を基に総合的に見て山口小太郎高忠を築城主としている。

■なお、「系図」から築城の時期は明徳・応永(1390〜1428年)の頃と推定されている。「龍谷」 ( リュウガイ )とは山地や丘陵の先端・山頂を占める要害堅固な城郭の表現である「要害」の訛であり、県内にもにも同名の城跡は少なくない。また、この城は居館としての形態ではなく砦の要素が強いため、平時は麓の根古屋に居住し戦時に城に立てこもったと考えられている。 ( 「山口貯水池小誌」より )
 また、築城の当初は本郭と二の郭程度から構成される小規模な直線的な連郭形式であったものが、時代を下るに従い整備拡充されていったものであるとしている。そこで従来の本拠地である山口城のその後戦国期の拡充を考えると、両城は直線でも3km以上離れていることから、16世紀の後北条氏の時代にはどちらが本拠地とされていたのかという疑問がわいてくる。下記の「小田原所領役帳」に見る山口平六の知行分が、仮に山口氏一族の全ての領地であったとすれば、山口城に山口氏、根古屋城に後北条氏の家臣山角氏という棲み分けも想定できるのではないだろうか。

■村山党山口氏について
 桓武平氏の流れを汲む村山党の祖平頼任は村山の地に居を定め、村山貫主とよばれ大きな勢力があった。その後頼任の子、頼家の子供の代に入り、村山氏の一族は入間郡の各地に分散し居を定めるようになる。そうしたなか、山口氏は12世紀の後半に、村山頼家の子村山小七郎家継が山口の地に館を構え山口氏 ( 山口七郎 ) を名乗るようになったことに始まるという。

村山党の系譜
頼任---頼家┬--家綱 ( 大井五郎大夫 )
├--家平 ( 宮寺五郎 )
├--家範 ( 金子六郎 )---高範 ( 難波田小太郎 )
└--家継 ( 山口七郎 )┬--家信 ( 仙波七郎 )
└--家俊 ( 山口六郎 )┬--家恒(小越氏)---恒高 ( 須黒氏 )
├--家光 ( 横山氏 )
├--某  ( 広屋氏 )
└--家高 ( 久米氏 )

■源平合戦と山口氏
 村山党の一族は保元の乱(1156年)の時に源義朝に従い、「保元物語」には金子十郎、仙波七郎と共に「山口六郎」の名が見える。次に「源平盛衰記」によれば、元暦元年(1184年)木曽義仲追討の時に源範頼に従い、続く「一ノ谷の合戦」では源義経に従ったとされている。また「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に伴い「山口小七郎」の名がある。さらに、承久の乱(1221年)では「吾妻鏡」によれば宇治橋合戦で負傷した者の中に山口兵衛太郎 ( 家継の孫の季信か ) の名があり、寛元3年(1245年)の鎌倉での放生会には山口三郎兵衛尉 ( 季信の子信景か ) などの名が出てくる。

■平一揆の敗北と山口氏の弱体化
 しかし、「栄華物語」「山口氏系図」などによれば、南朝方の新田義宗などの挙兵に呼応した正平22年(1367年)の河越氏を中心とした武蔵平一揆に加わったものの、居城が鎌倉方の攻撃を受け、当主山口高清は急ぎ川越から戻るものの落城に間に合わず東の瑞岩寺で自害を遂げ、夫人は稚児を抱いて池に身を投げたと伝えられている。「鎌倉大日記」によれば、この後鎌倉府による平一揆に対する処分が下され所領の没収などが行われたらしい。このことを不満とし永徳3年(1383年)高清の父高実と子の高治は再び新田氏の残党、下野の小山氏などの南朝方と共に兵を挙げるがあえなく討死することとなる。その後高清の子修理大夫高治の時「系図」によれば鎌倉府に降り武蔵守護の上杉家の家臣として存続したという。

■根古屋城の築城と山口氏支配の終焉
 その後、高清の孫に当たる小太郎高忠は応永年間(1394〜1428年)に勝楽寺にある根古屋城を築城し一時山口氏の本拠を移したが、戦国時代に入り山口城も土塁や水濠などが拡張されたらしい。

高忠山口小太郎
「明徳・応永の頃新堀村の山上に城を築き、龍谷の城と名づく、龍谷跡は山口領勝楽寺村に在り...」 ( 「系図」より )

 更に、後北条氏の時代永禄2年の「小田原衆所領役帳」(1559年)に他国衆として山口平六が山口の内、大鐘、藤澤、北野の地を40貫文で知行していたことが窺える。これと前後し高忠から5代目の山口主膳高種の時、北条氏康の攻撃により根古屋城が落城し後北条氏の家臣となったようで、この合戦の時に根古屋城の改修・拡張が行われたらしい。また、元亀3年(1572年)には山口平四郎資信が北野天神の天神縁起の修復を指示していることが、埼玉県の指定文化財となっている現存する天神縁起の絹本の軸木から読み取れるということである。
 なお、天正18年の後北条氏の滅亡後当主山口大善は一時徳川から仕えたが、その後浪人したとのことであるが、現在の城郭遺構は、この後北条時代の支城としての整備拡張によるものであろうとされている。

確認できる遺構
土塁、空掘、郭などが遺されているはずですが...近年東京都の水道局によりネットフェンスが設置されたことにより、一般的な見学は困難となっていますが結果的に遺構の保存状態は良好なのかもしれません。
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■築城当時は狭山丘陵から勝楽寺の集落向かい南に突き出た標高120mから135m尾根の先端部分に所在し、集落(根古屋)が麓に広がっていたと考えられますが、現在は狭山湖の半島の一つになっています。平城である山口城とは異なり防御効果も大きく、山口と八王子を結ぶ街道を扼する格好の立地条件だったのかもしれません。当時における比高差は20mから30mということのようです。資料によれば南北220m、東西220m、総面積48,400平方メートルの規模を有するという。

