群馬県内の城館跡目次
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1歴史/伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 境城 
所在地
 群馬県伊勢崎市境三ツ木町236―1附近(旧境町)
歴史、人物、伝承

由良氏家臣根岸氏の城館か
 小此木氏(小柴氏とも)の境城からは北東約1.5kmほどの地点に所在しています。「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、仮にその記述が正しいとするならば現在の約4倍ほどの広さを有していたのかも知れません。一方「角川日本地名大辞典10群馬県」の三ツ木村の項では塁跡は東西30間・南北40間の角形であると記しており、これが仮に本丸部分を示すものであるとすると、ほぼ現在の真福寺の境内地の広さに符合していることとなります。
 しかし何れにしましても同寺の境内地を除きその周囲は著しく宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っているため、最早かつての城跡らしい景観はほとんど失われている状況にありますので、こうした現状から城館の配置や規模などを想定することは極めて難しくなっておりました。
 境内地は下記画像のように殆ど平坦なのですが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存しています。また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がありますので、この地形を指していることは間違いが無さそうです。なおかつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのか、今のところではその辺りの詳細な経緯が掴めてはおりません。

※別途要調査
「日本城郭大系」などによれば、永禄年間に由良氏家臣である根岸氏により領有されていたとも記載されているのですが、それらの出典については具体的に確認できていないので、別途「藤生文書」「長楽寺永禄日記」「根岸氏系図」「境町郷土史」などについてそうした経緯についてあらためて調べてみる必要があるものと思われます。

※別名について
 なおこの城館の名称については当サイトにおいて使用している「三ツ木城」(「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」など)と表記するもののほかに、「三ツ木館」(「日本城郭全集」)、「三木塁」(「角川日本地名大辞典」)、「根岸館」(「上毛古城塁址一覧」)などの呼称があります。

確認可能な遺構
 土塁の一部(櫓台か?)城跡標柱・解説板無/但し「霊場めぐり案内板」に三ツ木城主根岸肥後守の姉が当所に庵室を開いた旨の記述は記されている。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年1月16日 8時10分から8時30分
訪城の記録 記念撮影

 土塁か古墳か近世塚か
 早朝の寒さに凍えた伊勢崎市境(旧境町)の「境城」の次は、同じ地域の北東方向に所在する「三ツ木城」へと移動しました。一度「日光例幣使街道」でもある現在の国道354線に出てからこれを右折して、栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木町へと入りました。2017年頃から太田市内南部についてはある程度の土地勘も出てきましたが、その近隣地域とはいうもののこの辺りについては全く詳しくはありません。それでも県別マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく行動できるようにも思われます。相変わらず昔からナビに関しては本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用はしていません。無論マニュアルを含めて小さな文字が見えず、設定などの細かい操作が面倒ということもありますが、ナビについてはあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけで十分あるようにも思われます。一見不便なようでもこの方法の方が結果的には現地の地理が頭に入るということが多いような気がします。また帰路のルート参照には、常に軌跡表示設定をしているのでこれも結構役立つことが多いということもあります。
 境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずでしたが、それでも朝の通勤時ということもあるのか、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり境城方面からの移動には20分近くを要することとなりました。なお城跡らしい景観は極めて限られており、真福寺および三ツ木神社が所在する境内地の北西部に櫓台のようにも見えなくもない土塁状の地形の一部が残存しているのみでした。本来であればもう少し時間を費やして周辺部を含めて確認すべきところなのですが、何分にも周辺は比較的早い時期から宅地化や耕地整備がすすんでいるという様子が窺われ、また無住の寺とはいえ基本的に無関係の部外者が境内の端に駐車させていただいているという事情などもあり結果的に早々の撤収という次第となりました。
( 2019/7/20 記述 )
三ツ木城北西部
三ツ木城北西部の土塁状地形 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸中世城館の土塁のようにも、古墳のようにもあるいは神社普請の際の盛土のようにも見えてしまう人工の盛土地形で、現在は三ツ木神社(稲荷大明神)が所在しています。そして恐らくこの小祠の存在こそが当該土塁状地形の湮滅を踏み止まらせる要因となったものではないかと思われます。
山崎一氏の作成された略測図と「日本城郭大系」などの記述から推測しますと、恐らくは中心部に所在する郭の西側北端部に相当するものと思われます。

城 
三ツ木城とその周辺部の航空写真画像 −画像B−
( 2019年7月17日 編集加工 )
凸概ね赤色の破線部示した一帯が、山崎一氏により三ツ木城として推定されている範囲であるものと考えられます。緑色の実線は現在のように道路改修される以前の「日光例幣使街道」で、現・上武道路と交差しているあたりが、おおむね現在の小角田西交差点付近となるものと思われます。また画像中央を南流している早川の蛇行とその支流の存在が、この平地に所在する城館にとっては数少ない天然の防御線であったことを表しているようにも思えます。

訪城アルバム
真福寺境内
北西部の土塁状地形
凸1 真福寺境内
 周辺は普通の住宅地でもあることから、路上駐車を避けるべく、またできるだけタイヤ跡が残らぬように注意しつつ暫時境内の隅の方に停めさせていただきました。
 この真福寺は明和2年(1765)に佐波34か所観音霊場が設けられ、第29番札所とされています。
※画像クリックで「真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板」へリンクします
凸2 北西部の土塁状地形
 比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの土塁状の地形でが、厳冬期の早朝での撮影のため寒々しい画像となっています。三ツ木城の北西部分に相当するものと考えられ、現在は小さな稲荷大明神の祠が祭られた三ツ木神社の境内地となっています。
※画像クリックで拡大します

