群馬県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 二宮赤城神社 二宮赤城神社のロゴ 二宮赤城神社
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年3月19日のブログ 大室城 荒子の砦 赤石城
所在地
 群馬県前橋市二之宮町886
歴史、人物、伝承

大胡氏などとの関わり
 赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、近隣に所在している「無量寿寺」「宮下西館」と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在しており、「にのみや」の漢字表記については「二之宮」(地名、町名)と「二宮」(参道の石碑の表記、前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じるため、本サイトにおいては表参道の石碑の表記および前橋市文化財の呼称等に従うものとした。
 境内に設置されている「二宮赤城神社の由緒書」には元亀2年に大胡氏から玄米の寄贈を受けたという旨の記述があるがその真偽については不明である。この地域事情に照らすならば、有力な領主として大胡氏(おおごし)、那波氏(なわし)、厩橋北条氏(きたじょうし)などが想定されるのだがその詳細については不明である。

環濠遺構
 「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
 この二宮赤城神社の遺構については確かに中世城館跡を髣髴させる雰囲気を感じるものであるのだが、戦国期の大室城、鳥取城、赤石城、赤堀城、天幕城等々に見られるように、この地域に所在している城館跡の立地上の特徴でもある赤城山方面から流れ出す小河川を外構えの堀とするという特徴が見られないという点でやや異質なものを感じてしまうのである。また、仮に環濠であるとすれば当該境内地が微高地気味の地形であることから果たして何処から引水していたのかという問題もあるように思われる。この場合において、強いて挙げるとするならば東方約100mを南北方向に流れている宮川の支流である小河川あたりがその候補となるのであろうか。
 もし仮に中世城館跡との関連があるとするならば、戦国期初期頃の長享の乱などの頃の一時的な陣城か、それ以前におけるやや古い時代の存在であったのかも知れないなどとも思ったりするのである。

確認可能な遺構
 土塁、堀、虎口、内郭、外郭、鬼門の隅欠など
文化財指定
 1984年3月12日に「堀と土塁が残る環濠遺構」として前橋市重要文化財に指定
訪城年月日
 2019年3月19日 午前8時45分から9時50分
訪城の記録 記念撮影

 境内地か館跡か
 この日の手始めは今年の1月にも訪れた平安時代末期とされる概ね前橋市内に所在している女堀遺構の西域部分について、午前7時前という早朝から8か所のブロックに分けてじっくりと踏査しております。 またこの二宮赤城神社の北方には、「女堀沼方面の巨大な土塁状の地形」が所在していますのでこれらを十分に堪能した後、そこそこ体が温まり頭の方もすっきりとしてきたところでこちらへと向かうことになりました。
 さてこの二宮赤城神社の境内地は確かに人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるのですが、その地域勢力の求心性や防御性(元来の地理的条件、堀幅、切岸の高さ、縄張)などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもないように思えてしまいます。
外郭部分には現在の表参道が設置されている南側を除いて概ね三方に堀と土塁が残り、かつ内郭部も北と西側に確認できます。
 また如何にして領主権力と結びこのような規模の神域を確保し維持できえたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがあります。「環濠遺構」と「中世城館跡」の相違点、環濠の成り立ち、時代背景、寺社勢力を含む地域権力である地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思いました。
( 2019/4/11 )記述
二宮赤城神社
二宮赤城神社 −画像A−
( 2019年3月19日 撮影 )
凸南側の堀跡で境内地側には低土塁と思われる高まりが続いていることが確認されます。

二宮赤城神社北東側の土塁
二宮赤城神社北東側の土塁 −画像B−
( 2019年3月19日 撮影 )
凸北東の隅欠部分の近くに所在している土塁で、たぶん堀からの比高差(約3m弱ほど)が最も大きそうに思われた個所です。

東側から二宮赤城神社方面
東側から二宮赤城神社方面 −画像C−
( 2019年3月19日 撮影 )
凸北東側の隅欠部分から約100mほど離れた地点から撮影した画像です。
 この時もひととおり反時計回りに境内地内を回り終えてから、今度は時計回りに赤城神社の周辺の地形を踏査するために歩いた際に出会った構図です。
 けれどもこの比高差3m未満というベース状の地形がある程度は元々の地山に起因するものなのか、あるいは近隣の「女堀」の膨大な土木工事と同様の人為的なものであるのかについては把握しておりません。

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像D−
( 2019年4月11日 編集加工 )
※訂正とお詫び
 この航空写真画像の正しい表題はあくまでも「二之宮環濠遺群」とすべきなのですが、この加工作業の最終段階でようやく間違えに気づいたため最早後の祭りでありました。
作業をやり直ししやすくするためその都度上書き保存しますと、画像としての解像度が低下しますので保存は完成直後に一度だけ行います。
たまたまこれら3か所の遺構が接近しており、遺構群として把握されているという背景もあり、合理性にかこつけて「手抜きができる!」と喜んだところがこの様で、再度作業をするという気力が失せたため敢えて間違えたまま掲載しておりますのでご容赦を願います <(_ _)>

