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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  多比良城の主郭 多比良城 新堀城 多比良城の文化財標柱
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 瀬戸の城 中ノ原 平井城
所在地
 群馬県多野郡吉井町多比良字新堀
歴史、人物、伝承

武田勢により落城とも
 「簔輪軍記」によれば、永禄6年(1563)2月に信濃方面から侵入した武田信玄の軍勢により攻略され落城し、一説によれば城主である多比良豊後守友定も自刃したともいわれていますが、「上野名跡志」によれば同豊後守は武田氏に降伏したのちには、後北条氏に仕え天正18年まで存命していたと記されその詳細については明確では無いように思われます。
 また「同軍記」によれば武田勢の火攻めにより城下の1300軒の町屋が焼失したとの記述もありますが、現在の人口から想定しても戦国時代の当時において数千人の人口を収容する大規模集落が存在したとは俄かには想像しがたいものがあります。おそらくは武田氏の攻勢による災厄を強調する口伝が次第に膨らんでいったものなのかも知れません。

確認可能な遺構
 主郭、郭、帯郭、空堀ほか
文化財指定
 1971年6月29日 吉井町重要文化財指定
訪城年月日
 2008年1月5日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/10/28 )
 城跡は日没前に
 朝方は厚い雲に覆われた曇空でしたが日中はこのとおりの快晴になり、この日に訪れた中では最も収穫のあった城館でありました。
 郭自体は概ね耕地化されているため、城跡としての雰囲気については些か伝わりにくい部分もあります。しかし日差しの陰影が印象的な夕刻ということもあったせいか、外形的には概ねその原形を辿ることが可能であるという印象を受けました。
 また東西を土合川と杉井戸川深い谷に挟まれた舌状台地先端部分を利用するという点では実に効率的な縄張りであると考えられます。東西200m、南北最大250mという規模の大きさから、一定の兵力さえあれば平井城の北方を防御する役割に関しては中ノ原城、瀬戸の城と連携してある程度の役割を果たすことができたものと考えられます。しかし、大手口が存在したとされる現在宅地化されている南側の台地続きの部分については、水堀、南側の郭、空堀などで防御を強化していると推定されているようですが、残りの三方が有する要害性に比してその脆弱さは否めないように思われ、「簔輪軍記」によれば永禄6年(1563)の武田信玄の攻略に際してもこの弱点である南側から城攻めを行ったとされています。
 また「同記」によりますと、この時多比良城には山内上杉氏に伝わる宝物が収められていたとされています。しかし既に足利将軍家にも拝謁し永禄4年(1561)には正式に関東管領職を譲り受け、前管領である上杉憲政を庇護する立場であった長尾輝虎(後の上杉謙信)が、政情不安なこの支城に従前どおり収蔵させておくとは考え難いものもあります。



「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
多比良城主郭と北側の郭
( 2008/01/05 撮影 )
訪城アルバム
多比良城主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
「多比良城」主郭南側空堀跡 ⇒ 画像クリックで南東方向からの画像へリンクします
凸1 主郭小口
 主郭は100m四方に近い規模を有する広大な規模があります。しかし主郭に関する限りこの東側の小口と南側の空堀跡を除いて、近年まで存在していたとされる明確な土塁などの遺構を確認することはできませんでした。
新堀城の標柱
同解説板
凸2 主郭南側空堀
 現状の空堀の深さは最大でも3mほどの規模ですが、堀幅については優に20mを超えます。画像右が主郭方向で、左が南側の郭跡となります。
主郭北側空堀跡
主郭東側空堀跡

「多比良城」北側郭西辺付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
多比良神社
凸3 北側の郭西側付近
 主郭小口から主郭東側を回り、左手へと折れて主郭北側の郭との間を抜けこの北側郭の西辺へと続く道で、この先で土合川へつづくルートとであったものと思われます。  なおこの台地先端部の郭周辺については、真冬の時期にも拘わらず物凄い藪が残存。体をこじ入れることさえも叶わず、地表観察についてはあっさりと断念することとなりました。
凸4 多比良神社
 鎌倉期の多比良氏との関わりが想定される建治2年(1276)の年号が刻まれた板碑が祀られていた多比良神社。こじんまりとした境内は城跡の南東の方角に所在し、永禄年間に城主多比良豊後守友忠により創建されたと伝わります。
建治2年の年号が刻まれた板碑
同解説板
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)・
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)・「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)・「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・吉井町公式HP
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)

・2008/10/28 HPアップ
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