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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/03/22のブログ 枇杷尾根城 尾ノ窪城
所在地
 群馬県藤岡市三波川字塩沢(旧鬼石町)
歴史、人物、伝承

諸松城の出城との見解も
 城館名については出版年が最も新しい「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(「群馬県の中世城館跡」1988年を復刻)の記述に従ったもので、「鬼石町誌」および「日本城郭大系」では「塩沢城」、「日本城郭全集」では「塩沢砦」と表記されています。
 群馬の中世城館跡の踏査研究で著名な故山崎一氏の見解では、西方約800mに所在する諸松城の出城であった旨の考察を示されています。確かにこの二つの城郭は同じ三波川の右岸に半ば近接するように所在し、かつ南方の標高500mほどの稜線伝いに互いに往来が可能であったとことからも有力な見解と考えられます。しかし、この諸松城と比べた場合には幾分距離は遠くなるものの、同様な理由で東側の「真下城」とも尾根続きであるという地理的条件についても無視できないものがあるものと考えられます。
 築城のかかわりについては、諸松城との関連があるとすれば栗本氏、あるいはその後の本間氏、真下城との関連を考えれば真下氏、また三波川の北谷衆を統括していたとされる飯塚氏、このほかに北条氏康が築城したとの伝承も残るとのことですが何れも決め手を欠くように思われます。(「鬼石町誌」を参考)
 またこの砦(標高約360m)については諸松城(標高約390m)も含めて、三波川北方の対岸に睥睨するように位置する独立峰の桜山(標高591m)方面から眺めた場合には、ほぼ完全に俯瞰されてしまうという問題も存在します。このため南側の尾根続きを除く三方向が険しい渓谷により囲まれているという恰好の要害としての条件を具備し、かつ東側の三波川下流域に対する監視機能を果たすということを別にすれば明らかな標高不足という印象が残ります。