参考資料、古文書、
記録

「写真集 所沢」(1986年/所沢市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「所沢市史 通史編 上」(1991年/所沢市発行)
「所沢市史 文化財・植物編」(1985年/所沢市発行)
「所沢史話」(1974年/所沢市教育委員会編集発行)
「所沢の文化財と風土」(1977年/所沢市教育委員会発行)
「所沢市史 中世資料」(1981年/所沢市発行)所沢市内の城郭についての記述が最も詳しい
「所沢市史」(1957年/所沢市)
「所沢ふるさと散歩」(1973/所沢市立中央公民館発行)   

文化財指定
埼玉県指定史跡 1942年3月31日指定
訪城年月日
2005/02/05
訪城の記録

( 2005/02/05 )
立入り禁止
 かなり以前に、ぶらっと来たときのことで明確に覚えてはいないのですが、全く城跡に関心もない時のことです。その時分は殆ど自由に湖岸まで行くことができたはずですが、現在は周回道路の湖側は全て高さ2m以上のネットフェンスで囲まれて直接遺構に対面することは叶いません。たしか、昭和40年代の前半に2回ほど来たときには、ダムの近くには危険防止のための簡単な柵ぐらいはありましたが、そのほかの区域には何の障害物もなく実質的にほぼ自由に出入りができました。その後昭和50年代の前半でも同じようなものだったのではないかと記憶しています。
 また当時は城跡のある北岸の道はめったに人が通るような所ではなく、かなり閑散としていました。曖昧な記憶ですが湖岸まで入っていったような記憶があります。ただそれが何時のことだったか、この根古屋城跡であったかについては定かではありません。  完全に現在のようにフェンスで囲まれるようになったのは20年ぐらい前でしょうか。あくまでも推測ですが、東京都の水源池という性格上、水質の安全管理、水の事故防止、廃棄物の不法投棄防止、犯罪の抑止などの理由であろうと思われます。振り返ってみればそれだけ世の中が荒んできているということの傍証となるのでしょうか。そういえばかなり曖昧な記憶ですが、過激派対策でネットフェンスが設置されたというような新聞記事を見たような記憶があります。とすると昭和40年代の中頃ということになるのでしょうか。

即興演奏
 ダムの北側の「いきものふれあいの里(水鳥の楽園)」という公園では、若い男性2人組がストリートミュージシャン風の打楽器の即興演奏をしていました。風も少しあり広々とした湖畔の公園ですので、その音は周囲に拡散して思いのほか小さな音量になって風に途切れながら聞こえていました。
 水鳥の楽園とは言うもののハシブトガラスの大軍が湖畔の一帯を占拠してかなり賑やかな声を上げ、端の方で僅かな水鳥が遠慮がちに纏まっていました。

Best Shot?



 たぶん根古屋城があると思われるあたりの「半島」
( 注 )左の空中に浮かんでいる物体はUFOではなく、離陸上昇中の飛行機です(^^;
 ( 2005/02/05 撮影 晴 )
交通アクセス

・西武球場前駅より徒歩30分。狭山湖の北岸にありますが見学不可。MapFan Web の案内図です 


( 2005/02/05 撮影 )

■距離と地形の関係で推測すると、たぶんこの辺りが根古屋城のある半島というか尾根筋の付け根に当たるような気がします。この画像はデジカメをフェンスの隙間からレンズの部分だけ入れて撮影したものです。
 一ヶ所だけ工事のためフェンスが開いている個所があったのですが、不法進入となるので思いとどまりました(^^;
トトロの森の標識の拡大画像へ
■ナショナルトラスト「トトロの森」の第4号地。広さは僅か1平方メートルと書いてあります。
 狭山湖(山口貯水池)北側の丘陵地帯は残念ながら、かなり廃材置き場などに変貌し自然環境の悪化が目立ちます。
 経済成長とそれに支えられた豊かな暮らしの一方で、こうした負の遺産の存在についても考え直さなければならない時期に来ています。
この件について詳しくはこちらへ

財団法人トトロのふるさと財団


■東京都の水道局の管理下にあり、現在はこうした有刺鉄線付のネットフェンスで囲まれているために城跡の遺構との対面はできません。
■湖の周回道路は殆どが砂利道なので、ゆっくり走っても埃が立ち、道端の地蔵堂も埃にまみれていました。
■山口貯水池は昭和7年に通水が行われ勝楽寺の全戸と堀口一部の集落が湖底に没しました。新義真言宗辰爾山仏蔵院勝楽寺から名を付けられたこの村は狭山丘陵の深い谷の所沢から八王子に通じる街道に位置していました。谷深い村の民家では所沢飛白(かすり)などの織物が織られていたということです。
 「新編武蔵風土記稿」の「堀口村」の条には「殿屋敷蹟」という久松某という旗本の陣屋の記述があり、この遺構も湖底に沈んでいるはずです。
■狭山湖のダムの上の道路。土を締め固めてつくられたアースダムで昭和2年(1927)から昭和9年(1934)にかけて東京都の水がめとして多摩湖(村山貯水池)に続いて建設されました。
 以前は車が通れたと記憶していますが、現在は通行止めとなっています。
■西武ドーム球場の屋根がダムの上からよく見えます....だから何なんだといわれると返答に窮しますが。
■中央にある半島が根古屋城のある場所だと思います。
■はるか遠くに西部園の観覧車も見えます。なにぶん撮影するものが無くて...(^^;
説明版の拡大画像へ
■自然との共生を謳う説明版。中世遺構とも隔離せずに共生させて欲しいのですが(^^;
 
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