群馬県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 群馬県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと錯誤についてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。  
群馬県の城館索引へ戻る 西今井館 西今井館のロゴ 西今井館
1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 上矢島城 三ツ木城 境城
所在地
 群馬県伊勢崎市境にし今井町314他(※「マッピングぐんま/遺跡文化財」より)
歴史、人物、伝承

呼称について
「西今井中世居館跡」
 伊勢崎市の史跡指定でもあり「マッピングぐんま」や「伊勢崎市のHP」などでによる呼称です。なお西今井の名称は江戸時代末期に上今井(ないしは今井)から改称されたということです。(「角川日本地名大辞典」より)
「上今井中世館跡」
 現地の解説版によりますと、中世当時におけるかつての村名からこのように呼ばれる場合もあるようです。
「道忍屋敷」
 永禄年間に記録されていた「長楽寺文書」などからはこのような記述も確認されていることを受けて、「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」などでもこの呼称が使用されているようです。
「西今井館」
 「群馬県の中世城館跡」「角川日本地名大辞典」「新田町誌第4巻」や峰岸氏の著書である「歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く」などで使用されている呼称です。当時における地名では無く現在における所在地を冠したものではありますが、あくまでも便宜上分かりやすいこともあり本項においてもこの呼称を使用しております。
「上今居郷屋敷」
 このほか現地解説版によりますと、江戸時代初期に描かれたと推定されているという同所旧家茂木家所蔵の絵図にはこの名称が記されている模様です。

館をめぐる経緯
 当地が上今井とも呼ばれていた12世紀後半頃にその当時は「空閑」(こかん)の地のひとつとされていた荒蕪地(※おそらくは天仁元年(1108)の浅間山噴火の降灰などを背景とした耕作環境未整備地乃至は事実上の耕作放棄地などであろうか)が所在し、新田一族などにより再開発が行われ所謂開発領主ともいわれる在地領主層が増加したものと思われます。
 その後13世紀中頃の鎌倉時代には、「上野国志」の今井村の記述によると、新田一族である今井又太郎政氏の庶子である今井十郎惟氏(※「新田氏系図」などによれば新田義貞からみて2代前の大叔父に相当するとされているが委細不明)が住したともされているようです。しかしこうした「上野国志」の記述が「尊卑分脈」(「尊卑分脉」とも)などの諸系図あるいは口伝等を含め具体的に如何なる史料を元にしたのかという点につきましては管理人の不勉強のため分かりませんが、少なくともいわゆる同時代の文書などの一次史料に基づくものではなさそうに思われます。
 その後は比較的信頼できると思われる同時代史料の寄進状(「源資村寄進状案」弘安10年11月3日(1287)−長楽寺文書50/群馬県史資料編5中世1)によりますと「上今井内道忍跡屋敷堀内」が世良田長楽寺に寄進されており、このことから同所はこの時期には「道忍屋敷跡」と呼称され、経緯は不明ですが今井氏の所領から離れて源資村という者の領地となっていたことが見えます。なお、田中大喜氏によると、この源資村については元久2年(1205)7月の政変により衰退した平賀氏の一族と推定されているようです。(「新田一族の中世」97頁より)
 さらに現地解説板によりますと、その後の戦国時代には桐生から境城主の小此木氏と関わりを有していたとされる茂木氏が移り住み現在に至ったようですが、こうした経緯が「金山伝記」などの記述を元にしているのかどうかも含めて未確認です。なおこの点については、「角川日本地名大辞典」の今井(境町)の項によれば、隣接する矢島村と共に南小二郎(※金山城主由良氏の支配下)が支配したという旨が記されていますが、いまひとつ茂木氏との関係も含めて良く分かりません。
 以上の経過を整理しますと、概ね今井氏−道忍屋敷−源資村所領−世良田長楽寺−岩松氏・由良氏を上位権力として茂木氏ないしは南氏とうような領有の変遷が推定されるものと考えられます。

