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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  動堂城 動堂城 動堂城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/20のブログ 中城 篠塚城 藤岡城
所在地
 群馬県藤岡本動堂前屋敷382
歴史、人物、伝承

戦国期の城主は如何に
 「群馬県多野郡誌」等によれば、後北条氏滅亡後の天正18年に藤岡城主芦田氏一族の依田小隼人が居城としたと伝わるが、南北朝期初期に豪傑としても名高い篠塚伊賀守が築城したとの伝承もあるという。
 従って仮に築城時期が14世紀中葉とすれば、南北朝中期から戦国時代にかけての事実上の支配者については全く不明ということになる。また少なくとも依田氏が入封を受ける以前ににおいては、一定の在地勢力の存在が推定されて然るべきであると考えられるが、無論この点に関しても詳らかとされてはいない。
 徳川氏の関東入府にあたり、新たに築城するよりは滅亡あるいは帰農した一族の城館を接収の上改修して使用するという形態も少なくないことから、遅くも16世紀初頭には地域支配の必然性から何らかの形で城館が存在していたものと推定することは困難ではないものと考えられる。
 なお幕末期には城跡の南東部の一角に、旗本溝口氏の陣屋が置かれたともいわれている。
 なおこの珍しい地名については、その昔日照りの際に観音堂が震動して恵みの雨を降らせたことから動堂観音と呼ばれ、それが地名に転化したものとして伝わっているという。(「角川地名大事典」より)

確認可能な遺構
 なし⇒堀跡と推定される道路、西側の崖線は存在
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月20日 午後14時00分〜午後14時55分
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/05 )
 やはりテクテク
 関係資料によれば、東西、南北それぞれ200m以上の規模を有し北東の鬼門方向にに隅欠を持つ全体的に不整形な外郭部と、その中央部にやや不整形の五角形をした内郭を有する城館跡であったことが記されています。
 無論今回も外郭を構成する堀跡と推定される道路を中心にしてテクテクとぐるっと一周を敢行いたしました。しかし予想通り堀跡の名残と推定される曲折した道路部分以外には、これといった人為的な遺構は確認できませんでした。
  なお地形図上では概ね比高差に乏しい平坦地に立地しているように見えますが、実際に歩いてみた限りでは外郭西辺部について最大3mほどの高さの段丘状の崖地(藤岡台地)が存在しています。つまり自然の台地地形そのものが、西側外郭部分を形成しているという事実が判明いたしました。勿論たいした成果ではありませんが、実際に歩き回って地形上の特徴を捉える事の大切さを再認識することとなりました。
  また、外郭の南側には旗本溝口氏の近世の陣屋跡といわれる規模の大きな方形状の宅地が現存していますが、その歴史的背景については全くの資料不足のため正確には把握できておりません(汗)

「動堂城」の西側崖線部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
最大で3m近い比高差を有する動堂城の西側崖線
( 2008/10/20 撮影 )
訪城アルバム
「動堂城」の鬼門(北東)隅欠付近
「動堂城外郭北辺堀跡付近」 ⇒ 画像クリックで動堂城の内郭北辺部の画像へ
凸1 外郭北東の鬼門付近
 関係資料などによりますと、この農耕地の部分が城外と推定されている模様です。
 なお、開口形式の用水路を見ることができるのは、強いて言えばこの辺りだけではありますが、これのみを以てして徒に堀跡の名残りと推定するのも憚れるような...
凸2 外郭北辺部
 如何にもかつての堀跡らしい景観ではありますが、全体的に水路として現存している個所も殆ど見られません。なお、左側のお宅の生垣の内側が気になりましたが脇の路地から拝見した限りでは特にこれという痕跡は確認できませんでした。

「動堂城内郭西辺部」 ⇒ 画像クリックで外郭南辺部へ
「動堂城外郭南西付近」 ⇒ 画像クリックで外郭南東部に所在する溝口氏陣屋跡の画像へ
凸3 内郭西側
 内郭西側付近の堀跡の様子で、正面の建物は八幡宮の神学額を掲げた小峰神社。なお以前には、この前方左手(五角形をした内郭の南西部)付近に内郭としての土塁と堀跡が確認できたとのことですが、現在はすっかり宅地化されその面影を辿ることさえできませんでした。
凸4 西側崖線
 最大2.5mを超える動堂城西側の崖線も、その南端部分では全体的に緩斜面となり、その先端部ではこのように高さ1m前後の段差のみ。このため自然地形を生かした防御機能としては大きく低下しているものと思われます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
上毛古城記

・2008/11/ HPアップ
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