群馬県内の城館跡目次
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1歴史/伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 
所在地
 群馬県伊勢崎市境町−旧境町城山
歴史、人物、伝承

境目の城-戦国期の城館跡
 群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成されたと思われる略測図(縄張図)によりますと、その郭内には東に長光寺、西に旧群馬県立境高等学校、北西角には境神社の境内が記されており、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡(弁天池)が所在し、北辺、西辺および東辺には堀跡とこれに並行する土塁状の地形も存在していた模様ですが、現在ではそうした遺構はほぼ完全に湮滅しているらしく、また城跡に関する標柱、解説板なども一切設置されてはおりません。なおほぼ山崎氏の調査以外には旧状を伝えるような資料は見当たらず、単郭/複郭、虎口の位置形状などを伝える情報は無さそうです。
 なお境の地名については桐生市境野の地名の例をとるまでも無く、由良氏の新田領と那波氏の領地境(郡境)に所在したことに因むものとも考えられますが、あくまでもその詳細は不明というべきなのかも知れません。

凸城館名について
 この城館名には少なくとも6種類ほどの名称があることから、いちおう次のように整理してみました。
□境城(さかいじょう/一般的な呼称)当所の地名などから/伊勢崎市史、群馬県の中世城館跡、日本城郭大系、日本城郭全集、角川日本地名大辞典など多くの関係資料で使用されている。

□小柴の砦(こしばのとりで/代表的な別名)領主名から/伊勢崎市史、群馬県の中世城館跡、日本城郭全集など

□仮屋敷(かりやしき)呼称経緯不詳、徳川入府時の直臣などの陣屋に因むものか?、あるいは旧地名である仮宿(かりやど)に因むものか?/群馬県の中世城郭跡のみ

□境の故塁(さかいのこるい)地誌/上野国志、上州故城塁記など

□長光塁跡(ちょうこうるいあと・ながみつるいあと/※城主小柴長光に因むものと考えられる)地誌/伊勢崎風土記のみか

□小柴塁(こしばるい/小柴氏に因む)地誌/伊勢崎風土記のみか

謎の小此木氏或いは小柴氏との関係
 城主あるいは領主に関しては下記の参考・引用資料に示したように、おおむね井上氏に始まり小此木氏(おこのぎし)、小柴氏(こしばし/※小此木氏と同一か?)などの領主名が伝わります。しかしこれらについては掲載資料により時代背景などを含めて異同が散見されているため、現在のところでは不明な部分があり定説というべきものが見当たりません。

確認可能な遺構
 堀跡(弁天池)、微かな土塁跡?/標柱・説明板不在
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年1月16日 午前7時00分から7時50分
訪城の記録 記念撮影

 寒い朝
 2017年12月10日の滋賀県遠征以来となる久しぶりの城跡探訪です。この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いておりました。このような次第で生来の在宅癖(出不精)と冬季傾眠傾向が復活してしまい約1か月以上となるブランクでした。
さて今回の行先の選択肢には、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多ありましたが、このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外して、正月を挟みここしばらくまともに歩いていないこともあり、結局は足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)および前橋市(赤城山南麓)方面ということになりました。
 昨年秋に数回ほど連続して訪れていた慣れ親しんでいた太田市の西側に隣接している地域でもあります。このため途中の経路は東松山(国道254線)−熊谷(国道407号線)−深谷(深谷バイパス)−太田市内経由というルートであることから、この方面の交通事情についても殆ど問題はありません。また目的地の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みでしたが、次々と増殖を続けている探訪予定の資料群については、このままにしておくと用意していた資料の所在のみならずその存在自体さえも忘れてしまう恐れもある昨今でもありました (^^ゞ
 そうはいってもこの方面については約3か月ぶりということもあり、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付き現在位置の確認のため少々手間取ることと相成りました。現在走行しているこの道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったのですが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのことでした。 それでも目的地は長光寺とその南にある弁天池でしたので、ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替えて無事午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着いたしました。
 手始めに弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、北西隅に所在している境神社からは再び元の道を戻ってみましたが、地表上に確認できそうな明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうででした。なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているのですが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定されその判断に迷いました。なお「群馬県の中世城館跡」では一応「崖城」の扱いが為されてはいるのですが、現状では南方の利根川支流の広瀬川に向かって緩やかな斜面が確認されるだけでありました。仮に現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるとしますと、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかというような低台地地形であったように感じました。
 群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる略測図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようです。
 念のため帰宅後に1947年前後に撮影された古い国土地理院の航空写真等を確認してみましたところでは、城沼跡(弁天池)は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていませんでした。ただし現在のように墓地は南側には拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たりませんでした。なお墓碑などの建立の経緯を拝見する限りでは、遅くとも1970年代の初め頃には既に原型を留め難くなっていたのかも知れません。このあとは近隣に所在している同じく伊勢崎市内の三ツ木城方面へと移動しました。
( 2019/7/15 記述 )
境城の弁天池
境城の弁天池 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸季節は1月半ばということもあり、午前7時前という時刻では未だ弁天池に薄氷が張りつめておりました。そろそろ日の出の時刻なのですが市街地からはやや外れていることもあるのかも知れませんが外気温は未だに氷点下でした。

