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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/12/18のブログ
所在地
 群馬県富岡市内匠
歴史、人物、伝承

後北条氏勢力による築城とも
 「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)によれば、戦国時代末期に後北条氏勢力により築城された可能性をがあることを示唆している。また「甘楽町史」および「日本城郭大系5」などによれば、国峰城主小幡家の重臣である倉股大炊介の居城とも伝わるともいわれている。然し、こうした築城の経緯等については有力な史料を欠くことから詳細については不明な部分が少なくないものと考えられるのではないだろうか。
 なお「上野志」によれば、「国峰天正18年藤田能登守居住」との記述があり、この点について「日本城郭体系5」「富岡市史」「甘楽町史」などでは、天正18年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏攻略の際に小幡氏の国峰城を攻め落とした藤田信吉(上杉氏重臣)がここに在城し現在に伝わる改修を行ったであろうことを推定している。
 藤田能登守信吉(1558−1616)は武蔵天神山城主藤田氏一族の用土業国の子とされ、別名を用土新左衛門尉ともいわれている。北条氏邦の支配下で沼田城主を務めたが、天正8年に沼田城とともにそのまま甲斐武田氏に服属した。天正10年の武田氏滅亡後には、越後上杉氏に仕え後北条氏攻略に戦功をあげた。その後慶長5年の関ヶ原合戦では上杉家から出奔し、徳川家康に仕官し下野西方1万5千石を領するに至ったが、元和元年の大坂夏の陣での失態を理由に改易となり翌年に病没したとされている(「戦国人名辞典」2006/吉川弘文館より引用した)
 「甘楽町史」等によれば別名を井戸沢城、または稲荷城(とうかじょう)ともいう。

確認可能な遺構
 空堀、土塁、郭、小口、櫓台、腰郭、帯郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年12月18日 11時30分から13時30分 、2010年12月30日再訪
訪城の記録 記念撮影

( 2010/12/21 )
 這い上がれない切岸
 この日始めに訪れた蕪川の北岸に所在する根小屋城(蕨城とも)からは直線で4.5km離れた富岡IC近くまで30分ほどの時間を要して移動。城跡は鏑川支流の下川が南と東を取り巻く様に流れ断崖状となった比高差50mばかりの丘陵東端部に占地しています。
 さてこの地域の中世城館跡のかなりの部分がそうであるように、現在の上信越自動車道の建設等により、残念ながら北側空堀跡の一部などが消滅している様子が窺えます。またこれと相前後して先立ち2の郭北辺の空堀も耕作などのために埋め立てられた模様で、その形跡は僅かな窪みとして確認されるだけの存在となっておりました。さらに西側3の郭北部の空堀、土塁、郭遺構についても耕作等のために半ば消失しておりました。然しそうはいっても、外郭部に穿たれた幅約15m、深さ約6mに及ぶ巨大な空堀遺構の存在は圧巻そのものです。
 ただし遺構全体としては竹林などに覆われている部分も少なくなく、些かその見通しに難点もあるという印象が残ります。また南斜面に削平された腰郭群には十分な見応えがあり、それらに伴う切岸もほぼ現役の機能を保有しているようで、ひとたび降りると再び這い上がるのに難渋するほどでありました。
 当初の手筈通り、手持ちの複数の縄張図に記された遺構の残存状況を1時間以上を費やし黙々と照合作業を遂行。とはいえ南東部の腰郭周辺については自分の足回りの現状に照らし、余りに斜度が厳しいことから実地踏査を行うことは叶いませんでした。その後は城跡南辺の遺構群に沿って真っ直ぐに竹林の中を西進し、2本の空堀遺構を横断することにより土橋状地形の存在を確認。そのまま外郭の空堀を北進してようやく城外へと脱出しました。
 この時点で西方の雲量を見る限りでは、実質的な日没時間までには少なくとも2時間近くの余裕もありました。しかし、はからずも足首の筋力欠乏という忌々しき問題が露呈しましたので、己の力量を睨んで元々2か所に絞った計画ではありましたが、予定通りに上信越自動車道に架かる陸橋の上から妙義山方面の絶景を撮影し即座に撤収に移ったのでありました。

( 2010/12/31 )
 念願達成
 ミニオフメンバーのご協力により、前回は疲労のため確認することができなかった主郭南東部の腰郭および崖線東部の状況を踏査できました。
 まず主郭南東部に所在する小さな腰郭(画像B)には、確かに日本城郭大系などに掲載されているとおり目測で深さ1.8mほどの堀切を伴っておりました。なおこの地形を検証するためには切岸地形を滑り降りるか帯郭から這い上がるという些かリスク含みの方法しか考えられませんでした。
 また崖線部東側にアプローチするには、主郭部と二の郭の間の空堀をそのまま東に進むと幾分足元が危うげな急傾斜を伴う竪堀状の地形へと容易に赴くことができる旨も判明しました。

