凸 小雨模様の城廻り
城跡は、薄根中学校の東側に隣接し、概ね天台宗法城院の墓地を含む境内地がその城域の範囲となっておりました。この日は早朝からのミニオフで、月夜野の宮野城方面から南東へ移動しつつ、足早に薄倉城、諏訪ノ木城、箱崎城、小川城、明徳寺城と見てまわった最後の目的地となりました。早朝にやや大きな地震が発生したものの、午前中は先ず先ずの天候でしたが、午後からは次第に雲行きが怪しくなり始め、この小沢城では小雨模様の天候となりました。このため、残存している土塁上を歩いたことを別にしますと、余りゆっくりとは見学できていなかったように記憶しております。
外郭部の土塁と空堀は、概ね北と西側に残存しておりましたが、法城院が所在している内郭の堀跡は、埋め立てなどにより大分以前に消失したのかも知れません。
以上のように掲載する画像を吟味しつつ、当時の事を思い起こしておりますが、4年半ほど以前に訪れた城跡でもあることから、かなり記憶は薄らいでおります (^^ゞ 来年には沼田市の周辺部に出向く予定もありますので、いずれ再訪してみようと考えております。
( 2018/12/14 )記述
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小沢城の北辺土塁 −画像A−
( 2014年5月5日 撮影 )
凸北辺部の土塁を郭内側から撮影したもので、画像の左側には櫓台とも思しき規模の大きな土塁が健在でした。
小沢城の解説板 −画像B−
( 2014年5月5日 撮影 )
凸沼田一族はこの解説にも記されているように、その本拠地を荘田城⇒小沢城⇒幕岩城⇒倉内城(沼田城)という順序で移転したらしいのですが、その出自を含めてより正確で詳細な経緯については不明な部分もあるように思われます。
沼田大明神の解説 −画像C−
( 2014年5月5日 撮影 )
凸沼田顕泰(万鬼斎)の子であり、後北条氏に従い女渕城主であった沼田平八郎景義が、天正9年(1581)3月に沼田氏の故地である沼田城の回復を企図したが、一族で重臣の金子氏により謀殺されたとされております。
小沢城 国土地理院航空写真より編集加工 −画像D−
( 2018年12月13日 編集加工 )
凸現存している外郭部の構えのほかに内郭の堀跡と思われる形跡も記録されており、共に横矢のかかる構造であったこと明示されております。
なお、この画像の方位は真上では無く、概ね13時30分の方角となります。また、「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」に掲載されている略測図によりますと、当城の南東部を流れている川の名称が「四釜川」として記されていますが、正しくはその支流である「小沢川」であるものと考えられます。
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