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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  篠塚城の西側土塁 篠塚城 篠塚城郭内
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/20のブログ 中城
所在地
 群馬県藤岡市篠塚字原294ほか
歴史、人物、伝承

篠塚伊賀守に纏わる伝承
 比高差2mほどの台地先端部を利用した中城(東)と動堂城(西)の中間にする広さ約3百坪ばかりの小規模な単郭形式の城館で、その歴史的背景については詳細不明の模様である。
 「上毛国風土記」及び天保年間に編纂された「上毛古城記」によれば、この篠塚城を篠塚伊賀守重廣と関連付ける記述が見られる。この記述(伝承)について、山崎一氏は「上毛古城記」の注記において「動堂城」を指すものとのせつを提示した上で、篠塚伊賀守の館址については別に邑楽郡篠塚城を示唆している。
 篠塚伊賀守は元弘年間において新田義貞の家臣であり、「太平記」等によれば強力無双で新田四天王の一人とされ、城跡の北西方向に伊賀守を祭神とした伊賀神社が所在する。

確認可能な遺構
 土塁、郭、切岸?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月20日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/03 )
 防御には不向きの地形
 東西約30m、南北約40mほどの楕円形をした台地先端部が城館跡の推定地です。その中で直ぐにそれと分かるような明確な遺構は西側の高さ1.2m、長さ12mほどの土塁のみ。また5mほどの間を置いてこの南側にもやはり土塁跡とみられる地形が存在しています。この5mほどの開口部について「藤岡市史資料編」では小口跡の可能性を示唆していますが、単郭長辺の平小口となることから寧ろ後世の土塁の削平に伴うものと考えられます。南側の土塁の高さは、最も高いところでも数十センチほどを測るのみであり、ともすると見落とすような僅かばかりの地面の起伏でありました。
 そのほか東側と北側の二方が比高差2mばかりの崖地を形成しているものの、城館跡の地続きとなる南側にはやや不自然に折れ曲がった印象のある道路(⇒一応横矢がかかる形態ですが、空堀、喰違い土塁とこれに伴う小口、土橋が存在していたのかは不明)以外には、これといって城館の存在を想起させるような地形は見当たりません。小口(大手)はおよそこの南側部分と推定されますが、残念ながら現状の地形からは堀跡、土塁などが明らかに存在したというような形跡を窺うことができませんでした。
 またこの周辺に自然地形を含めて外郭を形成できるような要素は見当たらず、その防御性については一定の疑問が残ります。こうしたことから土豪・地侍等と呼ばれる小規模な在地領主階層の極めて居館としての性格の強い城館であったのかも知れません。なお、墓地が所在する閻魔堂の南側部分は地域の児童公園として整備が行われておりました。

「篠塚城」の西側土塁跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
篠塚城の西側土塁跡
( 2008/10/20 撮影 )
訪城アルバム
「篠塚城」の郭内 ⇒ 画像クリックで拡大します
「篠塚城」東側(切岸?) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 閻魔堂
 郭内の北側に所在する通称は閻魔堂と呼ばれている義輝山光源院の堂宇。山号は室町幕府13代将軍足利義輝の諡号に因んだものといわれていますが、現在はこの無住の小さな堂宇がポツンと建てられているだけでした。
凸2 主郭東側
 崖地と呼ぶには比高差、傾斜の何れもの要素が不足しているという印象の地形です。
 居館として利用されていた当時には、切岸を施し郭の周囲には空堀を構えていたのでしょうか。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「角川日本地名大辞典 10群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
 ⇒美土里村の人物誌の項において「多野人物誌」から引用し、「篠塚伊賀守 諱を重廣と称し、上野国緑野郡篠塚村の住人にして、新田左中辨義貞の四天王の一人である。姓は平氏其の先秩父族畠山庄司重忠六世の孫にして代々新田氏属し、数度の軍功あり、ついに新田十六騎の一に入り、尚進んで四天王の一人となる。元弘三年鎌倉攻に従い、尚其の後諸所に転戦し偉功ありしという。前期の地に伊賀神社あり、古社にして...境内に伊賀守の力石と称する巨石あり(略)」と記され、また邑楽郡篠塚よりも緑野郡篠塚(当地)の方が篠塚伊賀守に関わる遺構として有力であるとの巷説を紹介しています。

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒「上毛古城記」によれば、「篠塚城 篠塚伊賀守重廣」とのみ記されています。

■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)1976関東資料研究会による復刻本
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、
 ⇒所収の「上毛国風土記」の篠塚村の項に、「新田四天王の一人篠塚伊賀守旧跡なり...」との記述が見えます。

・2008/11/03 HPアップ
・2008/11/04 記述追加訂正
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