内匠城の二の郭西側空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城の二の郭西側空堀 −画像A−
( 2010/12/18 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」「日本城郭大系4」「富岡市史」「甘楽町史」などに掲載された情報および「電子国土」の地形図等を参考にしつつ現地での印象を加味して作成しています。

内匠城城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
内匠城外郭空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城北側外郭櫓台 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北側外郭空堀
 上信越自動車道の南側側道脇から撮影をしたものですが、高速道路の建設以前には側道部分に大規模な空堀遺構が存在していたものと思われます。空堀遺構内は総じて暗いことから自然光の下で観察できるポイントのひとつでもあります。
凸2 北側外郭櫓台
 北側外郭部の張出部に築造された土塁で、後世の耕作などにより一部削平されている形跡を窺わせます。
 然し最高地点では郭面から約3mの高さを有していることにより、背後に所在する竹林中の空堀の防御効果を高めています。

内匠城主郭への土橋 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城主郭南西 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭への土橋?
 二の郭側から主郭の坂小口(画像左方向)へと続く城道で、主郭の空堀から見た場合にはこのような土橋状の地形を呈していることが読みとれます。
 ただし往時には木製の橋が架けられていたことも想定されますので、この土橋状地形については後世の地形改変である可能性も否定はできないように思われます。
凸4 主郭南西
 主郭の南西部に所在する小郭で南側(画像右方向)の崖線部に沿って高さ1.2mほどの明瞭な低土塁が残存していますが、東寄りに進むほど土塁の痕跡が次第に曖昧となりながら南東角付近まで続いていました。然し主郭東側では明確な土塁としての高まりを確認することは難しいという印象です。

内匠城主郭櫓台、内匠稲荷大明神 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城主郭西側空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭櫓台
 天守台とも推定されている櫓台状の地形で、現在は内匠大明神(稲荷神社)が鎮座しています。
 城内での最高地点とも指摘をされていますが、地表上から見る限りでは、西側二の郭の長大な土塁の存在により西側外郭方面の視界は余り良好とはいえず、櫓などの構造物を必要とするものと考えられます。
凸6 主郭西側空堀
 二の郭外部の15mを超えるような堀幅に比べると主郭の空堀はやや規模が小さいという印象もありますが、左側の画像の櫓台地形が空堀側に大きく張出していることにより主郭としての防御力が向上しているものと考えられているようです。

内匠城主郭南側腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城二の郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭南側腰郭
 主郭南側の下段の腰郭で東側に進むほど帯郭に近い細長い地形となっていました。足回りの弱体化により、この腰郭に到達するまでに主郭の切岸部分で一度、切岸を這い上がり藪のなかでもう一度転倒する羽目に遭ってしまいました。
凸8 二の郭南端
 「画像5」の櫓台と向かい合っている二の郭の南東端部分です。
 肉眼では櫓台を間近に見通すことができますが、竹林が介在するためにデジカメ画像ではこのように訳の分からないようなものとなってしまいました。

内匠城二の郭西側空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城二の郭空堀の土橋 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 二の郭西側空堀
 ことによると縦堀状の地形を形成しているという可能性も考えましたが、肉眼で観察するかぎりでは明確な痕跡は確認できませんでした。
凸10 二の郭空堀の土橋
 二の郭西側の空堀南端部に認められる土橋状の地形ですはありますが、西側の外郭部とは架橋により通行していた可能性も想定されます。

内匠城西側外郭櫓台 ⇒ 画像クリックで拡大します
内匠城西側外郭空堀の土橋 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 西側外郭櫓台
 城跡全体の南西角の要衝付近に所在する櫓台状の地形です。その北側と東側には土塁状の地形が続いているのですが、その上部が余り削平されていないので古墳のようにも見えてしまいます。
凸12 西側外郭空堀の土橋
 左の「画像11」の西側の空堀内に確認される土橋状の地形です。
 無論他の個所と同様に架橋による通行の可能性も想定されます。
交通案内

・比高差約50mの崖端城
・上信越自動車道南側側道の袋路地から南の城跡へ進めば殆ど比高差はありません

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「甘楽町史」(1979/甘楽町)
「富岡市史 自然編、原始・古代中世編」(1987/富岡市)
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
→所収の「上毛古城塁址一覧」によれば、始めは藤田氏の城で、天正18年には倉股大炊介が在城し、その後藤田信吉が一時在城した旨が記されている。

「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
→所収されている「上野志」によると「国峰天正18年藤田能登守居住」との記述があり、この点について「日本城郭体系5」「富岡市史」「甘楽町史」などでは、天正18年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏攻略の際に小幡氏の国峰城を攻め落とした藤田信吉が在城し現在に伝わる改修を行ったであろうことを推定している。

・2010/12/21 HPアップ
・2010/12/31 再訪に伴い加筆訂正、画像追加
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