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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/17のブログ 瀬戸の城 八束城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字小串字西山上436ほか
歴史、人物、伝承

小串氏の居城
 主郭は城跡の北東部に所在して、一辺が約100mほどの規模を有しています。この主郭を西側と南側から取り巻くように東西約250m、南北150mから250mの規模をもつ西郭(外郭)が接していたと考えられています。
 北東約500mに所在する小串氏館と同一の小串一族により支配されていたと推定されており、永禄6年(1563)武田信玄の侵攻により館、城ともに滅亡し領主として小串氏は土着・帰農したものとされています。            (「中世吉井の城館跡」等より)

■小串氏の足跡
・建久6年(1195)源頼朝の奈良東大寺参詣の随兵に小串右馬介が加わる(東鑑)
・承久3年(1221)宇治川合戦の手負いとして、小串五郎の名が記される(東鑑)
・文和2年(1353)2代将軍足利義詮の文書では、佐々木道誉の地頭職に上野多胡庄小串四郎左衛門尉が神保氏、瀬下氏とともに強硬に反対したことが記されている。(佐々木文書)
・嘉吉元年(1441)結城合戦に小串氏の名が記載
・康正元年(1455)足利義政所領安堵状に上野小串地頭職小串次郎右衛門尉と記載
 上野の奈胡桃、黒熊のほか近江、山城、越中、伊勢の一部に所領が安堵されていた。
・永禄3年(1560)関東幕注文に小串氏の名が記載。(一時的に越後上杉氏に従属し、その後は武田氏に従う)

確認可能な遺構
 郭の形状を偲ばせる屈曲した形状の道路、切岸?、搦手小口?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月11日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/11 )
 ここは何処...私は
 ボケるにはまだ早すぎる年齢でありますが、久しぶりにものの見事に見当識を喪失。早い話が現在自分のいる場所が手持ちの地図のどの辺りなのか分からなくなったのであります。台地先端の畑付近に住家などは皆無で、勿論台地上に目印になるようなものも皆無。
 近年の耕地整理の結果、これといって特徴のない細い農道が東西南北に幾本も所在する元来からしてややこしそうな地形です。方角自体は概ね合ってはいるものの、高圧線の鉄塔の位置などから地形が持参してきた資料とは明らかに違うような雰囲気がひしひしと伝わってくるのでありました。闇雲に見当をつけて鏑川沿いの舌状台地先端を目指したのが拙かった様で、国道254線の位置が自分の思いとは明らかに異なり、眼下に見えるはずの入野小学校の建物が全く見えないという状況に次第に焦燥感が募り始めるのでありました。
 この際止むを得ず一度国道に出てから、ひとつずつ交差点名を確認しながら徐々に西へと進むことに方針決定。結果としては誠に恥ずかしながら、何と本来の城跡からは1kmも東側の台地の辺りを彷徨していたのでありました。加えて都合の悪いことに肝心の国道が折からの道路工事により片側通行止めの大渋滞。かくして、何のかんので90分ほどのロスタイムが発生するという行動計画の不備が露呈してしまいました。
 国道から向かったルートは一発で目的地に到着し、殆んど失いかけた現在位置を取り戻すことに成功。取り立てて目立った遺構は存在しないものの、資料の縄張り図通りの曲がりくねった道路が現存している状況を目の当たりにしてに静かな感動がじわじわと沸き起こるのでありました。搦め手のルートは上方の郭からはものの見事に横矢がかかるように普請。また、この台地からは奥浅間山方面もよく見渡すことができることも再確認できました。

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南東の角より西郭(手前)、主郭
( 2008/01/17 撮影 )
訪城アルバム
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「奥浅間砦」方面 画像クリックで拡大します
凸1 無関係な地形
 小串城の東側にはその東西にそれぞれ深く谷が入り込む南北方向に細長くのびる台地が複数所在。因みにこの場所も北麓の平地との比高差は15メートル前後を有し、鏑川方面の眺望もすぐれ、城館を構えるには恰好の立地条件なのであります...などど、ついつい己の不明、方向音痴並びに勘違いを正当化したくなるような魅力的な地形なのでありました。
凸2 入野、奥浅間砦方面
 正面が「黒熊中城」に続く「浅間神社」「入野」「奥浅間砦」などの小砦が所在したとされる丘陵地帯で、画像右端の辺りが「新堀城」「瀬戸の城」「中ノ原城」などに相当するはず...などということは遥か後にようやく理解できたのが真相でございます。
 このときは半ば方向感覚を喪失しつつ、ただひたすらに起伏の多い台地を当て所もなく彷徨していたのであります。

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凸3 大手口、井戸跡付近
 正面が大手口と考えられているようで、その右側の道路に挟まれた細長い農地の辺りに水の手としての井戸跡乃至はため池が所在していたとのことのようです。もちろん現在の様子からは、それらの存在を窺い知ることはきわめて難しいように感じられました。
大手口付近
小串城南東隅より榛名山遠望
凸4 北麓の切岸状の地形
 北麓の小口西側から南側にかけて恰も城跡を取り巻くような具合で人工的な切岸状の地形が確認できます。麓の平地との比高差は約2mから2.5mほどで、西方へはおよそ50mほどの長さで続いています。
 しかし養蚕が盛んな頃における桑畑などの開墾等に伴う削平・段築地形である可能性も否定できません。

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凸5 主郭北側の搦手
 比高差15mから20m足らずの崖ですが、かなりの急斜面を形成していることから、斜めに方向転換して登ってくるという道筋が構築されています。このため頭上の通路や主郭などから横矢の攻撃が繰り返される仕組みになっているものと考えられます。

崩落中の麓の搦手口をつなぐ斜面の山道
麓の搦手へと向かう推定小口部分
 主郭へと続く地形であることから、道筋は北から東へ90度の角度で曲折しています。それ以外には明確な地形上の特徴は見出すことはできませんが、一定の小口としての役割が想定される辺りです。
凸6 主郭
 主格の南西隅から撮影したものですが、農地として利用されているために既に地表上からは明確な遺構の痕跡を辿ることは困難な模様です。資料では菅原神社(天満宮)礎石が残ると記されておりましたが、北東の鬼門に相当することから直接的な城館との関係も推定されますが、何分とも藪が手強くあっさりと捜索を断念。

主郭の北東隅より
 上記とは正反対の方角から撮影したものですが、一見したところではただの畑のようにしか見えないのであります。なお、後方の山並みは模擬天守?が所在する一郷山城
と牛伏山、八束城、天引城方面かと思われます。

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凸7 西郭
 西郭の北西隅から撮影したもので、画像の盛り土はおそらく近年の耕作に関連するものと考えられ、僅かにカーブした道路が城跡の外郭ラインを示しているという印象でした。なお、手前の西郭は全体の北西部に相当し、主郭を西と南側から包み込むように配置されていることから、主郭に比べ約3倍ほどの広さを有しています。また、後世の客土である可能性も想定されますが、道路と農地部分との僅かばかりの高低差もかつて城跡の名残を示しているのかも知りません。
凸8 南西部の折歪
 左手前部分が最大20m前後の規模で出枡状に西側に張り出しを見せ、道路の右側は人工的な切岸が施されているように見受けられます。元々の地形の影響を受けているようにも思われますが、有効な横矢を仕掛けることが可能な縄張りであると考えられます。

出枡(折歪)部分
南小口付近
交通案内

・吉井町立入野小学校の南西(国道254線南側)直線約300mの台地先端部

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)1976関東資料研究会による復刻本

・2008/03/08 HPアップ
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