群馬県内の城館跡目次
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1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 境城 三ツ木城
所在地
 群馬県伊勢崎市境上矢島町168−2他(「マッピングぐんま−遺跡/文化財」より)
歴史、人物、伝承

分かりにくい上矢島城
 「群馬県の中世城館跡/1988」に掲載されている情報を元にしますと、概ね旧境町西矢島の徳蔵寺とその周辺がこの上矢島城の領域であることが示されているように理解できます。
 この点についてより情報の新しいと思われる「マッピングぐんま」においては城館跡としての扱いは確認できず、南の隣接地には「上 矢島遺跡(古墳、奈良、平安の集落、墓地、その他の遺構)の文化財包蔵地」が所在しているものの、恐らくその関連性は無いものと考えられます。また地元でもある「境町誌/歴史編上」(1996/境町)では元々中世城館の記述自体が少ないという傾向があることから、この城館跡の記述自体が見当たりませんし、さらに城郭資料の定番でもある「日本城郭大系4」(1980)にも収録されてはおりません。
 しかし「太田市史通史編中世」(1997)の第1節中世城館跡によりますと、太田市内の西矢島に所在する矢島城の説明として 「新田太郎政義の三男谷島三郎信氏(やじま/さぶろう/のぶうじ)の居る処なり・・・」との「上野国志」の記述を引用し、この谷島氏の事跡に関する部分についてはあくまでも「旧境町」(※現伊勢崎市に合併されている)の上矢島のこととする解釈を示しております。
 またこの点については「角川日本地名大辞典10群馬県」の「上矢島」(境町)「矢島村」(境町、近世)の項においても、ほぼ同様の記述が為されていることに加えて、「南系図」によれば永禄年間に北面の武士であった南修理太夫(みなみ/しゅりだゆう)が浪人して上野に下り、その子南小次郎が矢島村を知行したとも記されているようです。流石にこの辺りの記述には時折系図類に散見されるような違和感もありますが、文禄3年(1594)には谷島氏館跡を南氏が開基となり徳蔵寺を建立されたことなども記されています。この南氏については「長楽寺永禄日記」にも南小二郎の名が見え、永禄8年9月29日の条によると近隣の百々村を巡る領有に関して地侍丸橋右馬助と係争が発生していたことが記されています。この後「金山記」によれば由良氏重臣である林越中守が領有したとも記されていますので、大雑把にいえば谷島氏−南氏−林氏とその領有が変遷したという可能性も考えられますが、南氏の徳蔵寺建立という経緯もあることから不明な部分もあるように思われます。
 なお上矢島村はあくまでも江戸時代末期にそれまでの矢島村が改称されたものとされておりますが、近隣の太田市内には矢島村、西矢島村、東矢島村などの地名が所在していることから諸書によりこれらの間での混同も散見されております。
 「群馬県の中世城館跡」によりますと、別名として谷島氏館南氏城址谷島信氏館などの呼称もあるようです。

確認可能な遺構
 「角川日本地名大辞典」によると、「谷島氏館の残存する土塁に三重、四重に周濠がめぐっており、これを古昔の遺構とする史家が多い」という旨が記されており、かつては土塁、堀跡が一部残存していたが遅くも1980年代には消滅となったのかも知れないと思われます。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年1月16日 午前8時40分から9時10分
訪城の記録 記念撮影

 道すがら
 三ツ木城から北西移動すべく国道354線西今井の交差点を横断し境矢島の集落を目指しました。移動距離は道程で約2kmですが、朝方の交通渋滞の影響が少ない地域でもあることから約10分ほどで到着しました。当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄ることとして他の旧境町の城郭についてはスルー・パスをする予定でありましたが、いつものことながら道すがらでもあることからついつい欲が出て立ち寄ることとなり、比較的集中力のあるはずの貴重な午前中の時間が刻々と過ぎて行ったのであります。
 この上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことですので、往時における地名はあくまでも「矢島」ということになります。このため東隣りに接した太田市内の矢島村との混同も見られる場合も散見されることから些か紛らわしいものがあります。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によりますと、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分かりませんので今後の課題とさせていただきます。
なお東側には約600mには西今井館(伊勢崎市指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在しています。
 南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたのですが、直接城館跡に繋がりそうな地表の遺構を目にすることは有りませんでした。帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多いことなどもあり直接遺構に関連しそうな地形を把握することは些か難しいものがありました。
( 2019/8/20 記述 )
上矢島城(勝手大明神)
勝手大明神 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸「角川日本地名大辞典」の矢島村(その後江戸時代末期に上矢島村と改称)の項に、この矢島村の鎮守である勝手大明神は戦国時代末期に当地の南氏が鬼門除けとして創祀したものといわれています。
 今のところこれらの経緯に関しては「南氏系図」あるいは当社の縁起、徳蔵寺の自伝などによるものであるのかという部分については管理人の知識不足のため不明です。


