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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/17のブログ 小串城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字石神字城230ほか
歴史、人物、伝承

戦国期の富田氏、瀬下氏の居城
 「日本名跡図誌」によると、峯山城の築城は山内上杉氏家臣の富田民部小輔吉政により文明7年(1475)に行われたものと記されています。また城主である富田氏は藤原秀郷を祖とし、左近将監朝政の代には後北条氏家臣として武州長浜(現上里町)を居城とし、享禄元年(1528)子である隼人正吉親の代に峯山城主となったことが「吉井町誌」に記されています。しかし、享禄年間では明らかに後北条氏の勢力が及ぶ以前であると考えられますので、この部分に関しては誤伝・誤記とみるべきかもしれません。
 こののち富田氏は永禄7年(1564)には武田信玄に従い、倉賀野攻略の功績により多胡郡黒熊村、馬庭村に所領を宛がわれていたとされています(「富田家文書」)。なお、峯山城の廃城は「富田家系図」によれば一国一城令による元和2年(1615)、「日本名跡図誌」(明治34年)では武田家滅亡後(天正10年以降?)城郭を毀すと伝わりますが、天正期には事実上の廃城を想定する方が妥当であるように考えられます。
                                            (以上「吉井町誌」等を参照)

確認可能な遺構
 空堀跡、土塁跡?、切岸
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/17 )
 面影は何処
 今回は東側の小串城とは異なり大武神社という目印があるため、その所在地自体についてはまず間違えようもなく。失礼ながら神社の入口近くに駐車させていただき、もはや習慣として染みついた感のある恒例の参拝を。しかる後に徒歩にて西側の台地先端部へ...とはいうものの周囲との比高差は20m前後に過ぎないことから、息切れなどをする暇もなくあっという間に現地到着するというのは実に有り難いかぎり。察するところ現状の地形から想像する城郭としての弱点は、この余りにも緩やかな東側の斜面および南側の平坦な台地続きの部分ということになるものと思われるのでありました。
 城跡の南側には古墳時代後期の集落跡が所在する入野中学校が所在するという歴史の香り豊かな台地。なお台地北端に所在している城跡は、昭和40年代前半位までは往時の面影をとどめていた模様ですが、その後耕地として開墾され現在は豚舎等の関係施設がほぼ一面に立ち並んでいます。このため全体として遺構と呼べそうなのは、東側の堀跡らしき窪地と西側の笹曲輪と呼ばれる尾根筋付近のみという印象でありました。このような状況のため撮影させていただく被写体の選定とアングルに些か苦慮しつつ、足早に次の目的地である多胡下城へと速やかに移動したのであります。



「峯山城遠望」画像クリックで拡大します
峯山城遠望(東側より)
( 2008/01/17 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
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凸1 大武神社
 元来は稲荷神社と称され、明治42年に国策により周辺の神社を合祀した際に古代の郷名である大家と武美から大武神社と称されました。
 天正10年(1582)k武田氏滅亡後、峯山城主富田家は帰農し、その一族が氏神である若宮八幡宮(大武神社に合祀)を創建しその神官となったと伝わっています。

 ⇒大武神社東側の地形
 峯山城東側の弱点と考えられる緩斜面の麓付近に所在していることから、あくまでも憶測にすぎませんが麓の小口郭のような役割を果たしていたというような可能性を考えたいところであります。

 ⇒大武神社西側の地形
 この西側の道路部分との比高差の大半は道路建設に伴う掘削によるところが大きいものと思われたました。また、神社の奥の院には塚状の地形が所在していますが委細不明のようです。
凸2 小串城
 東側直線約500mに所在する ⇒小串城 西側の土合川沿いの急崖地形と比較しますと、麓との比高差自体は同じような台地の北端部に所在しつつも、地形としての有利性に関してはかなりの隔たりが存在しているように感じられました。
 これだけ目と鼻の先の台地上に所在し、大声で叫べば聞こえそうな近さ。このため、ある時には上杉氏に、ある時は武田氏に、またある時には後北条氏にと、ともに従わざるを得なかったであろう、上野の在地領主階層のありし日の情景がふと浮かんで参るのでございます。
 しかしこの小串氏と峯山城富田氏あるいは瀬下氏との関係を直接明示する歴史的経緯を傍証するような史料は残されてはいない模様ですが、有名な「関東幕注文」(長尾景虎の越山に際して参集した関東各地の領主と家紋の一覧−上杉家文書-)では、「瀬下 三引両」「小串 二引両」の両家が総社衆の一員として並んで記されています。

画像クリックで拡大します
東側大手口方面より
凸3 空堀跡
 主郭東側(画像左側)と北側の一部(画像手前部分)にはおおむね縄張図どおり、かつて空堀跡の形跡が所在すると共に、画像右側には郭跡と思われる1mほどの地表の段差も残されておりました。城郭遺構らしい雰囲気が残されている数少ないアングルかとも。
 
 ⇒北側搦手?方面の様子 
  東側に比べると比高差を感じさせる城跡らしい斜面の 傾斜を伴います。
 ⇒主郭西側土塁跡? (まったく確信はありませぬ)
 ⇒主郭北西の笹郭付近?
 ⇒城跡南部西側に所在する急斜面の切岸状地形
凸4 東側大手口方面
 城跡としての地形の特徴を反映しているの地形の一つと思われる東側大手口付近の景観をズームアウトしたもの。
 こちら側が大手口であるかどうかは別として、現状のこのなだらかな斜面では空堀、土塁、竪堀の普請の程度如何に関わらず、攻城側の軍勢の展開が非常に容易であると思われ、このため城側にとってはどう考えても不利な地形としか見えないのでありました。

 ⇒東側大手口遠景 東側麓より撮影
 ⇒東側大手小口付近(推定) 主郭側から撮影
交通案内

・国道254線南側、大武神社西北西約250mの台地北端

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社
「吉井町誌」(1969/吉井町)P.316-317、P.1344-1345
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2008/03/10 HPアップ
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