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群馬県富岡市の城館索引へ戻る 西平城遠景 西平城のバナー 西平城の主郭西側堀切
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011/03/09のブログ 浅香入城 茶臼山の砦 内匠城
所在地
 群馬県富岡市野上字西平日向、前山
歴史、人物、伝承

小幡氏関連の城郭か
 標高約305mを有する上信越自動車道の南側丘陵地帯に所在する城郭遺構群のひとつである。丘陵北麓からの比高差は約130mほどを測り南麓および東麓には深い渓谷を形成する野上川の東流し天然の水堀を形成している。上信越道の建設に伴い北側の一部(大手とも)が消失しているが、主郭とこれを取り巻く腰郭を中心として城跡全体としては良好な状態が保たれている。
 しかし歴史ていな経緯については明確な史料を欠いていることから、16世紀戦国期の山城であると推定される以外については詳細不明とされている。
 城郭としての構造は東方約1kmの丘陵上に所在する「茶臼山の砦」(富岡市南後箇)の縄張りに酷似しているという特徴を有しているといえよう。こうしたその地理的な条件などからは国峰城を本拠地とした戦国期小幡氏の城砦群のひとつとも想定されるが、無論それらの事柄を裏付けるような史料は確認されていない模様である。別名を大島上城ともいう。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭群、小口、堀切、土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年3月9日 9時30分から13時10分(現地作図作業含む)
訪城の記録 記念撮影

( 2011/03/24 )記述
 還暦記念登城第1城
 還暦を迎えた1月中旬ののちに、老化防止のために柔軟体操を行い右腰の筋肉を痛めたのがケチのつきはじめだったのかも知れません。その後は首筋の寝違え、右腰の神経痛、足のマメ、右膝関節痛、慢性気管支炎と余りの災厄つづきに茫然自失(汗)
 そのような経過を踏まえ、ようやく本日2ヶ月ぶりとなる城館探訪を再開しました。幸いにして今のところは花粉アレルギーは小康状態を維持。今日などは山火事と間違えそうなくらいまでに飛散した花粉で山並みが霞み、また履いていたトレッキングシューズの色は本来ならばダークグリーンのはずが、鮮やかなレモンイエローへと変貌を遂げておりました。なお、後日サイトで調べたところでは、稀に咳を伴う花粉症もあるらしいとのことでした。
 さて目指す山城は比高差は約130m前後と、病み上りには相応の条件となっていました。ただし下記の遠景画像を撮影した地点から山麓までは距離にして約1km余りの道程ですが、比高差にして25mほどの下り坂となっておりました。野上川南岸集落からの野上川に架かる橋が最も標高の低い個所で、その先は直ぐに丁字路となっています。この個所から左側(西側)へと緩やかな坂道を登り、途中2か所程の山仕事用の道をやり過ごして、歩くこと約200mほどで川沿いのルートから分かれた北側の谷沿いの道を進みます。比高差にして約50mばかり登りつめた辺りで稜線部を見上げることのできる視界の開けた個所(伐根跡、または炭焼き小屋跡?)に到達します。
 ここで道を左手(西側)へと取ると道を誤ることとなり途中から登攀ルートが消失します。このため掴まるものとてないような斜面をジグザクに登攀する羽目に陥ります。これで本日の気力・体力の大半を消費してしまいました。より正しい登攀ルートは右手(東側)の尾根筋へと取り付いてから、主郭西側の郭南側へと西側(左側)へとすすむのが正しいようです。(※これについては下山ルートで確認済み)
 肝心な遺構の方は良好な堀切が約3か所ばかり現存しています。主郭南部には南側を中心として土塁遺構も残存し、南西部には小口跡も確認されます。大手とされている腰郭を経由するルートは、城道自体がかなり曖昧になっている部分が多く見受けられルートが追い切れませんでした。
 城郭自体は北側ないし東側を意識した防御構造となっていることだけは確実かと思われます。なお、現地にて唯一の拠り所にしていた山崎一氏が作成されたと思われる縄張り図は、サイズが小さいこともあり等高線と遺構の書き入れが区別できないほどに不鮮明なのが残念です。然も上信越道の建設により大手方面と推定されている北側の一部が確実に消失しています(1987年に一部発掘調査済みとのこと)。
  このような事情から半ばゼロからの縄張り図作成をする羽目に陥り、腰郭の段数の確認作業を含めて約4時間の在城を余儀なくされました。また時間を費やした割には、気力・体力が枯渇してしまったため東側の大手方面の残存遺構の現況については全くの未確認のまま終わっています。また腰郭の上り下りを4回以上繰り返したため、実質比高差200m以上に相当するのかもしれません。なお、下山の時点では事前の足回りのテーピングが効果を発揮し、マメやクツヅレは皆無でありましたが、この時点で早くも右膝と両足首がそろそろ疲労の限界に達しておりました。気がついてみれば還暦記念登城第1城となっておりましたが、あくまでも渋めの選択路線に他ならないのでありました(汗)