境城の国土地理院航空写真
境城の国土地理院航空写真 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸おおむね楕円形の赤枠内が境城と推定されている個所であり、南側の弁天池付近の当時の様子もある程度は把握できます。しかし一部樹木に隠れている部分も存在していることもあり、この戦後間もない時期に撮影された航空写真でさえもそれ以外の明確な遺構を見出すことは難しいように感じました。

訪城アルバム
堀跡ともいわれている弁天池
境城の東側
凸1 弁天池
 境城の堀跡ともいわれている城跡の南端部に所在している弁天池で、上記「画像B」の航空写真からも分かるように北西方向から延々と続いている旧川道のような地形も確認できることから、恐らくはこうした自然地形を利用した堀跡ではないかと思われます。
※画像クリックで拡大します
凸2 境城の東側
 道路部分だけを見ているとやや分かりにくいのですが、この地は南に傾斜した台地地形となっております。
天台宗長光寺境内東側のブロック塀の基礎部分をよくよく観察してみますと、階段状に少しずつ上っており、このため画像の左手前(南側)から右奥(北側)にかけて緩やかな上り坂となっていることが分かります。
※画像クリックで拡大します

長光寺東山門
東側の内門
凸3 小柴山自性院長光寺東山門
 画像の色合いがオレンジがかっているのは丁度太陽が顔を覗かせ始めていることによるものです。
 この天台宗の寺名が小柴左衛門尉長光(あるいは小此木左衛門尉長光)との関係を有するものかについては、江戸時代の寛政10年(1798年)に伊勢崎藩家老である関重嶷(せき/しげたか)により編纂された「伊勢崎風土記下巻」仏寺の項に掲載されています。
 当寺は伊勢崎佐波観音霊場32番となっておりました。また本尊である懸仏は群馬県重要文化財に指定されているとのことであります。
※観音霊場巡りの案内板へリンクします(因みに画像4の文言とほぼ同様のものが案内板に記されております)
凸4 東側の内門
 ほんの僅かな時間差でみるみる日が昇ってきました。
 応永年間に創建されたが兵火により焼失し、江戸時代初期頃に再建されたと伝わります。さらに左記の「伊勢崎風土記下巻」によりますと、
「長光寺、境町に在り天台宗世良田長楽寺末派/小柴左衛門長光の開基である/よって小柴山と号する/また稲荷山自性院ともいう/村中の稲荷祠を統括する/自性院とはこれ即ち長光の法号である」(一部現代文に変更してあります)
 という記述くらいしか知りえておりません。今のところ他の関係資料を渉猟している余裕がなく、この風土記は同時代史料では無いということもあり、あくまでも後世に編纂された地誌であることからその真偽のほどについては分かりかねております。

蘭学医村上随憲の墓
城域の北辺部
凸5 蘭学医村上随憲の墓
 幕末の蘭学医村上随憲の墓所で伊勢崎市の指定文化財となっています。また背景のコンクリート製の建物は群馬県立伊勢崎高等特別支援学校(旧群馬県立境高等学校)で、関係資料によりますとそちらの校庭の方も城域に含まれているとされていましたが、むろん既に地表の遺構は無く早朝でもあることからフェンス越しに一瞥するに留めております。
※蘭学医村上随憲の墓の解説
凸6 城域の北辺部
 境城の北辺部の公道ですがこのような曲折が見られましたので念のために撮影しておいたものです。こうした道路の形状が横矢あるいは虎口の喰い違いによるものか、あくまでも後の宅地化などの進行によるものなのかについては不明であります。
 なお、山崎一氏の作成された略測図によりますと、この画像の左手付近がかつての土塁と堀跡が直角に折れている北東隅の個所に相当するものと考えられます。また当該隅部分がいくぶん膨らみを見せていることから想定いたしますと、本来は櫓台などの存在を窺わせるものなのかも知れないなどと勝手な妄想を膨らませたりしております。

境神社
城跡の西側
凸7 境神社
 城跡の北西隅付近に所在しているこの地の総鎮守とされている神社です。主祭神は「倉稲魂命」(くらいなたまのみこと)であり、石柱には「瑳珂比神社」(さかい/じんじゃ)として刻まれておりました。
※境神社の縁起へリンクします
凸8 城跡の西側
 画像の左側が神社境内で、山崎一氏の略測図によりますと、おおむねこの公道附近がかつての西側の堀跡に相当するものと考えられます。
なお、この公道を約60mほど真っ直ぐ奥へと進んでいきますと小さな坂を下るようになりますが、おおむねその附近が城域の南西部に相当するものと考えられます。

