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高谷砦(城山)
関連ページのリンク  2005/03/21の日記  青山城  高見城  
おすすめ評価
訪城季節2 遺構状態6 探し易さ3 交通利便4 体力消耗3 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県比企郡小川町高谷字城山1294付近
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、「塁蹟 村の西にて今は林となれり、土人城山と呼ぶ、金子氏の人住せしと云...」とされ、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党の金子氏との関連を示唆しているが、「小川町の歴史」では築城形式や周辺の歴史的状況から室町時代から戦国時代にかけて築城された可能性を説いている。
 また、梅沢氏は「太田道灌状」の文明12年の記述にある「竹沢と高見の間に在陣、長尾景春を敗走させ高見在陣衆を置く」との内容から、この高谷砦を道灌が在陣した場所として想定している。

確認できる遺構
土塁、横堀、竪堀、土橋、堀切、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■高谷の交差点の西側500mの位置にあり、最高地点の標高は136m、東西120m、南北30mほどの丘陵地帯に範囲に2乃至3か所の郭が東西に一直線上に配置されている。本郭側は堀切を除いて明確な遺構が確認できないものの、二の郭は土橋や、竪堀・横堀風の小規模な空堀と土橋付近の小口を東側から固めている土塁などの遺構が確認できる。また、南北を市野川の支流の新川の細い支流が東流しているが、北側の谷津は湿地帯も多くかつ勾配も40度くらいの急傾斜であり完全にこの方面の外敵の圧力を遮断している。なお、「小川町の歴史」では高谷から奈良梨へ向かう南東側の間道に対する構えを重視した縄張りであるとしている。

参考資料、古文書、
記録

・「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
・「新編埼玉県史 通史編2」(埼玉県/1988編集発行)
 ・「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
・「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
・「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
・「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)
・「シンポジウム 埼玉の戦国時代」(2005年/史跡を活用した体験と学習の拠点形成事業実行委員会)

文化財指定
訪城年月日
2005/03/21
訪城の記録

( 2005/03/21 )
登口さえ分かれば10分もあれば
 昨年の初冬に来たときは、登口が分からずウロウロとして、おまけに雨が降り出して撤退を余儀なくされたのですが。今回場事前に役場のほうにも確認して登口を確かめてからの訪城ですので間違いようが無いわけで。高谷のセブンイレブンで昼飯を購入した後、能満寺の南側の道から小川パイパスの地下道を抜けバイパスに架かる陸橋を通り登口へと到達。そこからものの5分もかからずに東西の郭の中間地点の鞍部に到着。
 二の郭の南側の道は北西に進むと、みどりが丘のニュータウン方面に抜けるようです。本郭へは二の郭との間の堀切状の遺構の手前を右へ登っていけばすぐに本物の小さな堀切にご対面できます。しかしそこから先は殆ど踏跡がないので木の枝や倒木を除けながら標高の高いほうに進めばすぐに平坦な場所にでます。そこが本郭ですが眺望は北側の一部を除いてこの時期にもかかわらず全くありません。
 眺望が無いという点については西側の二の郭も同様ですが。二の郭が土橋や横堀、土塁など幾つかの特徴のある遺構が確認できるのに比べて本郭側は一層藪のひどいこともあり、南東側の土塁と思われる遺構の確認すら難しい状態です。また、この辺りの藪の中を彷徨中に小川町の防災無線を通じて、農作物を被害から守るために月末に「ハクビシン」の駆除を行うとの放送が流れていました。狸類と間違われて猟銃で撃たれては困るのでくれぐれもご注意を。
 ともかく全体として眺望が全く無いので、ある程度の遺構があるにもかかわらず城跡としての印象度を下げているといった按配です。なお、二の郭の南側の道の倒木を跨ぐときに倒木の尖った枝先と自分の右足の膝が衝突してしまいました。幸い歩行には影響が無かったのでそのままこの跡も訪城を継続することに。でも、あれから一週間近く経つのに未だ痣が消えない...

Best Shot?


