群馬県内の城館跡目次
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年1月8日のブログ 大室元城 荒子の砦 不動山城
所在地
 群馬県前橋市西大室町城南南曲輪北宿1634から1805(※「マッピングぐんま」を参照)
歴史、人物、伝承

白井長尾氏の属城とも
 「現地解説版」および「前橋市史第2巻」などの記述によると、長尾政景(白井長尾氏)による天正11年(1583)なしいは天正13年(1585)頃の長尾氏重臣である牧和泉守牧弾正父子の大室城における誅殺事件が伝わっている。
しかしその一方で、「石川忠総留書乾」によると、この牧一族の誅殺事件については多留城( ⇒不動山城か?)での出来事として記されており、当該誅殺事件の舞台については互いに異なる記述となっている点に注意すべきである。
 前者はおそらく所謂一次史料に基づくものではなく、あくまでも後世に編纂された「前橋風土記」等の記述を元にしたものと考えられる。また後者の留書(覚え、書留の意か?)についても当該原書自体は存在していない模様であり、あくまでも江戸時代初期の「写本」( ⇒管見では、少なくとも「内閣文庫所蔵」(乾坤の2冊)と「伊達文庫所蔵」(全6巻)の2種類系統の存在が確認されている)の記述によるものであることから、何れとも決し難いように思われるためその考究が待たれる。なお、この牧和泉守について両写本の8項目からなる部分に関する記述には異同は見られない。
 ただし、「石川忠総留書」にも記されているように、いずれにしても牧氏は白井長尾氏の重臣であり、武田氏の侵攻により上野を追われていた白井長尾氏の上野への復帰を含めて主家である長尾家に対して忠勤と貢献の責を果たしていたものと思われる。
 城館関連の書籍については概ね下記の参考資料の通りであるが、書籍によりその記述には異同が散見されている。
 また白井長尾氏の領分とされる白井領の範囲からは随分と南東方向に離れているように思われるが、これは北条方となった長尾政景(鳥房丸とも、憲景の次男で輝景の弟とされている)に対して北条氏直により天正11年6月に充行いされたものであるともいう。
石川忠総(1582年〜1650年) 
 大久保忠隣の次男、母方が石川氏で石川氏の養子となり、忠隣の改易に連座したが、大坂の陣の戦功により初代膳所藩主となる。
※主な参考資料
 「白井長尾氏の研究」(増補改訂戦国大名と国衆/黒田基樹著/戎光祥出版より)。

確認可能な遺構
 土塁、郭、水堀ほか 現地解説板、城址碑あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年1月8日 11時15分から12時30分
訪城の記録 記念撮影

 残存遺構は主郭周辺部のみ
 大室元城のあとはそのまま徒歩にて西方ある西神沢川東岸に面した伊勢山古墳、産泰神社を見学して南下、県道76号線にもどり白山橋方面から大室城方面へと向いました。この城跡は東西が神沢川とその支流に囲まれているものの、周辺からの比高差がそれほど目立たないことから、一目瞭然とした立地条件ではないようにも感じましので、むしろ産泰神社などの独立丘陵の方がそれらしく感じられたりしたものです。
 大室城は主郭周辺を中心にして土塁、堀跡、郭跡などの部分的な遺構が確認できます。 主郭北側の小郭(一説には「櫓台」ともいわれている)はあまり目立たない存在ですが、東側の郭の水堀、主郭西辺の土塁も明確に残存していました。
 この城跡の主郭部については大室神社境内地とされていますが、主郭西側の空堀と土塁以外には明確な遺構は確認することができません。また東側の二の郭部分は地元公民館敷地とその駐車場などとして利用されていますが、それでもその東側などにある程度は後世の手が加わっていると思われるものの、如何にもインスタ映えしそうな水堀などをが遺されています。
 なお大室城としての地表観察可能な遺構については全体として北部に集中しているため、その城域の広さの割には極めて限定的であるように感じられました。
 「日本城郭大系」などの記述によりますと、大室城の領域の南端は神沢川の合流地点辺りまでと推測されていることから、南域の真言宗観昌寺を参拝したのちに念のため当該合流地点付近まで足を延ばしてみましたが、全体的に宅地化と耕作地化が進行していることもあり遺構と呼べるような形跡は確認できませんでした。
( 2019/3/20 )記述
大室城主郭西側の土塁
大室城主郭西側の土塁 −画像A−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸手前の部分が大室城主郭西側の土塁になります。そのすぐ奥(東側)に空堀を挟んで大室城の主郭(本丸)が所在してはいますが、土塁遺構自体としてはこの辺りの部分が最もよく残されているように思われました。