確認可能な遺構
 主郭、構堀、腰郭、郭、平場、堀切、土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年3月22日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/03/22 )
 試練の直登
 寝坊+行楽シーズンの渋滞+圏央道の突貫工事による交通規制により往路の所要時間は約3時間半を要しました。
かくて麓への到着時刻は既に12時45分。それでもすっかりと春めいてきたので日没時間が遅くなり、本日は雨の心配もなく未だ約5時間は行動可能と推定しました。山頂への登攀ルートは地形図を見る限りでは、予め北西、北東、東のおよそ3ヶ所ほどかと推定。始めに地元の方に入山のご了解をいただき、予め確実な下山ルート1か所を確保しました。たまたまお話を伺った方はこの山の所有者のためルート情報はまさに確実そのものでありました。
 さて、残り2か所は「東側のハイキングルートを南下して途中から鞍部へと登り詰める」という、距離は矢鱈に長いけれども如何にも楽そうな感じのルートがひとつ。もうひとつは「北西の尾根筋?経由」というルートを想定。最近楽なところばかりなので自らの体力を確認する必要もあり、このため敢えて道のなさそうな北西の尾根筋とも呼べないような斜面から直登を開始。比高差約180m、最大斜度45度、危険な岩あり、まともな道なし。無論標高1千m前後であれば場合により遭難の危険も。今回は幸い標高400m未満のため、人家も近く..と思ったのがよくある間違いの元。三波川沿いの行き止まりの林道の途中から斜面を登攀するルートは、当初の予想通り足場が悪く(というよりも殆ど無いというべきかも)、忽ちのうちに登りたくとも登れないという事態に直面しました。このため地形図を頼りにひたすら西方へと斜面を移動しつつ登攀ルートを模索し、やや露岩が目立つ尾根筋状地形に出てこの個所をひたすら九十九折にて直登しました。
 しかし、この時点で最近富に耐久性が欠如しつつある両足首に明らかな異変が発生。息が切れるのは別にしても、昨年末の「三ツ山城〜高山城ミニオフ」に続き足首(特に左足)に全く力が入らない状態に。けれどもここで諦めれば、もう山城には生涯登れないとの悲壮なる覚悟を決めました。以降は3歩ほど登っては、急斜面の杉の植林の幹に寄りかかり一休みというよりも、明らかに歩いている時間よりも休んでいる時間の方が長い様な無様な格好となりました。ともかくこのようにして足首の回復を待つという、誠に情けない動作を幾度となく反復。尤もこのお蔭で、途中にて資料の縄張図には示されていない比較的大きな腰郭状地形も確認。しかし貧血症状のため、だんだんと遠のきはじめる意識(⇒いわゆる軽い脳貧血)。それでも次第に高度を上げ、主郭直下に所在する北西の大規模な腰郭下部に到達することとなりました。
 しかし、ここからが腰郭の切岸直登となる最大斜度45度の文字通りの正念場に。実際に登攀してみて、この方向から攻め上ることの難しさを身を以て確認することとなりました。最終的には何と約70分をも要しての登攀完了です。若い元気な人ならば40分もあれば簡単に登れるのかも知れません。
 さて主郭と腰郭の比高差は、程度明確な約2mほどの高さの切岸が普請されておりました。また主郭南側には最高部で高さ1m、総延長50mほどの低土塁が南側を中心に確実に現存している光景を目の当たりにしてある程度意識が回復。また主郭の東側にはこの辺りの山城では比較的珍しい構堀が南北方向に普請されています。
 ここで暫し昼食タイム。とはいえ僅かにお握り1個のみという誠にささやかなものです。主郭からの眺望は西と北にやや開けているものの、全体として余り良好とはいえず、明らかな標高不足で元来が東側以外はより標高が高い山に囲まれた地形。その点は清水山城に大変酷似した立地条件かと思いました。山頂自体は東西50m、南北30mと、予想よりも遥かに広く程よく削平されている様子が窺えます。こちらの所有者の方からは「平らな場所があるだけ」とのお話でしたが、勿論当方としてはその平らな場所、並びにこれに付随する凸凹地形に強い関心があるのであります。腰郭を含め確認できる遺構はすべて見逃さないように、先ずは下山ルートとなる北東尾根筋から探索。ところが比高差にして約80mほどの急斜面で、さらに枯渇気味の体力が喪失するという結果に。それでも縄張図通りにおよそ5、6か所ほどの大小の腰郭群を確認し、再び何とか斜面を這い上がり主郭へと戻り南側の稜線鞍部方面へ移動。
 尾根筋の東側には人工的に削平された形跡のある平場が所在。さらに少し南へ進むと、一目でそれと分かる堀切状地形が出現。堀幅は6mから8mほど、長さは15m前後で明確な竪堀は伴わない形態で、深さは主郭側で3mから4m前後の規模。尾根続きの鞍部に普請されていることから典型的な堀切遺構と考えて差支えがなさそうな印象。西側はやや緩斜面となるものの東側は予想以上の急斜面を形成しており、ここで東側谷筋からのルートは、尾根筋への取り付きにはかなりの困難が伴うことを確認。さて帰路は予定通り予めご教示いただいた北東の尾根筋へと舞い戻りまっすぐに下山し民家背後の小祠脇へと到着。この所要時間は僅かに25分ほどで下り道ほど体に優しいものはないなどと独白を。しかし、仮にこちらの尾根筋から登ったとしても、当方の現在の貧弱な体力では1時間近くかかりそうな急斜面なのでありました。

「塩沢の砦遠望」画像クリックで拡大します
塩沢の砦遠望周辺の稜線よりも標高の低さが目立ちます
( 2008/03/22 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 何度も挫けた急斜面
 この時点では昨年末から自覚している左足首の脱力感と異常なほどの心肺機能低下の原因はまったく不明。その原因を究明し然るべき対策を立てるべく手頃な直登を選択したつもり...その結果は、3歩進んで一休みといった按配で殆ど本能による蝸牛のごとき歩みにて斜面を這い上がっていったのでありました。(後日、鉄分欠乏症に伴う極度の貧血等と判明 :貧血⇒過激な運動⇒息が切れて意識も薄れる)
 自然地形かも知れない岩の上の平場状の幅8m×長さ5mほどの地形も所在。
 ⇒実際の斜面の方が更に遥かに険しく

 さらに、登攀途中にて資料の縄張図には示されていない比較的大きな下段の腰郭(郭というべきか)状地形(幅約15m×長さ約30m)を確認
 ⇒北西下段の郭(北側から撮影)
 ⇒同上(南側から撮影) 
凸2 北西の郭
 次第に高度を上げ、主郭直下に所在する北西の大規模な腰郭下部に到達。ここまでくればしめたものと思いきや、一難去ってまた一難とはよく言ったもので、ここからが迂回不可能な比高差約30m・最大斜度45度の腰郭の切岸直登となり文字通りの正念場となりました。
 実際に登攀してみて、この方向から攻め上ることの難しさを体感するという貴重な体験を。
 主郭と北西の腰郭の比高差は、明確な状態で約2mほどの高さの切岸が普請されていることを確認できますが、小口部分については南北方向共にあまり明確ではないという印象でした。また、主郭の切岸自体は全方向にわたりかなり明確に存在しています。

