凸 以前は舌状台地らしい
県道255号線と上越線が南北方向に通過していることから、この寄居と推定されている台地は西側と東側に分断されているようです。
一見すると西側の低丘陵部分を「寄居」と考えてしまいがちになりますが、「赤城村誌」の記述や、「群馬県の中世城館跡」に収録されている縄張り図をよく見てみますと県道の東側部分を含む舌状台地全体にわたり「寄居」が所在していたのであろうということが想定できます。
さてこの「赤城村誌」の記述によりますと、「村誌」が編纂された約30年以上前には東側台地上に「堀跡が遺存していた」というようにも読み取ることもできるのですが、それは恐らくは「群馬古城塁史の研究」(山崎一氏/著)の影響下に執筆されているものである可能性が考えられます。
同書の背景となっている調査研究自体はその当時の研究環境などを考慮しますと大変な労作であることに違いありませんが、1960年代頃まで遡及するものも含まれる比較的以前の状況や或いは想定復元に近い内容も含まれていたりする事例もあったりしますので資料の読取りとは誠に難しいものです。
また詳細な経緯は確認していませんが、この地域の開発が急速に進み始めますのは恐らくは関越道の整備(全線の開通は1985年)とこれに並行する形で進行したゴルフ場開発ブーム(1970年代後半から1990年頃まで)の頃からではないのでしょうか。
現在では天然の河川に伴う浸食崖が確認されるだけで、その地表状には明確な遺構を認めることはできませんが、約半世紀以前においても既に舌状台地は上越線の軌道などにより東西に分断されていることから、果たして往時の面影を辿るような景観がどれほど残されていたのでしょうか。この点については1980年代頃と推定される昭和期の写真画像が「村誌」に掲載されてはいますが、それらの特徴を捉えてはいないこともあり詳しいことは分かりません。
なお、当地に建立されている念仏供養塔(女人講)の基壇組石に「寄居」の地名が刻まれています。しいて言えばこれが唯一の地侍層の寄居であったことを後世に伝える証しであるようにも感じました。この時点で行動時間にある程度の余裕も感じたこともあり、上越線敷島駅前の和菓子店にて
「田舎饅頭と桜餅」(⇒
荒井商店さん ※荒井商店さんを紹介されている「ふるさとあかぎ(赤城)」様のHPへリンクいたします)などを購入しました。これが安価でありしかも美味しいことから甘党の方には是非ともおすすめしたいと思いました。