■城郭関係
□「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
以下に全文を転載したが、下記の城郭大系とは異なった縄張構成であったことを示唆している。
「真福寺が単郭の館跡である。西北部の土居と堀跡を残している。新田地方における城址の大部分はこれと同じ南北朝時代の館跡である。ここし由良氏時代にも出城として用いられ、根岸三河の持であった。」
出版年も古いことから、その時代背景は別としても本来はその旧情について最も詳細に記されてしかるべきものと考えられるが、現地調査などの不十分さが窺えるように思われる。
□「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
永禄年間の築城で、根岸三河守助国を城主とする。また真福寺境内を方100mの本丸として、東と南に虎口跡を有し、北と西に高土居が残り、二の丸にはその四方に一か所ずつの虎口があったと記しているが、縄張図については掲載されてはいない。
□「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
あくまでも一覧表による略述のみではあるが、存続期間16世紀、築城・在城者として根岸肥前守・根岸三河守などのほか、堀・櫓台・井戸などが所在していたことを示し、山崎一氏の作成された略測図が付されている。この略測図からはいちおう二の丸が本丸を囲む囲郭形式の城館であったことが窺われ、この点については城郭大系と記述と通じるものがある。
■歴史・郷土史関係
□「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
本来は地名辞典として編纂されたものであるが、三ツ木城と根岸氏に関しての記述が詳しいこともあり以下に抜粋した。
三ツ木(境町)の項に「戦国期太田金山城主横瀬氏の武将根岸肥後守が三木塁(※三ツ木城をさす)を構えて居館とした。根岸肥後守は武士城主根岸三河守の弟で、「永禄日記」(※長楽寺永禄日記)には、根岸肥前の名でしきりに長楽寺に出入りしているが、根岸系図および贈品納什銘には、根岸肥後守繁道とある。村の東端竜灯堀の地で合戦があり、武士城・三木時様兵が討勝し、横瀬国重の感状があった。・・・三木塁には根岸肥後守退去の後、姉眞永寿尼が草庵を結んで老後を送り、寛永3年に死去。その後草庵は真福寺に改められ、肥後守の五輪塔がある。塁跡は東西30間・南北40間の角形、高さ2間2尺の土塁をめぐらし、深さ3間の周濠がある。近年この土塁周濠が取り崩され一部を残すだけとなる。岩鼻(※群馬県高崎市内)に去った根岸氏子孫は、天保7年に肥後守の遺品周輪(※甲冑の喉輪部分か)を真福寺に寄進した。」と記されている。なお以上の記述に関してはその拠り所となるべき具体的な史料名等が示されてはいないこともあり、この記述だけからは伝承と史実の関係も不明である。
なお「三ツ木」の地名の起こりについては古代荘園制の「貢田」(こうでん)に由来するとも記載されているがその詳細は不明である。
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)
「境町誌/歴史編上」(1996/境町) 三ツ木城に関する記述は特に掲載されてはいない
■史料、地誌、軍記物
□「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
このうち「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)に「根岸館 境町三ツ木/単郭/根岸三河守助国の城」との記述があるのだが、城郭大系などとの記述とは相違している。
□「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)新田郡の一村として「三木村」が所在している旨の記述が見られるのみであり、この三ツ木村については「上野志」「上毛風土記」には記述自体が確認できない。この点について「角川日本地名大辞典10群馬県」の中世三ツ木村の項によると、平安末期には空閑(こかん)の郷々のひとつとされ・・・村は新田荘の基本単位である郷に対し、新田開発や耕作放棄後の再開発によって生まれた村落を示し、三ツ木村については世良田、上今井郷に両属していたものと考えられると示唆しており、他の地誌類にその名称が確認されない理由についてはこうした事情を反映したものとも推定されるのだがどうであろうか。
■その他
□「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つが、この城館については独立した遺跡としては扱われておらず、市町村番号SA109の「三ツ木・西林遺跡」に含まれている。このため表示されている包蔵地の範囲と城館跡の範囲については一致してはいない模様である。
□「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。この三ツ木城についてもその中心部とも考えられている真福寺境内の様子がある程度は把握できるものと考える。