古い石塔群
凸3 古い石塔群
 「角川日本地名大辞典10群馬県」に掲載されている近世三ツ木村の項によりますと「根岸肥後守の五輪塔が所在する」という旨が記されております。確かに画像の右端付近に古い五輪塔状の石塔は2基ほど確認できるものの何れが該当するのかについては分かりかねました。
※画像クリックで拡大します
凸4 真福寺と稲荷大明神
 おそらく真福寺については元々概ねこの位置に所在していたとものと推定されますが、併設されている稲荷大明神については享保2年(1717)の大火の後に三ツ木の集落と共にこちらへ移転してきたものではないかと思われますが、近代の大規模な神社合祀も想定されることから詳細については不明です。
※画像クリックで拡大します

日光例幣使街道
みつぎ公園
凸5 日光例幣使街道
 この画像はあくまでも現在の日光例幣使街道(正保4年/1647年開通)を西側から撮影したものです。この道路改良工事以前には画像Bの航空写真画像ように三ツ木の集落の南側(画像左側付近)に沿って概ね東西方向に通過していたものと考えられます。
 ただし、以前の集落は鎮守である稲荷社を中心にして約400mほど北側に所在しており、享保2年(1717)の大火により全村が焼失し現在の街道位置に移転したと伝わっているようです。(※「角川日本地名大辞典10群馬県」より)
凸6 みつぎ公園
 真福寺境内の西側の市道を挟んだ個所には「みつぎ公園」という新しい施設が所在しており、この公園の辺りまでが広い意味での城館跡のエリアとなるように思われます。
 なお、この画像の左端に築山状の地形が存在しますが、城館跡や古墳などとは関係のない公園整備に伴う築山であるように思われました。
※画像クリックで拡大します
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
□「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 以下に全文を転載したが、下記の城郭大系とは異なった縄張構成であったことを示唆している。
 「真福寺が単郭の館跡である。西北部の土居と堀跡を残している。新田地方における城址の大部分はこれと同じ南北朝時代の館跡である。ここし由良氏時代にも出城として用いられ、根岸三河の持であった。」
 出版年も古いことから、その時代背景は別としても本来はその旧情について最も詳細に記されてしかるべきものと考えられるが、現地調査などの不十分さが窺えるように思われる。

□「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
 永禄年間の築城で、根岸三河守助国を城主とする。また真福寺境内を方100mの本丸として、東と南に虎口跡を有し、北と西に高土居が残り、二の丸にはその四方に一か所ずつの虎口があったと記しているが、縄張図については掲載されてはいない。

□「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
 あくまでも一覧表による略述のみではあるが、存続期間16世紀、築城・在城者として根岸肥前守・根岸三河守などのほか、堀・櫓台・井戸などが所在していたことを示し、山崎一氏の作成された略測図が付されている。この略測図からはいちおう二の丸が本丸を囲む囲郭形式の城館であったことが窺われ、この点については城郭大系と記述と通じるものがある。

歴史・郷土史関係
□「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
 本来は地名辞典として編纂されたものであるが、三ツ木城と根岸氏に関しての記述が詳しいこともあり以下に抜粋した。
 三ツ木(境町)の項に「戦国期太田金山城主横瀬氏の武将根岸肥後守三木塁(※三ツ木城をさす)を構えて居館とした。根岸肥後守は武士城主根岸三河守の弟で、「永禄日記」(※長楽寺永禄日記)には、根岸肥前の名でしきりに長楽寺に出入りしているが、根岸系図および贈品納什銘には、根岸肥後守繁道とある。村の東端竜灯堀の地で合戦があり、武士城・三木時様兵が討勝し、横瀬国重の感状があった。・・・三木塁には根岸肥後守退去の後、姉眞永寿尼が草庵を結んで老後を送り、寛永3年に死去。その後草庵は真福寺に改められ、肥後守の五輪塔がある。塁跡は東西30間・南北40間の角形、高さ2間2尺の土塁をめぐらし、深さ3間の周濠がある。近年この土塁周濠が取り崩され一部を残すだけとなる。岩鼻(※群馬県高崎市内)に去った根岸氏子孫は、天保7年に肥後守の遺品周輪(※甲冑の喉輪部分か)を真福寺に寄進した。」と記されている。なお以上の記述に関してはその拠り所となるべき具体的な史料名等が示されてはいないこともあり、この記述だけからは伝承と史実の関係も不明である。
 なお「三ツ木」の地名の起こりについては古代荘園制の「貢田」(こうでん)に由来するとも記載されているがその詳細は不明である。

「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)
「境町誌/歴史編上」(1996/境町) 三ツ木城に関する記述は特に掲載されてはいない

史料、地誌、軍記物
□「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 このうち「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)に「根岸館 境町三ツ木/単郭/根岸三河守助国の城」との記述があるのだが、城郭大系などとの記述とは相違している。

□「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)新田郡の一村として「三木村」が所在している旨の記述が見られるのみであり、この三ツ木村については「上野志」「上毛風土記」には記述自体が確認できない。この点について「角川日本地名大辞典10群馬県」の中世三ツ木村の項によると、平安末期には空閑(こかん)の郷々のひとつとされ・・・村は新田荘の基本単位である郷に対し、新田開発や耕作放棄後の再開発によって生まれた村落を示し、三ツ木村については世良田、上今井郷に両属していたものと考えられると示唆しており、他の地誌類にその名称が確認されない理由についてはこうした事情を反映したものとも推定されるのだがどうであろうか。

その他
□「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つが、この城館については独立した遺跡としては扱われておらず、市町村番号SA109の「三ツ木・西林遺跡」に含まれている。このため表示されている包蔵地の範囲と城館跡の範囲については一致してはいない模様である。

□「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。この三ツ木城についてもその中心部とも考えられている真福寺境内の様子がある程度は把握できるものと考える。


更新記録
・2019年 7月21日 HPアップ
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