 ※航空写真画像の編集加工の手順
 ちなみにこの画像加工作業の手順は
「電子国土」での該当画像検索 ⇒
同サイトからの画像ダウンロード ⇒
フォトシッョプによる該当部分の切取り拡大編集 ⇒
ウインドウズ付属ペイントによる編集加工(テキスト等の加筆) ⇒
フリーソフトによる画像の軽量化(通常約200KB前後)
 という作業工程を経ております。
 このため一連の作業時間はおよそ1時間から2時間ほどを要しますので、このように最終段階で誤りに気づいた時には心身にダメージをうけて暫く更新作業から遠ざかり、再開時に更に同じ間違いをしてしまうという悪循環に陥ることも少なくはありません (^^ゞ

訪城アルバム
二宮赤城神社社殿
解説
赤城神社の縁起
凸1 二宮赤城神社社殿
 前橋市の文化財の説明ではあくまでも「境内の周囲に濠と土塁が残る中世の環濠遺構」という性格付けをしておりました。
 また同社の縁起には、戦国期に大胡城主であった大胡常陸介(※たぶん高繁の頃か)が元亀2年(1571)8月に当社に対して玄米7石余を寄贈し代々の領主となったという旨の社伝に関する記述がありますが、近世の半ばに認められた文書を典拠としているとのことであるのでその真偽のほどについては分かりません。

南東部
凸2 南東部
 南側表参道脇から東側の堀跡とその屈曲部を撮影したものです。 赤っぽい屋根が葺かれた社殿の下側に見える堀跡が、上記の「画像A」の堀跡に接続しています。
 なお、この境内地に隣接する東側部分(画像の右側)にも土塁状の高まりが存在しているようにも見受けられました。

北東隅欠付近
凸3 北東隅欠付近
 上記の「画像B」と同様の部分を北東方向から撮影したもので比較的堀跡からの比高差が高い部分です。
二之宮神社の境内地はこの個所附近が最高点であり、画像の奥にかけて緩やかではありますが次第に標高が低くなっていくように思われました。

北東隅欠
凸4 北東隅欠
 通常は「鬼門」とされている北東部の個所がこのように「隅欠」とされており、現在では神社の裏参道のような役割の入口となっておりました。
なお内郭部の虎口については「画像6」のように北辺に確認できますが、外郭部の虎口については不明である模様です。

北辺部
凸5 北辺部
 外郭の北辺部の一部に外堀の規模が推定できそうな個所が遺されておりました。堀幅は上面で約7メートル前後ほどでしょうか。

内郭部の北虎口付近
凸6 内郭部の北虎口付近
 北側の外郭部から南側の内郭部のおそらくは虎口と思われる個所を撮影したものです。

内郭北辺の堀
凸7 内郭北辺の堀
 内郭北辺の西側部分の堀跡ですが、経年変化等に伴いだいぶ埋まっている様子が窺えます。
画像左側が内郭に相当する神社社殿が所在している方向になります。

内郭西辺の堀
凸8 内郭西辺の堀
 下記の「画像9 宝塔」の西側背後に遺されている内郭の堀跡で最も良好な残存状態であるように思われ、最深部の堀跡の深さは3.5mと深く、上面の堀幅も6メートル以上はありそうです。  現在では内堀は北側と西側にのみ確認できますが、本来はこの規模と同様の内堀が現在の社殿の周囲に穿たれていたという可能性があるのかも知れません。

宝塔
宝塔の解説
凸9 宝塔
 南北朝期の作と考えられている宝塔で前橋市重要文化財に指定されております。
この宝塔の背後(西側)は内郭部の土塁に相当するようで、「上記画像8」の内堀跡が所在しています。

外郭西辺の土塁
凸10 外郭西辺の土塁
 神社境内西辺部の北側先端付近で比高差は2.5m前後を計り、土塁の手前には堀跡状の窪みも確認でき、たぶん往時には手前の市道の一部も堀跡であったものと推定されます。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会) 「館」として掲載

歴史・郷土史関係
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)大胡氏に関する記述あり
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店) 「中世城館跡を偲ばせる」との記述あり
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)
 ⇒厩橋北条氏(うまやばし/きたじょうし)に関する論考に大胡氏の動向が記されている
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)記載なし

史料、地誌、軍記物
なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 分類上の便宜から中世城館としている。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあるが、この二之宮環濠遺構群に関しては有力な情報は得ることができなかった。


更新記録
・2019年4月11日 HPアップ
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