群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
群馬県藤岡市の城館索引へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/02のブログ 
所在地
 群馬県藤岡市高山字中組
歴史、人物、伝承

高山氏の出城か、当初からの拠点か
 三名川が大きく北から東へと蛇行し、かつ東側も深い谷が刻まれるという天嶮の地であり、複合城郭として名高い高山城(別名を東日野金井城)の南西約1.5kmの標高381mの山頂に所在しています。
 「藤岡市史 資料編」によれば戦国期に関東管領山内上杉氏の下で高山城を本拠地とした高山氏の出城と伝わるとの旨が記されています。しかし、その一方で「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」の記述によりますと、高山氏系譜に「上野国緑野郡清水山城に属し、源義家に従う」との記述を引用し、高山氏が武蔵から移住してきた当初からの城であるとの説を引用しているというように相互の記述に多少の曖昧さを感じます。また、「日本城郭全集 3」においても指摘されているように、果して11世紀の末頃の時代に現存遺構のような山城を構えていたのかという素朴な疑問も残ります。
 さらに、同系譜によれば別名を「高山山室ノ城」とも呼ばれたとの記述も紹介していますが、清水山城、あるいは西側山麓に所在した平時の居館のいずれをさしているのかは不明であるとしています。この点については、いわゆる根古屋形式の山城の典型であると考えるのが妥当かもしれません。

眺望の問題
 さて高山城の出城としての位置そのものはけっして悪くはないのですが、周囲の山の方が遥かに標高が高いためほとんど眺望が利かないという問題があります。実際に肝心の高山城は標高400m以上の高山の尾根筋に遮られて全く見通すことができませんので、三名川沿いの往還を監視する機能を果たすことのみが、主たる目的であると考えられなくもありません。
 しかしその一方で物見砦の役割にしては主郭および腰郭の規模がけっして小さくはなく、また尾根筋にも郭状の削平地が確認できることから、もう一つ何か別の役割を担っていた時期が存在していたのかも知れません。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、堀切、竪掘、小口?および不詳?の石積み
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月2日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/02 )
名誉挽回、登攀成功
 先月の30日の時には突然本降りの雨となって泣く泣く登攀を断念した経緯が。しかし本日はどこから見ても120%の晴天。ただし、問題は登り口の所在如何で、資料によれば西側の集落から鞍部を目指すようになっているもののおそらくは40年ほど前の調査に基づく情報かと推察。やはり直接鞍部へと続く山道はなさそうな雰囲気なので、取敢えず畑の間の畔道からただひたすら稜線の鞍部を目指すことに。
 ほんの少しだけ藪こぎをすると思ったよりも明確な道に出会ったものの、どうやら地元の方が作業などのために設置された道らしく無論登山道でないことは明白。途中でいくつかの分岐が所在するも、より鞍部に近い方を選ぶことに。それでも最後には道は消滅し、踏み跡ともいえないような斜面を斜めに登り、鞍部の東側へと無事到達。ここまで来ればしめたもので、あとは稜線に沿って山頂を目指すだけ。
 途中削平された平場、半ば埋まっている堀切などを経て僅かな所要時間で主郭へと到達。山頂の主郭自体も予想以上に広くおよそ250平方メートルほどの広さ。さらに主郭の東西には思いのほか規模の大きな腰郭が主郭を両側から取り囲むように普請されておりました。また主郭南側には謎の石積みなどもあり、けっして大規模な城郭ではないものの遺構の残存状況は良好かと思われました。
 登り口から山頂までの某の所要時間はおよそ30分なので、元気な若い方ならば20分もあれば登攀可能。遺構の確認なども最大でも30分程度あれば十分で、また下山の所要時間は20分前後もあれば大丈夫かと思われます。元々比高差130メートルしかないことに加えて、麓から山頂が見えているというのは気持の上でも大変登りやすいという事実を改めて確認。なお、緩斜面の畑に築造された下記の画像の段差は農耕の便宜を図る目的のものと思われます。かくして実際には正味2日間のブランクしかありませんでしたが、暦の上では一応苦節足かけ2年の年月を経て漸く念願の登頂および遺構の確認に成功したのでありました。

清水山城麓からの遠望 画像クリックで拡大します
西側の麓から見上げた清水山城
( 2008/01/02 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸1 尾根筋の切り落とし
 特に向かって右側(南西)部分は人工的な印象の強い切岸が普請されているようにも見えます。
尾根筋上の幅10m×長さ50mほどの削平された細長い郭状の地形画像へ
凸2 主郭
 南東の堀切付近から見上げた主郭部分ですが、両側の傾斜に比べれば尾根筋はさほどの険しさがありません。
本降りの雨に煙る清水山城(2007/12/30に撮影)

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸3 主郭南東の堀切
 北東方向から撮影したもので、撮影している足元部分は竪掘り状の地形となって北東の谷筋へと続いているようです。この地点から山頂主郭までは比高差で約25mほどのため、近年体力欠乏が顕著な某でも忽ち山頂へと到着いたしました。
凸4 左に同じ
 同じ堀切を南西方向から撮影したもので、画像で見るよりも遥かに登りやすい地形です。また仮に滑り落ちたとしてもこれだけ木が多いことから、忽ち大怪我につながるという危険性は少ないようです。
 とはいえ足元のバランスが正常とは言い難いため、慎重にルートを探しつつ木の枝に掴まりゆっくりと這い上がりました。

画像クリックで拡大します
画像クリックで北西側からの拡大画像へ
凸5 思いのほか広い主郭
 幅10m×長さ25mほどの楕円形をしており、冬季でもこのように低木が視界を遮りがちなので間違っても夏場には訪れることは避けるべきかと思われます。
凸6 北東側の腰郭
 主郭(手前)より見下ろした北東側の腰郭。このように上方から眺めても、腰郭自体から眺めても明確に削平されていることが手に取るようにわかる良好な残存遺構です。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸7 北東側の腰郭
 腰郭は稜線部分を除いて半ば主郭を取り巻くような形で配備されています。この北東側の腰郭は最大奥行き約8m、長さ約20メートル以上の規模を有し辺縁部は見事に切り落とされている様子が明確に見て取れます。
 これに対して主郭南西側の腰郭は小口部分の斜面流失などによりこれほど明瞭な形状ではありません。また主郭から南西方向にのびる小さな尾根筋にも3段ほどの腰郭が所在している模様ですが、足場も悪い上に灌木が生い茂り上方からはその詳細を確認することはできませんでした。
凸8 主郭への小口部分と石積み
 縄張り図を見る限りでは主郭南西側に小口が示されてはいるのですが、現地ではあまり明瞭であるとはいえず、しいて言えばこの露岩の辺りが頭上の主郭からの横矢がかかる坂状の小口なのかも知れません。
 石積みはちょうど小口への通路際の斜面に位置し人工的に切り落とした斜面を補強しているようにも見えるのですが、肝心の石の表面に余り古さを感じとることができないところが実に困るのであります。
集落南端の無難な登り口のひとつ
交通案内

・安全に登れそうなルートは西側の集落方面のみ。
・比高差約130mほどで、上り30分、下り20分、遺構確認の所要時間は概ね30分程度。
道路の幅員も狭く、近くに駐車スペースは見当たりません。(この時は高山館方面から徒歩で向かいました)
・クマ等の野生生物出没に注意

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)

「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/2006/上毛新聞社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

・2008/01/07 HPアップ
・2008/01/08 画像2枚、項目、高山氏関係の記述を追加訂正
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動