主郭北の櫓台
主郭北の櫓台 −画像B−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸あまり整備状態が良好とはいえませんが、本丸の北側に堀(現在は道幅4メートルほどの道路)を挟んんで所在する小郭で丘陵続きの北側の弱点を補う役割も担っていたようにも思われました。
 なお虎口部分は明確ではなく、本丸とは木橋などで連絡していたのかも知れません。また西、南と東の一部に土塁状の高まりなどが確認されます。

二の郭の水堀
二の郭の水堀 −画像C−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸この画像から見ても分かるように堀幅は現状では10m足らずとやや狭い印象があることから、もしかすると本来は画像左側の道路部分くらいまではあったのかも知れません。

二の郭の水堀
二の郭の水堀 −画像D−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸同上のものを橋の欄干を入れて撮影しただけのものです。いずれにしても廃城以降に様々な人の手が加わり現在の形があるように思われました。

現地解説板
現地解説板 −画像E−
( 2019年1月8日 撮影 )
凸「荒砥史談会と西大室町自治会」により2014年に設置されたもので、二の丸南東の水堀沿いに設置されている解説板です。
 念のためネットに掲載されている前橋市の文化財関係の情報を閲覧した限りでは、特に文化財としての史跡指定などは受けてはおりませんでした。(2019年3月18日現在)

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像F−
( 2019年2月19日 編集加工 )
凸大室城の遺構の内、本丸、二の丸、櫓台の各郭部分と二の丸を囲む堀跡の形状が確認できます。おそらくは概ね県道76号線の北側を中心とした部分が狭義の城郭部分で、その南側が城下となる町並みが所在していたのかも知れません。なお、東西の神沢川は現在よりも遥かに複雑な蛇行が存在していたことが窺われ、城跡の北側を除いて天然の濠に囲繞されてた要害の地であったことが偲ばれるように思います。
 なお歓昌寺の西側にも細長い方形の水田地形が認められるのですが、いまのところその詳細は不明です。

訪城アルバム
凸1 本丸と西側の土塁
 画像右側の部分が土塁の残欠部分であるとすれば、画像の中央部が主郭である本丸の堀跡となるというような構造が読み取れるのですが、残念ながら左の土塁部分については後世の道路や宅地化、耕地化により途中消滅していました。

凸2 堀跡部分
 堀幅は上面で10m以上くらいはあるように思われましたが、堀底そのものは大分埋まっているという印象がありました。

凸3 本丸と櫓台
 西側方向から撮影したもので画像左側が櫓台の所在する小郭で、画像右側が本丸の切岸でその高さは4メートル以上はありそうでした。 
 またこの道路部分についてはかつての堀跡であるものとと思われます。

凸4 櫓台
 この櫓台には実際にはこの辺りの緩斜面から普通に這い上がれるのですが、当時の虎口の個所についてはどの辺りであるのかについては分かりませんでした。

凸5 櫓台
 画像の中央部やや下のあたりに虎口のようにも見えなくもない窪みが確認できますが、あくまでも後世の地形の改変などによる影響であるように思われます。このように虎口の個所は不詳ですが、この辺りについては対岸の本丸との間に木橋などを架けて行き来していたと考えた方が自然であるようにも思われましたが果たしてどうなのでしょうか。

凸6 二の丸
 本丸東側に所在している二の丸の北辺部分です。画像の左下付近が北辺部の堀跡になることから、これに並行する土塁跡であるようにも思われましたが、具体的に詳しいことは分かりませんでした。

凸7 城跡の標柱
 さすがにこの城跡の標柱に関しては、あくまでも前橋市の教育委員会が設置したものでありました。
 前橋市の中世城館跡関係の文化財に対する対応は史跡としての指定を含めて余り十分であるようには思えず、直接的には地元郷土史会などの皆様のご尽力による部分が多いように感じました。

凸8 本丸東側
 画像の右側が本丸部分で、画像の左側が二の丸となり、かつてはこの個所が堀跡であったとされているようなのですが、現在ではこのような舗装道路が存在しているため、その面影は希薄となっておりました。