境神社境内の西側
「境公園」と築山
凸9 境神社境内の西側
 前記「画像8」のブロック塀の内側に相当する画像で、この画像からは非常に分り辛いのですが、この社殿裏の地面が僅かに盛り上がっているようにも見受けられました。
 ブロック塀の内外の段差は約40cmほどを有しており、おおむねかつての土塁の所在地と符合するものとは思われるのですが、後年における当社殿や境内地の整備などにより形成されたものであるという可能性も想定されますので実に悩ましいところです。
※画像クリックで拡大します
凸10 「境公園」と築山
 境城跡附近には城跡であることを示す文化財標柱、解説板などの類は所在しておりませんが、弁天池の北側に所在している築山のある個所は公園化され「境公園」という石柱が設置されておりました。この石柱が城跡との関連を想起する唯一の目印なのかも知れません。
また「境公園」の築山には数十年物の樹木が生えてはいましたが、恐らくは古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののように感じました。
※画像クリックで拡大します
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係

□「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 年号などの誤記が含まれ「群馬の古城」の記述に酷似した個所もあるがその全文を引用した。
「境神社、境高等学校、長光寺の区域が境城址である。正保3年(1646/※年号の誤りか)井上平左衛門の築城であるが、天正の頃に小柴盛光とその子長光が在城したので、小柴の砦ともいう。小柴長光は、由良成繁に内通し、弘治2年(1556)2月、金山に向かう那波勢の側面を奇襲させ、那波宗俊は敗北した。「井上家古文書」によると「小柴左衛門尉長光住当州境城・・・祖父和泉守、新田、岩附相戦う時(天文13年5月28日)、小泉において岩附軍将川口丹後守を討ちその甲兵を奪う」とある。「新田記」に永禄8年2月21日、新田境目城を定む。境城主小柴左衛門佐、木崎城主小此木和泉守」としているのは、木崎城主の項に誤りがあるらしい。」
 文末の木崎城については現太田市新田木崎町に木崎館という名称の中世城館跡が所在しているもののその関連性については不明である。


□「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
 巻末その他の城郭一覧に「境城 佐波郡境町境 井上平左衛門が築城。のちに小柴長光の城となる」と略述されているが、その出典については特に明記されてはいない。
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)略述あり

□「群馬の古城 中東毛編」(/山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
 所在地住所表記などにやや誤りがあり情報も全体としてやや古くなっているが、取り敢えず以下に全文を引用した。
 「境城 境の地の境神社、境高等学校、長光寺(元は澄光寺)の区域が境城址である。面積は2町8反7畝27歩(285アール)という。南は城沼(芦沼)に面する高さ4メートルほどの崖を利用し他の三法(※方の誤記か)に濠をめぐらした単郭堡で、東西150m、南北は東面が150m、西麺が60mの五角形であった。城沼は東端部が残り、中の小島に弁財天が祭られているので弁天池と呼んでいる。この城は、正保3年(※1666年となり元号の誤記か)、井上平左衛門の築城で、天正の頃には小柴盛光、その子左衛門尉長光が在城し、小此木村等を領し、はじめ那波氏、のちに由良氏に属した。福寿院記録(※伊勢崎市境町小此木に所在する寺院)「元禄3年(※元号の誤記か)8月より元能登国領主小柴左衛門長光」井上家古文書(201号) 「上野国勢多郡父姓紀氏小柴左衛門長光住当州境城・・・・祖父和泉守(井上氏)、新田、岩附相戦う時(天文13年5月28日・・・異本新田記)、小和泉(※小泉か)において岩附軍将川口丹後守を討ち、その甲兵を奪う、今に至るまで家に蔵す。諸郡感讃、その子繁久壮歳宇都宮城主本多上野介に仕え、年老いて自ら罷む」とあり、小柴氏以前この城は井上氏が在城していたようである。 」
 いちおう能登の井上氏がこの地に移り地名に因む小柴を姓としたという流れについては理解できるものの、全体として誤記が散見され改めてその出典等を慎重に確認する必要を感じる。

歴史・郷土史関係

□「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
 小此木村、境町に関して、下記の「伊勢崎風土記」と「上野国志」の記述を引用している。