確認可能な遺構
 堀跡、土塁?
 現地解説板には中世の館跡を今に伝えるとの文言が記されていますが、その後の水路の付け替えを圃場整備や上武道路の建設などにより北部を中心として大きく区画形質が変貌しているものと考えられます。また一部堀跡や土塁状の地形が残存してはいますが、
文化財指定
 伊勢崎市指定史跡(※合併前の旧境町から継承)1967年2月10日指定
訪城年月日
 2018年1月16日 午前9時10分から9時40分
訪城の記録 記念撮影

 旧景はいつの時代のものか?
 この折は伊勢崎市の旧境町方面についてはほぼ地理不案内であったことから、その移動にやや時間を要してしまいましたが、上矢島城方面からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようはありませんでした。
 江戸時代に作成されたと考えられている「今井屋敷絵図」(※「歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く」52頁を参照)によれば、早川から続く水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が克明に描かれています。「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようです。その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったともいわれているようですが明確なことは分からないようです。同書などによりますと、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されています。
 しかし屋敷南側はもちろんのこと、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残存し、いくぶん埋まってはいるものの屋敷南辺の堀跡状の地形は明瞭です。また屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝も確認できます。新田一族である今井氏の館跡ともいわれてはおりますが、そうした経緯および時代背景については必ずしも明確ではないようにも思われ、また鎌倉期の館跡が基本的に大きく改変されることなく、そのままの形態で残存しているのかどうかということについては、あくまでも近世の名主・豪農層の屋敷としての景観を伝えると見るべきなのかも知れません。
 なおこの時は2017年末の「岩手、青森」「滋賀甲賀」「福島郡山東部」などの遠征続きにともなう疲れが蓄積していたようです。久しぶりの約1か月のブランクを挟んでいたということもあり、比較的丁寧に歩き回ったことも影響していたのか些か時間が押し気味なってしまいましたが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西方向に向かい一路前橋市内に所在している上泉城、小坂子城方面を目指しました。更新日からは1年半ほど前のことではありますが、まだこの頃はそれなりに低下していたとはいうもののある程度の気力・体力も残されていたようにも感じます。
( 2019/9/4 記述 )
西今井館
西今井館 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸館跡の北辺部を北東方向から撮影したもので、時代背景は分かりませんが画像中央部横方向のライン部分に堀跡状の地形を確認できます。

西今井館の現地解説板
西今井館の現地解説板城 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 モノクロ加工済 )
凸おそらくこの説明板が設置された以降に館の北側部分の区画形質が大きく変貌した模様です。

西今井館とその周辺の航空写真
西今井館とその周辺の航空写真城 −画像C−
( 2019年8月22日 画像編集加工 )
凸現在では上武道路の建設などの影響により北側の旧景観は失われてはいますが、この航空写真画像から以前の早川の流路と利水の様子をある程度は偲ぶことができるように思われます。おおむね赤色の破線で囲まれた部分が館跡であるものと考えられます。

訪城アルバム
西今井館/南側から
南辺内堀跡の西側部分
凸1 西今井館/南側から
 南側の屋敷門(※後世のもの)で、有難いことに門前には「上記画像B」の文化財解説板が設置されておりました。むろん伊勢崎市指定史跡ではありますが、何よりも所有者の方のご理解とご協力の賜物ですので、見学の範囲には所有者の方のご迷惑にならないように心がけるのでありました。
※画像クリックで拡大します
凸2 南辺内堀跡の西側部分
 長屋門の門前に向って左側(西側)の様子で、いくぶん藪が目立ち、絵図に比べますと堀幅がいくぶん減少しているようにも思いますが、おおむね明確な堀跡状の形跡が続いていることが確認できます。これに対して館跡北辺部の溝状地形の方については区画形質の変更の影響が大きいように思われ、どこまでが旧景観を伝えるものなのか判断しかねました。
※画像クリックで拡大します