凸9 大室神社
 本丸内に鎮座する神社で元は熊野神社で西大室村の鎮守とされていましたが、その後明治末期の神社合祀政策により諏訪神社、梅花桜神社などを合祀して大室神社として改称されたそうです。当神社の境内整備などが影響しているためなのか、境内には城跡に関連しそうな遺構は残されてはいないように感じました。

凸10 本丸
 本丸の南東部付近ですが、むろん石垣につきましてはご覧のようにあくまでも後世のものです (^^ゞ

凸11 
 二の丸南東外側の堀端に設置されている分かりやすく有難い存在の現地解説板です。

凸12 橋
 あくまでもコンクリート製ですが、二の丸の東外側から城跡の中心部へと繋がる見学ルートです。当然ながら後世の改変によるものですが、往時においては木橋か土橋かなどについては不明なようです。

凸13 北側の堀
 その一部が水堀となっていますが、無論そうした構造も後世の改変であろうと思えます。なおこの水堀の水源については、果たしてそれが地下水なのか、河川などからの引水であるのかについては確認してはおりません (^^ゞ

凸14 二の丸の南側付近
 二の丸の南側は民家の宅地となってはいますが、こういった人工的な段築が確認できます。しかしこれらが宅地化や耕作地化に伴うものか、城跡の段郭などを利用したものであるのかについては不勉強なので分かりません。

凸15 歓昌院の石塔
 たぶん基壇の特徴から宝篋印塔のように思えたのですが、あるいは多宝塔の一種なのかも知れません <(_ _)>

凸16 宝塔
 典型的な宝塔のようで、前橋市の重要文化財にも指定されているそうですが、ステンレス版の文字が擦れており、太陽の光線の加減も加わり余りよく読めませんでした (^^ゞ
 それでも何とかよく目を凝らして読みますと「輝石安山岩製で南北朝期に造立された」と記されておりました。

凸17 観昌寺西側
 城跡南部に所在する城下集落の西端に相当する地域ということになるのかと思われます。なお、画像左上に見える山は赤城山です。この辺りでは赤城山(北)、榛名山(北西)、浅間山(西)の位置から大体の方位が分かりとても便利です。

凸18 神沢川の合流点
 画像左側が大室城の東側の防備に関わる東神沢川で、右側が本流である西神沢川になり、この付近が城下集落を含む城域の南限であると考えられているようです。

凸19 南端部の地形
 前の画像に続く西神沢川に接している南端部の地形で画像の奥の山林の手前で浸食による崖線部が形成されています。

凸20 歓昌寺北側附近
 県道76号線の南側で、「日本城郭大系」などで城域の東端部分と考えられているラインに相当するものと思われます。

凸21 双体道祖神
 男女一対の道祖神を祀ったもので、県内ではこのほかに昭和村、高山村あたりでも見かけた記憶があります。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 ⇒ 「天正の半ばからこの城は白井長尾氏に属していた。長尾政景が兄輝景に代わって白井城主となったとき、大室の城主牧弾正と毒島城主牧和泉はこれに不同意で、謀反の企てさえあると聞いた政景は、天正13年(1585)は鷹狩に事寄せて大室城に立ち寄り、不意に弾正を切り伏せたとつたえる」と記している。
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
 ⇒ 「白井長尾氏の属城であるが、城代牧和泉守・同弾正は、後北条氏が長尾政景に利根川以東を分領させようとしたのに不満で政景に従わなかったため、北条氏直は太田金山城の由良成繁に命じ、天正11年(1583)牧父子から城を政景に渡させた」という旨を記している。
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)詳細な記述は無い

歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
 ⇒牧和泉守とその一族に関する「石川忠総留書」の抜粋が収録されている。
「赤城村誌」(1989/赤城村)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)
「戦国大名と国衆13信濃真田氏」(2014/岩田書院)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
 ⇒ 「この城は白井長尾氏に属し、城主牧弾正に叛意ありと知った長尾政景は、鷹狩にことよせて大室城に立ち寄り、弾正父子を誅殺した」と記している。」

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上州古城塁記」によれば、「前橋風土記」からの引用として、「君主である長尾憲景が死去した後、牧弾正に叛意があると知った鳥童丸(後の長尾政景)が天正13年に小田原から帰り、鷹狩によせて弾正の居処を襲い弾正父子とその家族を誅殺した」という旨を記している。
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