「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
□「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
 「境城(小柴の砦)は、佐波郡境町の境神社・県立酒井高校(現・群馬県立伊勢崎高等特別支援学校)・長光寺(元は澄光寺)の地を堀・土塁で方形に囲み、南を城沼跡(芦沼)の低地(その一部は弁天池となる)で防御する所に立地していた。東西150m、南北は東面で1500m(※150mの誤記か)、西麺で60mの巨大な台形状館跡である。性格不明の館跡であるが、鎌倉時代以来の小柴氏の館跡と考えられる。なお、この境城より700m南の中島に堀ノ内の小字名がある。」と記されており、小此木氏と井上氏などについては特に触れられてはいない。
 なおこの記述についてはおおむね山崎一氏の「群馬の古城」(※底本は「群馬の古城塁址の研究」である)に掲載されているのものと同様である。また今のところ小字堀ノ内については所在地情報の不足により未確認である。
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
□「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
 「関東幕注文」に関する記述があり新田衆由良氏家臣の同心として小柴左衛門次郎、小柴伊勢守、小柴宮内少輔などの名を見ることができ、小柴氏は境町小此木を本拠地とする領主である旨を記している。
□「境町誌/歴史編上」(1996/境町) 関東幕注文に関する記述があるとともに「小此木合戦」(享徳4年4月/1455)に関する記述が掲載されている。これによると古河公方足利成氏の命を受けた岩松持国は管領方である上州一揆の那波・小此木氏を打破し、小此木刑部左衛門尉を討取ったことが感状の写ではあるが古文書として遺されている。(足利成氏感状写/正木文書231)なお同書によれば、この当時小此木氏は苗字の地である小此木より西方の富塚(伊勢崎市)を在所としていたとも記している。

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※上州古城塁記、上毛古城塁址一覧を所収
□「上州古城塁記」(宝暦年間に編纂された近世地誌)
「境の故塁 今長光寺の前にあり、もと那波の持なり、後金山(※太田金山城/由良氏の本拠)より小此木左衛門長光を置く、天正後に廃す」
「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)略述あり

□「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)
 幕末から明治初期にかけて編纂された地誌ではあるが、佐位郡小此木村の項に「元亨(※げんこう、1321−1324/鎌倉時代末期)の比(※ころ)、小此木彦次郎盛光と云う者あり、天文の比、小此木左衛門尉長光、横瀬(※由良氏)が臣なり」と記されている。
 また、同郡の城址として「境の故塁 今長光寺の前にあり、もと那波の持なり、後金山(※太田金山城/由良氏の本拠)より小此木左衛門長光を置く、天正後に廃す」という旨も記され一貫して小此木氏との関わりが示されているが、この部分については「上州故城塁記」の記述をそのまま引用している。

□「伊勢崎風土記」(上野志料集成1/1917/歓呼堂本店※旧世良田小学校蔵書第63号)
 この風土記は寛政10年(1798年)に伊勢崎藩家老である関重嶷(せき/しげたか)により編纂されたとされている。
「伊勢崎風土記下巻」によれば城跡に所在する長光寺について、「長光寺、境町に在り天台宗世良田長楽寺末派/小柴左衛門長光の開基である/よって小柴山と号する/また稲荷山自性院ともいう/村中の稲荷祠を統括する/自性院とはこれ即ち長光の法号である」(一部現代文に変更してあります)との記述があり、この記述については長光寺境内に設置されている「佐波伊勢崎観音霊場32番」の解説板の記述と同一の内容となっており、小此木氏は登場せずに一貫して小柴氏の名で通している。
 また、小此木村については「昔はただ結縷(しば)草があるだけで、小芝村と呼んだ・・・その後少しずつ樹木が生育して小柴村と改めた・・・そう遠くない昔に柴の文字を分けて小此木村と呼ぶようになった・・・元亀・天正年間には小柴左衛門長光(能登国人)が来住した」と云う旨が記されている。
 なお境町については「小柴村から分かれたもので昔は仮宿村と呼んでおり、長光塁跡が所在している」とも記されている。
 このほか上巻の古城塁の項には「小柴塁 境町にあり、今なお遺構が残る 佐位・那波・新田の三郡の境界に所在し、今は林となり城山と呼ばれている。小柴左衛門長光(能登国の出身)が元亀・天正年間には居を構えた」(※意訳)と記されている。


その他
□「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ この境城については「マッピングぐんま」の文化財地図には収録されてはおりません。強いて言えば「境・町並遺跡」(遺跡番号SA114、所在地伊勢崎市境町495他、古墳時代、散布地)という遺跡(包蔵地)が、城跡の北部(概ね境神社と墓地を除く長光寺境内付近)に所在しております。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあります。(画像B参照)
「伊勢崎市公式HP」ほか

□「嵯珂比神社由緒」(境神社鳥居前に設置)
 「由緒 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り、境他6か村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521−27)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀3年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正8年(1590/※天正18年の誤記か)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣大明神と改めた・・・(※以下略)」との縁起が記されているが、その出典については特に明記されてはおらず、また小柴氏については特に触れることも無くこれを一貫して小此木氏の名称で通している。

更新記録
・2019年 7月16日 HP暫定アップ
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