凸小規模な方形館か 上信越自動車道の建設に伴い1986年に発掘調査が行われ、その存在が確認された中世の屋敷跡とされています。当時の調査によれば東西46m、南北56mの方形で堀と土塁に囲まれ南側に土橋を伴う小口が所在していたことなどが記録されています。 その時代背景や築造の経緯などについては明確さを欠いていますが、丘陵の北側約300mの地点には小林氏に関係すると推定される矢田城が存在していることもあり、同氏と何らかの関わりを有する一族の居館跡である可能性も想定されるものと思われます。
( 2010/12/27 ) 凸 遺構、記憶ともに消滅 上信越自動車道を挟んで天久沢陣城の北西約250m、吉井ICの北東部の丘陵上の平坦地付近の地点に所在していた模様で、既に一部は道路建設などにより消失しているとのこと。1986年当時の調査当時には畑として残っていたとされるあたりも現在では概ね宅地化されており、その面影はまったくありませんでした。恰も数合わせのような探訪とはいえ、こうした光景を目前にしてテンションのゲージが大きく低下していったことを記憶しております。 このため止むを得ず天王原の陸橋上より防護柵越しに「多胡下城」の遠景を撮影したりしておりました。なお、当時探訪した折には上信越自動車道北側の側道沿い宅地東側の耕作地付近を想定していましたが、群馬県文化財情報システムに掲載されている情報から確認する限りでは約50mばかりもう少し吉井ICに寄った西側の地点であったことが記されておりました。ただし何れにしても地表上の遺構は消滅していることは間違いないものと思われます。 この日を含めて、この旧吉井町(現高崎市)方面は6回目の訪問となりました。こうして少しずつですが次第にこの方面における城館相互の位置関係が呑み込めてきたのかも知れません。なおこの日から数えて2週間ほど先に母が急死しましたが、人間の記憶というものは実に曖昧なものらしく、この更新作業の過程で前後関係などを含めて記憶が大きく混乱していることにあらためて気付きました。
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