凸戦国期の城主は如何に 「群馬県多野郡誌」等によれば、後北条氏滅亡後の天正18年に藤岡城主芦田氏一族の依田小隼人が居城としたと伝わるが、南北朝期初期に豪傑としても名高い篠塚伊賀守が築城したとの伝承もあるという。 従って仮に築城時期が14世紀中葉とすれば、南北朝中期から戦国時代にかけての事実上の支配者については全く不明ということになる。また少なくとも依田氏が入封を受ける以前ににおいては、一定の在地勢力の存在が推定されて然るべきであると考えられるが、無論この点に関しても詳らかとされてはいない。 徳川氏の関東入府にあたり、新たに築城するよりは滅亡あるいは帰農した一族の城館を接収の上改修して使用するという形態も少なくないことから、遅くも16世紀初頭には地域支配の必然性から何らかの形で城館が存在していたものと推定することは困難ではないものと考えられる。 なお幕末期には城跡の南東部の一角に、旗本溝口氏の陣屋が置かれたともいわれている。 なおこの珍しい地名については、その昔日照りの際に観音堂が震動して恵みの雨を降らせたことから動堂観音と呼ばれ、それが地名に転化したものとして伝わっているという。(「角川地名大事典」より)
( 2008/11/05 ) 凸 やはりテクテク 関係資料によれば、東西、南北それぞれ200m以上の規模を有し北東の鬼門方向にに隅欠を持つ全体的に不整形な外郭部と、その中央部にやや不整形の五角形をした内郭を有する城館跡であったことが記されています。 無論今回も外郭を構成する堀跡と推定される道路を中心にしてテクテクとぐるっと一周を敢行いたしました。しかし予想通り堀跡の名残と推定される曲折した道路部分以外には、これといった人為的な遺構は確認できませんでした。 なお地形図上では概ね比高差に乏しい平坦地に立地しているように見えますが、実際に歩いてみた限りでは外郭西辺部について最大3mほどの高さの段丘状の崖地(藤岡台地)が存在しています。つまり自然の台地地形そのものが、西側外郭部分を形成しているという事実が判明いたしました。勿論たいした成果ではありませんが、実際に歩き回って地形上の特徴を捉える事の大切さを再認識することとなりました。 また、外郭の南側には旗本溝口氏の近世の陣屋跡といわれる規模の大きな方形状の宅地が現存していますが、その歴史的背景については全くの資料不足のため正確には把握できておりません(汗)
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