「内閣文庫」所蔵の「石川忠総留書」(乾坤の上下巻)⇒国立国会図書館所蔵で前橋藩主であった酒井家所蔵のものを正徳年間に筆写した写本である。一般にこの写本が史料として扱われている事例が多いように思われる。
「伊達文庫」所蔵の「石川忠総留書」(全6巻)⇒宮城県立図書館に所蔵されている旧伊達家所蔵の写本であり巻末に寛永年間に写した旨の記載が認められる。なお、同図書館のウェブ図書館である「叡智の杜」にて公開され、ダウンロードも可能であるのでそちらを参考にされたい。

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 なお当サイト管理人の覚えも兼ねて、下記に「石川忠総留書」における牧氏に関する記述を現代文で抄録しましたが、この部分は黒田基樹氏の「白井長尾氏の研究」(増補改訂戦国大名と国衆/黒田基樹著/戎光祥出版より)の稿を元にしているものであります。ただし文意の不明な部分も多々あることから、ど素人である管理人の余りに意訳に過ぎる内容であることを付記しておきます。

1.牧和泉守は西上野白井城主長尾左衛門督憲景(ながおさえもんのかみ のりかげ)に仕えたが、甲斐の武田信玄の攻略により白井城を持ちこたえられず、永禄10年(1567)3月に越後の上杉謙信の元へ憲景とともに一族ともども3年の間身を寄せていた。

2.元亀元年(1570)春、謙信の越山に伴い長尾輝景を人質として越後に留めるべく命じられたが、その代わりとして牧又四郎(釆女)が人質とされ越後に18年間留め置かれることとなった。

3.長尾憲景は上野に戻ったが、白井には武田勢により抑えられていたことから東上野の田留城(※不動山城とも考えられる)に移った。その後は白井城に対して八崎城を普請し牧和泉守を城代とした。その折、武田信玄が八崎城に押し寄せたが和泉守は信玄の懐柔策にも屈せず八崎城を守り通し、和泉守はこの際の戦功により田留城を拝領した。

4.和泉守次男の源六郎は、新田城主由良成繁との合戦で天正2年(1574)9月に21歳で討死を遂げた。このため又四郎は3年目で人質を解かれた。

5.その後、上野の周囲では(謙信の死去により)上杉方の劣勢が目立ち始めたので、白井長尾氏、牧和泉守らは厩橋の北条高広を介して甲斐の武田勝頼の傘下へと転じた。

6.天正9年(1581)新田城主由良国繁(後北条方)が和泉守の家臣の一部に内応させて田留城の攻略を図ったが、これを打ち破り、勝頼から感状と太刀を拝領した。

7.武田氏滅亡、織田信長死去後の天正11年(1583)6月和泉守と嫡子である釆女の間に「問題?」が生じ田留城を釆女に預け、和泉守は息子の弥六郎とともに縁戚である赤堀(※これが大室城かどうか?)へと転じた。同年10月にこの時は事実上上野の覇者となっていた北条氏直は(武名の誉れ高い)和泉守の消息を尋ねその息子である弥六郎の小田原への仕官の話が持ち上がったが、若輩を理由に丁重に固辞したところ、東上野の内西ノ庄の内の知行300貫文を与える旨の虎朱印状を頂戴した。

8.長尾政景がその兄である長尾輝景に対して、田留城が欲しい旨を求めていたが、その若輩や境目の城であることを理由にして先延ばしをしていた。このため政景は北条氏邦に働きかけてその内諾を得て、田留城において天正13年(1585)和泉守と弾正を誅殺した。享年和泉守58歳、弾正27歳であった。

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その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能)
「現地解説板」(二の丸南東の外側堀端に所在)⇒ 「白井長尾氏の支城とし、天正13年(1585)大室城代の牧弾正に叛意ありと知った長尾政景は、小田原からの鷹狩にことよせて大室城に入り、和泉守、弾正父子を誅殺したという言い伝えがある」と記されています。
前橋市HP「城南地区の文化財めぐり」には江戸時代酒井氏家臣石川氏が居城したとの記述があり、大久保家の改易により連座していた忠総自身あるいはその一族が当城に居城していたことにより、この「牧和泉守一族」に関する一連の記述が「留書」へと加わることとなったのかも知れないのだがその詳細は不明である。


更新記録
・2019年3月20日 HPアップ
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