墓域
妙見寺
凸3 墓地
 近世に描かれた「西今井屋敷図」にも見える古い墓地が館跡の南東の一画にが所在しておりました。
 後にこの地を拠点とした茂木一族の方々の墓石のほか、その傍らには近世に流行った庚申塔などの民間信仰関係の石造物も所在しておりました。元禄11年、上州新田領今井村と刻まれた青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしく感じました。
 なおこの墓域にはより時代の古い可能性のある五輪塔、宝篋印塔などの石造物については見かけることはできませんでした。
※画像クリックで拡大します
凸4 妙見寺
 館跡の東側に隣接している日蓮宗妙見寺。
こちらの境内で、今井氏、茂木氏、南氏などに関係しそうな古い墓石などの有無について拝見をしようとも思いましたが、この折にはどうやら生憎と宗教的な催事の最中であるようにも思われたことから遠慮させていただくこととなりました。
※画像クリックで拡大します

今井氏館北辺の東側
北辺の西側部分
凸5 今井氏館北辺の東側
 峰岸純夫氏の記された「歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く」などによりますと、早川方面からの利水などの水路(水堀)の痕跡については埋め戻されたことが記されております。
 しかし館跡北辺部の堀跡そのものについては、一部その影響を受けつつもこのように形態を留めているようにも感じたのですが、果たしてどうなのでありましょうか。
※画像クリックで拡大します
凸6 北辺の西側部分
 「画像5」の反対側の西側部分で、こちらについても些か埋没しているという印象も感じますが、一応は堀跡の形跡を留めているようにも思われました。
 このように屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは前項の「画像6」の個所と合わせて長さ80mばかりの堀跡状の比較的大きな溝が確認できるのですが・・・
※画像クリックで拡大します

土塁跡か?
今井館北辺部付近
凸7 土塁跡か?
 前項の「画像6」の個所について北側正面方向から撮影したものです。手前の堀跡状の溝の他にその奥には土塁状?の連続した地形の高まりがある程度は残存しているようにも感じられましたが、果たしてどうなのでありましょうか。
※画像クリックで拡大します
凸8 今井館北辺部付近
 前記「画像1」の青色をした屋根のある母屋の北側方向から拝見した館跡の様子です。
因みに「画像6」の個所はこの画像の中央やや左側付近を東側(画像の左側付近)から撮影しております。
※画像クリックで拡大します
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
□「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
□「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)道忍屋敷として一覧表に掲載あり
□「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)西今井館(道忍屋敷)として掲載あり

歴史・郷土史関係
□「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店) 今井(境町)、西今井(境町)の項参照
□「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)長楽寺文書、永禄長楽寺日記を所収
□「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
□「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
□「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
□「新田町誌第4巻/特集編/新田荘と新田氏」(1984/新田町)西今井館の記述あり
□「新田町誌第1巻/通史編」(1990/新田町)
□「新田町誌第2巻/資料編上(1)」(1987/新田町)
□「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
□「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)西今井館の記述あり
□「境町誌/歴史編上」(1996/境町)記述なし
□「歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/峰岸純夫/吉川弘文館)西今井館の記述あり
□「新田一族の中世」(2015/田中大喜/吉川弘文館)
□「赤堀町誌」(2004/赤堀町)
 本書の137頁には今井大蔵の実娘で赤堀の真下氏に嫁いだとされる赤堀御料人が亡くなり、永禄8年(1565)3月23日の条に世良田長楽寺の「長楽寺永禄日記」の著者である義哲がその菩提を弔った旨の記事に関する解説が掲載されている。ただし本書によれば新田荘に居住すると推定されているものの、この今井大蔵が上今井を本拠とした新田氏傍流の今井一族に連なるものであるのかについては不明であるらしい。

史料、地誌、軍記物
□「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本・寛政年間上梓か)

その他
□「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
□「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
□伊勢崎市公式HP


更新記録
・2019年 9月 4日 HPアップ
・2019年 9月 7日 「赤堀町誌」の記事を加筆
トップ頁へ 群馬県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動