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浜崎陣屋(峡の陣屋跡)
関連ページのリンク  2005/02/21の日記  岡城    
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ3 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯1 総合16
所在地
埼玉県朝霞市浜崎4−11付近の台地上
歴史と沿革

■朝霞市の中世城館跡の岡城(岡の城山)以外のものについては「朝霞の城館址」(森春男氏「郷土史朝霞2」に所収)に詳しく記述されている。(朝霞市教育委員会のご教示による) これによれば「峡の陣屋跡」という呼称を使用しているが、一方「埼玉の中世城館跡」などでは「浜崎陣屋」と呼んでいる。「朝霞の城館址」で森氏は、持主の須田家はは旧浜崎村の名主を代々勤めており、明治維新後は旧内間木村役場を置いたこともあるので近世に陣屋が置かれていたのかもしれないと記している。
 「武蔵野田園簿」の記述によれば慶安2年(1649年)頃において、浜崎村は村高460石で深津長右衛門正武200石、貴志八郎右衛門33石、三枝土佐守守恵22石、富永喜左衛門正義30石、天領165石とされていた。このうちその多くを知行していた深津氏の所領支配は幕末まで続き他所と合わせて750石を領していたが、具体的な陣屋支配の記録は残されていないようである。(「朝霞市史」)

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■峡(ハケ)の山古墳のある北側を新河岸川に面した武蔵野線沿いの洪積台地上の東端にあり、南側には黒目川が流れ、これを挟んで1.2kmほど南東に岡城が所在している。平地との比高差は最大で15mほどでJR武蔵野線が北西側を走っている。

参考資料、古文書、
記録

「あさかの歴史」(1997年朝霞市発行)
「朝霞市史通史編」(1989年朝霞市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「朝霞の文化財 第一集」(1962年/朝霞市教育委員会発行)
「岡の城山 朝霞市文化財調査報告書台10集」(1983年/朝霞市教育委員会発行)
「郷土史朝霞1」(1983年/森春男編/朝霞市郷土史研究会発行)
「郷土史朝霞2」(1988年/森春男編/朝霞市郷土史研究会発行)
「朝霞の石造物3 市史調査報告書第11集」(1994年/朝霞市教育委員会発行)
「朝霞むかしむかし」(1986年/子どもの本を読む会編/朝霞市立図書館発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/02/21
訪城の記録

( 2005/02/21 )
土塁だと嬉しいのですが
 峡(ハケ)の山古墳のある新河岸川に面した武蔵野線沿いの洪積台地上にあり、古墳以外の明確な遺構はなく広々とした丘陵地帯が目の前に広がっていました。しいて言えばこの岡を縦断している道路の脇に土塁のようにも見える地形があることはあるのですが。
 江戸時代を通じて徳川の旗本の深津氏の領地であったようですが、残念ながら旗本の陣屋が置かれたとの記録の類はないそうです。しかし、小名として「ジンヤ」という地名が遺されているということから「浜崎陣屋」と呼称される場合があります。後北条氏時代の出城や物見のための砦などが、陣屋として伝承されたと見ることもできるような気がしますが、いずれにしても推測の域を出ません。また、かつて空堀状のものがあったというような話もあるそうですが、これも余りはっきりはしていないようです。

Best Shot?


 左側道路沿いの連続した土の塊は土塁のようにも見えるのですが、はっきりしたことは分かりません。
 画像の右上に遠く見える台地は岡城方面です。
 ( 2005/02/21 撮影 晴 )
交通アクセス

・朝霞市の給食センターの北側の台地で市内循環バス内間木支所前下車徒歩5分。MapFan Web の案内図です


( 2005/02/21 撮影 )

■「ハケの上古墳」に唯一現存する高さ約3m前後の円墳ですが、かつては前方後円墳だったかもしれないという説もあるようです。
 物見台、狼煙台であったという伝承が地元に残っているそうですが、古墳上に生えている太い木に近所のこどものブランコのような遊び道具が引っかかっていました。
■左側の円墳の南側からの遠景。この西側をJR武蔵野線が走っています。
■南側に緩い傾斜がかかった広々とした台地です。この林の中には小規模な削平地が残されていたというのですが、全く分かりませんでした。木立の奥の方にも入ってみましたが、冬季にもかかわらず木の枝や蔓の類が侵入者を拒み全体の様子も見通せませんでした。
■かなり後世の改変だと思いますが、微妙に見えてしまう地形。
■どうも土塁のように見えて仕方がないのです。右側の隅は3mほどの人工的な崖になって民家の宅地へと続いていました。
■20年ほど前に地元の郷土史研究者の方の纏められたものにも記述されていませんので......
■南東側から見た峡(ハケ)の山の遠景で、洪積台地の東の先端部分であることがよく分かる。
■台地の頂上付近から見た岡城方面。遠くに見える台地の左側がたぶん岡城のはずですが。
 
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