群馬県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 群馬県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 赤石城 赤石城のロゴ 赤石城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年3月19日のブログ 大室城 
所在地
 群馬県前橋市飯土井町城山
歴史、人物、伝承

赤石左衛門尉の築城とも
 「日本城郭大系」「日本城郭全集」「前橋市史」などの記述によると、何れも戦国時代中頃の大永年間(1523年、あるいは1525年頃とも)に赤石左衛門尉(あかいし/さえもんのじょう ※たぶん)により築城されその城主とする旨の記述が見受けられ、そしてその後まもなく伊勢崎の塁に移ったともいわれている。
※これらの記述については恐らく「上野国郡村誌」或いは「赤堀文書」(「赤堀政綱軍忠状」)をその典拠としているものと推定されるが、管理人の怠惰な性格が災いしその詳細については未確認である。
この赤石氏については那波郡に所在する古社の縁起にも登場する人物でもあり、また那波氏の家臣筋とする見解もあるようであるが、こちらについても今のところその信頼すべき出典を把握しきれてはいないので、今後折に触れて調べていくようにしたい。

 またその移転先である伊勢崎城も赤石城という別名があることから、些か分かりにくくなっており、ことによると名称の混同が生じているという可能性も考えられるように思われる。

赤城山南麓の端
 赤石城は北方に所在している赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在し、近隣の大室城からは南へ4kmほどの地点でもあるがその相互関係については不明である。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっていることから、元々その要害性は決して高いものでは無いように思われる。
概ね南北約200m、東西約80mから100mの範囲に所在してはいるが、その南端部についてはやや先細りの地形となっている。
那波氏の支配領域から見ると辺縁部に所在し、こうした要害性の問題などもあることから、那波氏の本拠である伊勢崎方面へと転じたものなのであろうか。

確認可能な遺構
 ほぼ消滅か、ただし城跡西側崖線部などに土塁状の高まり残存か?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年3月19日 11時50分から12時20分
訪城の記録 記念撮影

 有難い標柱
 この日も前橋方面でしたが、都市化が進み比較的遺構の少ない地域ですので、元々個人的には空白地帯となっておりました。 それでも少しずつ昨年頃から資料だけは纏めてはいましたが、この下調べについては、いったん嵌りだすと止まらないことがあり、ふと気がつくと3時間以上も経過していたりすることから正に要注意でもあります。
 いまのところこのようにして累積してしまった未訪問の資料件数はおそらく1000か所前後はあるものと思われますが、 いずれにしても忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化してしまいます。
 さてこの日は前橋市内の「女堀沼」と「二宮赤城神社」周辺を廻り終えました。 昼食後にそのまま帰宅するというのも如何かと思い直し、気力を振り絞り1か所だけ出向いてみたのがこちらの城跡でした。
城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されており、「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているのですが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようにも見受けられ、往時の面影は微塵もないようにも感じました。
 その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたのですが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がしたくらいです。 唯一城跡であったことを示すものは、有難いことにまたしても「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみでありました。
かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となりました。
 復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のように感じました。 このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着することとなりました。 薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もあり、このあたりが限度であるようにも感じていました。 むろんもう少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもないのですが、 しかしながら今回は前回からのインターバルが僅かに4日間でありました。 もう少し若い時分ならばいざ知らず今後の足回りなどのダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収しました。
 今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もしていまが、当然「健康寿命」の方についてもピコピコとカラータイマーが作動し始めているようにも感じています。
( 2019/4/10 )記述
赤石城遠景
赤石城遠景 −画像A−
( 2019年3月19日 撮影 )
凸城跡の南西方向から撮影したものです。
 いちおう画像のような切岸?ないしは土塁状?の地形も見られるのですが、唯一城跡らしさの残るこの辺りについても下記の画像Cの航空写真からも分かるように、手前の小河川の改修によって相応の影響を受けている可能性が想定されることから些か疑問が残るように思われます。
本来ならばこの細い水路沿いに歩いていけば良いのかも知れませんが、生憎と人が歩けるような道は無く畦道を踏み荒らすことにもなることから歩いてはおりません。

赤石城の西側
赤石城の西側 −画像B−
( 2019年3月19日 撮影 )
凸城跡の南端部付近からの撮影です。
 画像中ほどの常緑樹付近が気になりますが民家宅地内であることから、この辺りから拝見するに止まりました。
 また下記の航空写真からも分かるように、この城跡西側を流れている小河川の流路については、河川改修以前にはかなり大きく蛇行していたものと考えられ、この河川改修以前には画像の水路の左手前側に郭の一部が張出していた模様です。 この水路の左側をゆっくりと歩けば良いのですけれども、明らかに道では無く耕作地への影響を考えれば自重するのが賢明であります。 尤も自身における昨今の足回り事情を考慮いたしますと、「水路への転落」という可能性も皆無ではありません (^^ゞ 

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像C−
( 2019年4月5日 編集加工 )
凸おおむね赤色の枠内が赤石城の範囲であると考えられ、少なくとも道路の北側に1か所、その南側に3か所ほどの土塁や堀跡などで囲まれた郭跡と思われる地形が確認できます。
 また、城跡西側を流れている小河川の流路は現在よりも大きく蛇行していたことが窺われ、特に南端部の郭跡付近では大きく城跡側に食い込むような流路であったように見受けられます。
このため、現在西側に遺されている低い切岸状に見える地形もこの河川改修の影響を受けていることが想定されます。 なおこの河川改修以前の神沢川への合流点は大きく郭の辺縁部を迂回して、市道の北側に所在していましたが、現在では市道の北側へと移設されています。

※この国土地理院所管の航空写真画像は探訪の翌月に検索の上編集加工したものです。

訪城アルバム
城跡の北側
凸1 城跡の北側
 「日本城郭大系」に掲載されている縄張図によりますと、この辺りにはかつて赤石城の大手へと続く郭が所在し東西方向に伸びるクランク状の堀跡により防御されていたものとされていますが、崖線部についてはいちおう確認できるものの堀跡については大分以前に埋め戻されているようでした。

標柱
凸2 城跡標柱
 荒砥史談会と地元飯土井自治会の皆様のご厚意により設置されている城跡の標柱で、城跡などの文化財を訪れるものにとりましては誠に有難いご配慮です。
この荒砥史談会による標柱も比較的新しく、少なくとも1度は建直されている模様で、赤石城を東西方向に横断する市道北側の民家宅地脇に設置されておりました。

凸3 城跡の東側
 赤石城東側については、元々神沢川の流路により防御されていることもあるのかも知れませんが、耕地化、宅地化などによる土地の削平などがすすんでいるようで、その西側部分に比べると更に城跡らしさを感じにくい平坦に近いような地形であるように思われました。

凸4 神沢川
 北方の大室城方面から続いている赤石城の東側から南側にかけて流れている神沢川で、現在でもその水量も少なくなく往時には天然の水堀として赤石城防御の前線となっていたものと考えられます。

凸5 西側からの遠景
 城跡の西側約50mほど離れた位置からの遠景ですが、元々の丘陵自体が耕地化、宅地化などにより削平されているらしく、この地形だけから即座に城跡であるとは認識し辛い景観であるように感じられました。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載あり
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載あり
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり

歴史・郷土史関係
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店) 「飯土井」の項に掲載あり
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版) 那波氏に関する論考を所収
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)掲載あり

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂) 掲載あり

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、こちらの赤石城の事例のように河川の流路改修や宅地化以前における当時の地形を把握できる場合もある。


更新記録
・2019年4月10日 暫定HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動