 南西方向からみた高谷砦の本郭(右側)と二の郭への鞍部。左側の丘陵は二の郭から南へ延びるなだらかな稜線で、登りづらい本郭と比べ防御上の大きな弱点になっているようです。
 白く見えるフェンスは小川パイパスの歩道部分です。
 ( 2005/03/21 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線小川町駅より徒歩25分 MapFan Web の案内図です 


( 2005/03/21 撮影 )

■北東の能満寺側から見た高谷砦の本郭部分 ( 写真の左側 ) 。昨年の初冬登口が分からず、この勾配を無理やり這い上がろうとしましたが、全く無謀な挑戦でした。
■行く手を阻むマムシに注意の立て看板。こちら側の部分は谷津と丘陵の間に細い水路があり湿地帯となっている個所も多くマムシの生息するには好都合の環境のようです。
 間違ってもこちらから登ろうなどというような気持ちを起こさないように。どうしても北側から登りたいときにはかなり遠回りですが、「みどりが丘」の住宅地の方から迂回してください。尾根筋を間違えなければ到達するはずです。
■登口は国道254線小川パイパスの南側にあります。
 高谷の信号を渡るかバイパスの地下道を潜って、バイパスの南側にある北側に水路を伴う細い町道を西へ進むと、この馬頭観音の石碑のある場所にでます。
 高谷の交差点からは大体800mほど西の地点です。
■馬頭観音のある丁字路を右折して坂を上り、バイパスに架かる「上の山橋の陸橋」を越えます。
 3軒ほどの集落のための専用の陸橋ですが、私道ではなさそうなのでとりあえず安心して進んでいくきます。すると民家の庭先のような場所に出てしまいますが、物置のような建物の左脇に高谷砦への道があります。人様の庭先を横切るのですから、顔を合わせたときにはご挨拶を。
 ただ、よく吠える元気なやや大型の犬がいます。これがマムシに続く第二の関門で、犬に吠えられたくない方は、一度陸橋を渡ってから左側の畑の方に下りてから、左側の尾根に取り付いて正面に見える鞍部に向かえば大丈夫なはずです。
■東西の郭の中間にある鞍部へと向かう山道は見通しが悪いのですが、竹林の中を辿っていくと3分ほどですぐに竪堀風の堀切のある個所に到達します。
■資料などには記されていませんが、腰郭状の地形が竹林を行く山道の南側にあります。
 自然の地形だろうか、後世の竹木の切り出しのための削平地なのだろうか、それとも.....
■前の写真の場所を横から撮影すると、こんな感じなのですけど...
■堀切か竪堀かと、よく見ると正面には小規模ながらも一応土橋風の地形があるのでこれは空堀兼竪堀ということになるのでしょうか。山城だから横堀というべきか。
■みどりが丘の住宅地方面に抜けると思われる尾根筋の道が、西の二の郭から北西方面に伸びています。遺構とは関係なさそうですが、見事な痩せ尾根の形状ですので、これを堀切れば防御性はかなり向上すると思われるのですけど、そのような形跡は微塵も見られませんでした。
■尾根筋を縦に掘り切っているのでこれは堀切ということで。
 この場所は本郭の西側にあり、堀切と本郭の比高差は最大6メートルほどですが反対側の二の郭側は1mぐらいの比高差しかありません。なお、この場所から東へ登れば本郭なのですが道が無い....藪はありますが(^^;
 
■二の郭の東側の小口部分をカバーする土塁部分で、この周辺がもっとも遺構がよく残されています。「小川町の歴史」ではこの場所を独立した郭として捉え、東側の高台に櫓の存在を想定しています。
■土橋北側の横堀風の遺構で、現在でも深いところでは人の背丈ほどあります。
■標高126メートルの二の郭の中央部分で東西40m、南北20mほどの長方形ですが、小口となる土橋の東側に先ほどの土塁を伴うやや西側に傾斜した20メートル四方の小郭があります。
■季節は間違いなく一歩ずつ春に向かっているようで、谷津の畑の端ではオオイヌフグリが小さな花を咲かせていました。
■ご存知タンポポも幾つか元気に花開いています。
■陸橋を渡り坂道を下る途中から仙元山方面を望む。いずれにしても青山城は仙元山の陰になり見通すことはできません。
■町道脇の水路にはアヒルが4羽戯れていました。何故か1羽だけ離れた場所にぽつんと寂しく佇んでいました。どことなく、人間社会の縮図を見るようで...
■北東の能満寺側から見た高谷砦の本郭部分。比高40mから50mなのでどこからでも登れそうですが、これがなかなか難しい。
 
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