西平城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
西平城遠景 −画像A−
( 2011/03/09 南東方向から撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」掲載の情報および「電子国土」の地形図等を参考にしていますが、上信越道建設に伴う消失部分付近は未踏査のために適宜省略してあります。

※なお、北側の上信越道の側道から登るルートもあり、寧ろそちらの方が冬季の凍結時期を除けば登りやすいようです。ただし管理人はミニオフを含め2度とも下記の南側(搦手方面)からアプローチしています。
西平城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
野上川の橋近くの分岐
北側の谷筋への分岐
凸1 野上川の橋近くの分岐 画像1
 野上川南岸集落からの野上川に架かる橋が最も標高の低い個所で、その先は直ぐに丁字路となっています。この個所から左側(西側)へと緩やかな坂道を登り、途中2か所程の山仕事用の道をやり過ごして、歩くこと約200mほどで川沿いのルートから分かれる右側の分岐の地点へと到達します。。
凸2 北側の谷筋への分岐 画像2−1
 城跡へと続く北側の谷筋西側には、近世以降の耕作地跡などの可能性なども想定される時代背景、用途不明の石積み地形(画像2−2)が存在し、この地形を谷筋上方から撮影してみますと3段に分かれた削平地群(画像2−3)を構成していることが把握されますが、中世城館跡との関わりについては分かりかねます。   

東尾根筋への分岐
城跡西端の堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 東尾根筋への分岐 画像3−1
 比高差にして約50mばかり登りつめた辺りで稜線部を見上げることのできる視界の開けた個所(伐根跡あるいは炭焼き小屋跡か)に到達します。
 正しい登攀ルートは右手(東側)の尾根筋へと取り付いてから、主郭西側の郭南側へと西側(左側)へすすむのが安全です。(※下山ルートで確認済み)
 城跡手前の岩稜(画像3−2)が見える位置まで到達すれば城跡まではもう一息です。
凸4 城跡西端の堀切 画像4−1
 西郭西部を防御している堀切を南側から撮影したものですが人工的な竪堀地形は伴わず、堀切自体も右側西郭では深さ約1mを測るにとどまっています。
 ただし西郭自体は元来が東西に細長い痩せ尾根地形であることから、それほど強固な防御の必要が無かったのかもしれません。
 西郭の露岩(画像4−2)
 

主郭西側の堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭と南側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭西側の堀切 画像5−1
 主郭西側の堀切を北西方向から撮影したもの(画像5−2)で、堀切幅自体がやや狭いこともあり深さの割にはそれなりの迫力を感じる遺構となっておりました。
 主郭南西部の小口へは画像右側の斜面に踏み跡を辿ることとなります。また南北方向とも急斜面を形成し明確な竪堀は伴わってはいません。
 
凸6 主郭と南側土塁 画像6−1
 東西に細長い卵型の主郭で、東側および北側には土塁遺構は確認できません。南側(長さ約20m、高さ約1mから1.5m)と西側に明確な土塁遺構を残す主郭南西部の小口付近(画像6−2)の地形と主郭小口付近から撮影した主郭西側の堀切(画像6−3)
 

主郭南東小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北側切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭南東小口付近
 地形としての現状からは堀切の形状を呈していますが、
これに続くべき地形が明確ではなく、さらに主郭の南東部の小口はこの画像の手前から坂小口を形成していました。
凸8 主郭北側切岸
 主郭北側直下の腰郭から撮影したもので、主郭の切岸の高さは目測で5mから6mの急斜面を呈しています。

主郭北側腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東側腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 主郭北側腰郭
 「画像8」と同様に主郭直下の腰郭を撮影したものですが、削平状態も良好で2の郭とも呼べそうな主郭部に比べ約2倍ほどの広さを有しています。
凸10 主郭東側腰郭
 主郭東部の腰郭と比高差8m以上の切岸。主郭から数えて3段ほど下段に所在し、削平状態も良好ですがこの下方の現況は把握しておりません。

西の郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
南西方向からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 西の郭
 細長い痩せ尾根である西郭の西端には、石祠と「御神燈」と刻まれた民間信仰の石碑が祀られていました。
凸12 南西方向からの遠景
 スギ花粉が大量飛散中の岩染城からの帰路に撮影したもので、岩染城からは真北約800mの地点に所在しています。
交通案内

・比高差は約130m前後ですが、稜線までの残り比高差約50m付近にやや急登あり

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史
「富岡市史 自然編、原始・古代中世編」(1987/富岡市)

■史料
なし

・2011/03/24 HPアップ
・2019/05/27 画像のズレ/概念図説明等の訂正
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