凸 残存遺構は主郭周辺部のみ
大室元城のあとはそのまま徒歩にて西方ある西神沢川東岸に面した伊勢山古墳、産泰神社を見学して南下、県道76号線にもどり白山橋方面から大室城方面へと向いました。この城跡は東西が神沢川とその支流に囲まれているものの、周辺からの比高差がそれほど目立たないことから、一目瞭然とした立地条件ではないようにも感じましので、むしろ産泰神社などの独立丘陵の方がそれらしく感じられたりしたものです。
大室城は主郭周辺を中心にして土塁、堀跡、郭跡などの部分的な遺構が確認できます。 主郭北側の小郭(一説には「櫓台」ともいわれている)はあまり目立たない存在ですが、東側の郭の水堀、主郭西辺の土塁も明確に残存していました。
この城跡の主郭部については大室神社境内地とされていますが、主郭西側の空堀と土塁以外には明確な遺構は確認することができません。また東側の二の郭部分は地元公民館敷地とその駐車場などとして利用されていますが、それでもその東側などにある程度は後世の手が加わっていると思われるものの、如何にもインスタ映えしそうな水堀などをが遺されています。
なお大室城としての地表観察可能な遺構については全体として北部に集中しているため、その城域の広さの割には極めて限定的であるように感じられました。
「日本城郭大系」などの記述によりますと、大室城の領域の南端は神沢川の合流地点辺りまでと推測されていることから、南域の真言宗観昌寺を参拝したのちに念のため当該合流地点付近まで足を延ばしてみましたが、全体的に宅地化と耕作地化が進行していることもあり遺構と呼べるような形跡は確認できませんでした。
( 2019/3/20 )記述
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大室城主郭西側の土塁 −画像A−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸手前の部分が大室城主郭西側の土塁になります。そのすぐ奥(東側)に空堀を挟んで大室城の主郭(本丸)が所在してはいますが、土塁遺構自体としてはこの辺りの部分が最もよく残されているように思われました。
主郭北の櫓台 −画像B−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸あまり整備状態が良好とはいえませんが、本丸の北側に堀(現在は道幅4メートルほどの道路)を挟んんで所在する小郭で丘陵続きの北側の弱点を補う役割も担っていたようにも思われました。
なお虎口部分は明確ではなく、本丸とは木橋などで連絡していたのかも知れません。また西、南と東の一部に土塁状の高まりなどが確認されます。
二の郭の水堀 −画像C−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸この画像から見ても分かるように堀幅は現状では10m足らずとやや狭い印象があることから、もしかすると本来は画像左側の道路部分くらいまではあったのかも知れません。
二の郭の水堀 −画像D−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸同上のものを橋の欄干を入れて撮影しただけのものです。いずれにしても廃城以降に様々な人の手が加わり現在の形があるように思われました。
現地解説板 −画像E−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸「荒砥史談会と西大室町自治会」により2014年に設置されたもので、二の丸南東の水堀沿いに設置されている解説板です。
念のためネットに掲載されている前橋市の文化財関係の情報を閲覧した限りでは、特に文化財としての史跡指定などは受けてはおりませんでした。(2019年3月18日現在)
国土地理院航空写真 −画像F−
( 2019年2月19日 編集加工 )
凸大室城の遺構の内、本丸、二の丸、櫓台の各郭部分と二の丸を囲む堀跡の形状が確認できます。おそらくは概ね県道76号線の北側を中心とした部分が狭義の城郭部分で、その南側が城下となる町並みが所在していたのかも知れません。なお、東西の神沢川は現在よりも遥かに複雑な蛇行が存在していたことが窺われ、城跡の北側を除いて天然の濠に囲繞されてた要害の地であったことが偲ばれるように思います。
なお歓昌寺の西側にも細長い方形の水田地形が認められるのですが、いまのところその詳細は不明です。
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