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2018年1月16日のブログ |
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群馬県伊勢崎市境町−旧境町城山 |
( 2018年1月16日 撮影 ) 凸季節は1月半ばということもあり、午前7時前という時刻では未だ弁天池に薄氷が張りつめておりました。そろそろ日の出の時刻なのですが市街地からはやや外れていることもあるのかも知れませんが外気温は未だに氷点下でした。
( 2018年1月16日 撮影 ) 凸おおむね楕円形の赤枠内が境城と推定されている個所であり、南側の弁天池付近の当時の様子もある程度は把握できます。しかし一部樹木に隠れている部分も存在していることもあり、この戦後間もない時期に撮影された航空写真でさえもそれ以外の明確な遺構を見出すことは難しいように感じました。
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係 □「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社) 巻末その他の城郭一覧に「境城 佐波郡境町境 井上平左衛門が築城。のちに小柴長光の城となる」と略述されているが、その出典については特に明記されてはいない。 「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)略述あり □「群馬の古城 中東毛編」(/山崎 一 著/2003/あかぎ出版) 所在地住所表記などにやや誤りがあり情報も全体としてやや古くなっているが、取り敢えず以下に全文を引用した。 「境城 境の地の境神社、境高等学校、長光寺(元は澄光寺)の区域が境城址である。面積は2町8反7畝27歩(285アール)という。南は城沼(芦沼)に面する高さ4メートルほどの崖を利用し他の三法(※方の誤記か)に濠をめぐらした単郭堡で、東西150m、南北は東面が150m、西麺が60mの五角形であった。城沼は東端部が残り、中の小島に弁財天が祭られているので弁天池と呼んでいる。この城は、正保3年(※1666年となり元号の誤記か)、井上平左衛門の築城で、天正の頃には小柴盛光、その子左衛門尉長光が在城し、小此木村等を領し、はじめ那波氏、のちに由良氏に属した。福寿院記録(※伊勢崎市境町小此木に所在する寺院)「元禄3年(※元号の誤記か)8月より元能登国領主小柴左衛門長光」井上家古文書(201号) 「上野国勢多郡父姓紀氏小柴左衛門長光住当州境城・・・・祖父和泉守(井上氏)、新田、岩附相戦う時(天文13年5月28日・・・異本新田記)、小和泉(※小泉か)において岩附軍将川口丹後守を討ち、その甲兵を奪う、今に至るまで家に蔵す。諸郡感讃、その子繁久壮歳宇都宮城主本多上野介に仕え、年老いて自ら罷む」とあり、小柴氏以前この城は井上氏が在城していたようである。 」 いちおう能登の井上氏がこの地に移り地名に因む小柴を姓としたという流れについては理解できるものの、全体として誤記が散見され改めてその出典等を慎重に確認する必要を感じる。 ■歴史・郷土史関係 「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社) 「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫) 「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫) 「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版) □「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市) 「境城(小柴の砦)は、佐波郡境町の境神社・県立酒井高校(現・群馬県立伊勢崎高等特別支援学校)・長光寺(元は澄光寺)の地を堀・土塁で方形に囲み、南を城沼跡(芦沼)の低地(その一部は弁天池となる)で防御する所に立地していた。東西150m、南北は東面で1500m(※150mの誤記か)、西麺で60mの巨大な台形状館跡である。性格不明の館跡であるが、鎌倉時代以来の小柴氏の館跡と考えられる。なお、この境城より700m南の中島に堀ノ内の小字名がある。」と記されており、小此木氏と井上氏などについては特に触れられてはいない。 なおこの記述についてはおおむね山崎一氏の「群馬の古城」(※底本は「群馬の古城塁址の研究」である)に掲載されているのものと同様である。また今のところ小字堀ノ内については所在地情報の不足により未確認である。 「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会) □「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町) 「関東幕注文」に関する記述があり新田衆由良氏家臣の同心として小柴左衛門次郎、小柴伊勢守、小柴宮内少輔などの名を見ることができ、小柴氏は境町小此木を本拠地とする領主である旨を記している。 □「境町誌/歴史編上」(1996/境町) 関東幕注文に関する記述があるとともに「小此木合戦」(享徳4年4月/1455)に関する記述が掲載されている。これによると古河公方足利成氏の命を受けた岩松持国は管領方である上州一揆の那波・小此木氏を打破し、小此木刑部左衛門尉を討取ったことが感状の写ではあるが古文書として遺されている。(足利成氏感状写/正木文書231)なお同書によれば、この当時小此木氏は苗字の地である小此木より西方の富塚(伊勢崎市)を在所としていたとも記している。 ■史料、地誌、軍記物 「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会) ※上州古城塁記、上毛古城塁址一覧を所収 □「上州古城塁記」(宝暦年間に編纂された近世地誌) 「境の故塁 今長光寺の前にあり、もと那波の持なり、後金山(※太田金山城/由良氏の本拠)より小此木左衛門長光を置く、天正後に廃す」 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)略述あり □「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本) 幕末から明治初期にかけて編纂された地誌ではあるが、佐位郡小此木村の項に「元亨(※げんこう、1321−1324/鎌倉時代末期)の比(※ころ)、小此木彦次郎盛光と云う者あり、天文の比、小此木左衛門尉長光、横瀬(※由良氏)が臣なり」と記されている。 また、同郡の城址として「境の故塁 今長光寺の前にあり、もと那波の持なり、後金山(※太田金山城/由良氏の本拠)より小此木左衛門長光を置く、天正後に廃す」という旨も記され一貫して小此木氏との関わりが示されているが、この部分については「上州故城塁記」の記述をそのまま引用している。 □「伊勢崎風土記」(上野志料集成1/1917/歓呼堂本店※旧世良田小学校蔵書第63号) この風土記は寛政10年(1798年)に伊勢崎藩家老である関重嶷(せき/しげたか)により編纂されたとされている。 「伊勢崎風土記下巻」によれば城跡に所在する長光寺について、「長光寺、境町に在り天台宗世良田長楽寺末派/小柴左衛門長光の開基である/よって小柴山と号する/また稲荷山自性院ともいう/村中の稲荷祠を統括する/自性院とはこれ即ち長光の法号である」(一部現代文に変更してあります)との記述があり、この記述については長光寺境内に設置されている「佐波伊勢崎観音霊場32番」の解説板の記述と同一の内容となっており、小此木氏は登場せずに一貫して小柴氏の名で通している。 また、小此木村については「昔はただ結縷(しば)草があるだけで、小芝村と呼んだ・・・その後少しずつ樹木が生育して小柴村と改めた・・・そう遠くない昔に柴の文字を分けて小此木村と呼ぶようになった・・・元亀・天正年間には小柴左衛門長光(能登国人)が来住した」と云う旨が記されている。 なお境町については「小柴村から分かれたもので昔は仮宿村と呼んでおり、長光塁跡が所在している」とも記されている。 このほか上巻の古城塁の項には「小柴塁 境町にあり、今なお遺構が残る 佐位・那波・新田の三郡の境界に所在し、今は林となり城山と呼ばれている。小柴左衛門長光(能登国の出身)が元亀・天正年間には居を構えた」(※意訳)と記されている。 ■その他 □「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ この境城については「マッピングぐんま」の文化財地図には収録されてはおりません。強いて言えば「境・町並遺跡」(遺跡番号SA114、所在地伊勢崎市境町495他、古墳時代、散布地)という遺跡(包蔵地)が、城跡の北部(概ね境神社と墓地を除く長光寺境内付近)に所在しております。 「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあります。(画像B参照) 「伊勢崎市公式HP」ほか □「嵯珂比神社由緒」(境神社鳥居前に設置) 「由緒 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り、境他6か村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521−27)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀3年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正8年(1590/※天正18年の誤記か)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣大明神と改めた・・・(※以下略)」との縁起が記されているが、その出典については特に明記されてはおらず、また小柴氏については特に触れることも無くこれを一貫して小此木氏の名称で通している。 ・2019年 7月16日 HP暫定アップ
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