国土地理院航空写真から
国土地理院航空写真から −画像B−
( 2019年7月20日 編集加工 )
凸「群馬県の中世城館跡」に収録されている略測図からは、おおむね赤色の破線で示した部分が谷島舘(徳蔵寺境内に相当)、緑色の破線で示した部分が南氏の城址と考えられているように受け止められます。しかしこの地は古くから宅地化が進んでいるらしく、終戦後間もない時期に撮影されている航空写真でさえも既にその縄張りの概要を推測することは難しくなっていたように思われます。

訪城アルバム
鎮守勝手大明神
バス停
凸1 鎮守勝手大明神
 集落南東のはずれに所在する南氏が鬼門除けとして創祀したと伝わる勝手大明神の境内地です。
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凸2 バス停
 集落を南北に走る道路沿いのバス停で次の「画像3」の上矢島区コミュニティセンターの前に所在しています。
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コミュニティセンター
西辺部付近
凸3 上矢島区コミュニティセンター
 この建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようです。また山崎一氏の作成された略測図によりますと、かつてはこの地域の学校の校地であったらしく、この辺りが南氏城址の西域部分に相当するように思われます。
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凸4 西辺部付近
 画像中央部のフェンスが設置されている個所が、左の「画像3」のコミュニティセンターになります。山崎一氏が作成されたと思われる略測図によりますと、この画像の左側辺りが南氏城址の中心部に相当するのかも知れません。むろんその地表からは宅地化によりそうした遺構は確認できません。
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北辺部付近
徳蔵地墓地
凸5 北辺部付近
 谷島館および南氏城址の北辺部付近で、その中心部はともに画像の右側となるようですが、かつての城館跡を偲ばせる面影は感じられません。
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凸6 徳蔵地墓地
 徳蔵寺墓地の北側に隣接している路地が、どことなくかつての堀跡の名残のようにも感じるのですが・・・詳しい資料が見当たらずあくまでも管理人の憶測にすぎません。
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徳蔵寺の北東付近
徳蔵寺境内東側
凸7 徳蔵寺の北東付近
 画像左側の民家境の竹林部分に見られる窪地はかつての堀跡の名残であるようにも思われるのですが、これについても資料などの裏付けがないことから詳しいことは不明です。
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凸8 徳蔵寺境内東側
 現在の水路部分を含めて道路脇に所在している画像中央の植栽地部分も堀跡の一部であったように思えてなりません。むろん詳しい資料が確認できないことから、あくまでも管理人の憶測です。
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徳蔵寺山門
徳蔵寺参道
凸9 徳蔵寺山門
 南側参道より撮影した徳蔵寺山門です。「角川日本地名大辞典」によりますと、文禄3年に当地の領主である南氏により建立されたとされているのですが出典となる史料が示され手はおりません。いわゆる寺伝などによるものなのでしょうか。
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凸10 徳蔵寺参道
 左の「画像9」の個所につながる参道とその入口部分の様子です。
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交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
□「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 「矢島城 太田市東矢島(※所在地表記は矢島、或いは西矢 島ではない)いまの神社のところであるが、その遺構は全く不明である。新田政義(※新田義重か ら3代後、新田義貞からは4代前)の三男三郎信氏がここに館を作って矢島氏(※諸系図では谷島と も)を称した。矢島七郎安高は金ケ崎で善戦し落城直前、船田経政ら3人と共に脱出し・・・(中略 )由良氏のころ、矢島城主であった林越中守高宗は由良の長臣で・・・(以下略)」と記されてい るように、明らかに太田市の矢島城と混同した記述が見られるので注意が必要である。
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
□「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり、略測図付

歴史・郷土史関係
□「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)矢島村(境町)、上矢島村(境町)の項参照
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「尾島町誌/通史編/上巻」(1993/尾島町)
□「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)
「境町誌/歴史編上」(1996/境町)

史料、地誌、軍記物
□「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年 8月20日 HPアップ
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