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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  諸松城遠景 諸松城 諸松城の主郭北側堀切
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/03/29のブログ 塩沢砦 真下城 尾ノ窪城
所在地
 群馬県藤岡市三波川字諸松
歴史、人物、伝承

三波川城郭群のひとつ
 「鬼石町誌」「日本城郭大系4」などによれば、栗本土佐守藤原義秀の築城と伝わり、天文年間に関東管領である上杉憲政が上野から越後へと逃れたのち、上杉氏家臣の本間佐渡守の居城となり城郭としての改修が行われたとされている。
 しかしこうした経緯に関しては信頼すべき一次資料の裏付けを欠いているものと考えられるため、その史実としての信憑性については些か疑問が残るものと思われる。
 また山崎一氏が記述に加わる「日本城郭大系4」では、この諸松城について「三波川地域城」という捉え方に立ち、他の真下城(譲原城)、尾ノ窪城、枇杷尾根城、塩沢城(砦)、妹ヶ谷城と不可分一体の城郭群という見解を示す一方、戦国期の古文書を数多く所蔵する飯塚氏の当三波川地域における主導的な立場を示唆している。
 しかし、山内上杉氏、武田氏、後北条氏と上位支配者が変遷する中における本間氏、栗本氏、飯塚氏等の相互関係については詳細不明であると考えられる。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、堀切(二重)、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年3月29日 6時15分から9時20分
訪城の記録 記念撮影

 登り口は何処に( 2008/12/15 )記述
 林道からの登り口について情報不足のため、取敢えず10軒ほどの諸松集落の端よりさらに南西200mほどの地点から城跡が所在する尾根筋目指して比高差30mほどの斜面を攀じ登ってみることに。勿論、貧血症状著しい管理人はこの時点から早くも息切れを開始する始末。
 城跡南側の尾根筋というだけあり、人工的地形改変の印象のある細長い尾根筋、平場、堀切状地形を拝見することに。城郭関連遺構に直接結びつくものかどうかは別にして、誠に興味の湧く地形なのでありました。
 さて城跡本体のうち、特に主郭の東西方向は切り立った斜面という典型的な要害を形成。また城跡最大の見所は、主郭北側の壮大な二重堀切部分。特に主郭側の部分については、現状でも最大約6m前後の深さを測り攀じ登ることが困難に近い構造を堅持していることに感動。
 なお、城跡先端となる北側の尾根筋は三波川への断崖に続く地形となっているため、これほどの堀切を普請する必要があるのかどうかというほどの堅固さを呈しておりました。また敢えて地形上の弱点を見出すとすれば、諸松集落が所在する南側の緩斜面付近と推定されますが、勿論この部分にも堀切、腰郭などが配置され、主郭小口への通路は上方からの横矢掛りも存在して弱点をカバー。
 壮大な堀切との対面に、ミニオフの一同は満ち足りた気持ちのままに次の目的地へ粛々と移動していったのでありました。

「諸松城主郭北側の堀切」 ⇒ 画像クリックで拡大します
諸松城主郭北側の堀切
( 2008/03/29 撮影 )
訪城アルバム
「諸松城南側尾根筋の急斜面」
「諸松城南側の堀切のひとつ」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 恒例の直登
 実際には集落の中から楽に登ることができるのですが、始めは登り口が分からず取敢えずは手近な斜面を直登することとなりました。尤も直登とはいっても比高差にして僅か30mほどのもの。
 それでも管理人は冒頭からヘロヘロになるという情けなさ。(⇒検査の結果「鉄血清貧血症」と判明したのは、この数日後のことでありました)
尾根筋の両脇を人工的に切り落としたような地形
堀切状の地形−恐らくは集落と旧桑畑等の農耕地の間をつなぐ峠道を兼ねていたものと推定されます
帯郭状の地形−恐らくは尾根筋のアップダウンを迂回するための近道と推定されます。(ただし、一部では斜面が崩落しておりました)

凸2 南側の堀切
 「日本城郭大系4」等の資料によれば、多分この堀切地形が南から2番目の堀切と判断しているものと思われます。同書のうち群馬県域については山崎一氏の執筆であり、同氏によれば堀切は4条存在すると記されていることから、左に示した「堀切状地形」もこれらの堀切のひとつに含めないと堀切地形の総数が合わなくなります。
 またそうした場合には、さらに南側のより標高の高い尾根筋部分も城域として捉えるべきではないかとも考えられ、これらの一連の城郭類似地形群の有する意味を真剣に再考する必要に迫られそうでとても困るのであります。
 さらに城域がより大規模なものと想定した場合には、当時の三波川地域の人口の実情等から大きくかけ離れていくように思われます。

「諸松城主郭南側の腰郭と土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「諸松城の主郭小口付近」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 腰郭と土塁
 主郭南下に所在する半円形の腰郭で幅20m以上、奥行き6mほどの広さを有し南側の部分に画像のような高さ1m前後の土塁を伴っておりました。
 山崎一氏の説によれば「武者溜り」と呼称される地形のひとつとも考えられます。ただし別に同規模の腰郭も存在することから断定はしかねます。
凸4 主郭小口付近
 幾分分かりにくくなっていますが、一応主郭の小口部分に相当するものと考えられます。
 なお、この途中に「凸7」の土塁を伴う腰郭部分を経由してこの坂小口へと到達しますが、腰郭を通過する際には頭上の主郭側からの側面攻撃に曝される構造となっています。
木立に囲まれ余り眺望は期待できない主郭
⇒冬季の季節風対策も兼ねる主郭北西部の櫓台状の高土塁


「諸松城の北側堀切」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「諸松城の北側堀切」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭北側堀切
 主郭北側の堀切を西側から撮影したもの。右側の主郭側で6m強、左側の小郭側で2.5mの深さを有しています。主郭側から下るときには降りるというよりも、寧ろ滑り落ちるというような按配になるのであります。

主郭先端部から見下ろした「諸松城」北側の大堀切
東側から順光により撮影した北側大堀切
凸6 もうひとつ北側の主郭堀切
 一番北側の堀切で右側の小郭側で約3.5m、左側の尾根筋で約2mの深さを有しています。なお、「凸5」の堀切とは20mほどの距離となっているため事実上の二重堀切構造ともいえそうです。
 北側の尾根筋先端部から侵入することは至難の業であることから、この岩を掘削した強固な堀切の必要性に素朴な疑問が生じてくるのでありました。
小郭の石積み
東側からの堀切画像
⇒木の幹にしがみついてどうにか撮影した二重堀切
⇒やはり逆光が似合う堀切(小堀切)

「諸松城主郭直下の腰郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「諸松城の遠景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 腰郭と土塁
 構堀のようにも捉える事ができる主郭直下の細長い腰郭部分で、高さ1mほどの低土塁が郭辺縁部に残存し主郭への通路を兼ねています。
 なお画像の右側の斜面が主郭南側の切岸に相当し、主郭東側直下にも細長い腰郭が所在しており、山崎一氏の言を借りればもう一つの「武者溜り」に相当するものと思われます。
凸8 諸松城遠景
 東麓に所在する諸松の集落側から撮影したものですが、現状ではこの通り深い杉木立に覆われているため周辺の眺望については殆ど期待できません。
諸松城の遠望
諸松城の北側尾根筋先端付近 
 三波川沿いの断崖地形と相俟って北側から接近することはほぼ不可能と考えられます。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「多野藤岡地方誌」(1976/同編集委)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)
「鬼石町誌」(1984/鬼石町)

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒上毛古城塁址一覧を所収

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)

・2008/12/15 HPアップ
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