 ⇒北西の郭から眺めた主郭
 ⇒主郭西側の切岸

画像クリックで拡大します
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凸3 主郭南側土塁
 主郭が所在する山頂部分は「塩沢城」との呼称も妥当なように思えるほど、東西50m、南北30mと予想よりも遥かに広く全体として万遍なく丁寧に削平されている様子が窺えます。所有者の方からは「平らな場所があるだけ」とのお話でしたが、勿論当方としていたしましては、その平らな場所、並びにこれに付随する凸凹地形に異常なぽと強い関心があるのでありました。
 基本的には単郭構造ながらも、その主郭としての広さおよび北西方向には恰も梯郭式を思わせるような規模の大きな腰郭(袖郭?)を備えていることなどから、諸松城の単なる出城として捉えるにはやや規模が大きいように思われます。

 ⇒切岸がそのまま急斜面へと続く主郭北側の地形
 ⇒肉眼では大きさと形状が判別できますが、デジカメで は分かりにくく角度によっては腰郭のようにも見えてしま う主郭東側の構堀。深さは所により異なりますが、約60cmから1.5mほどで主郭側の方が深く、幅約5m、長さ約25mほどの規模があります。

 ⇒東側上段の腰郭付近より見上げた主郭北東部
 ⇒主郭南側土塁(土塁上より撮影)
 ⇒木立の間からどうにか、見えて欲しいと願うしかない諸松城方面の稜線。肉眼ではもう少し明確に確認できますが木の枝が障害となりこのような画像に。
凸4 南側稜線の堀切状地形
 尾根筋の東側には人工的に削平された形跡のある平場が所在し、さらに少し南へ進むと、一目でそれと分かる堀切状地形が出現したのであります。
 堀幅はおよそ6mから8mほど、長さは15m前後ですが明確な竪堀は伴わない形態で、深さは主郭側で3mから4m前後の規模。 尾根続きの鞍部付近に普請されていることから、典型的な尾根筋の堀切遺構と考えても差支えがなさそうな印象でありました。 西側はやや緩斜面となるものの東側は予想以上の急斜面を形成しており、竪堀自体が不要な地形な地形となっています。
 ⇒何やら大地の裂け目のようなものがあるような
 ⇒上方から観察すれば何と立派な堀切状地形
 ⇒西側から撮影 ⇒南西から撮影 ⇒東側から撮影
 ⇒あえて逆光気味に東側から撮影
 ⇒南東から撮影 ⇒南西堀切上部より撮影
 ⇒南西から撮影 ⇒北側堀切上部より撮影
 光線の具合も良好なため、このようにして急遽「堀切遭遇記念撮影会」(参加者1名)となってしまったのであります。
■「群馬県の中世城館跡」収録の縄張り図にはこの記載がないことから、仮に他の理由による人工地形であることを想定してみますと、「1.林道などの峠道」「2.材木伐採時の貯木場」「3.山火事対策の防火帯」などの可能性が想定されるものと考えられます。
 しかし、「1」については林道が建設できるような地形ではないこと。「2」については、わざわざ岩を穿って尾根筋を堀切る必然性に大きな疑問が。「3」の山火事の防火帯であるとすれば、尾根筋に並行する形態が一般的なように思われ、かつ東側急斜面にも何らかの形跡があって然るべきかと考えられます。

画像クリックで拡大します
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凸5 北西の腰郭群ほか
 上記の画像は主郭北東直下の比較的規模の大きな腰郭ですが、上方からの土砂の流出によりやや緩斜面のような地形となっています。 以下のものは北東の尾根筋を中心とした大小の腰郭群および主郭南側堀切手前の平場状地形の画像です。

 南側尾根筋東側の平場状の地形で、幅6mから8m、長さ15m規模を有し東側は極端な急斜面のため登攀困難であると思われました。 ⇒平場状地形
 ⇒平場状地形の更に先端部
 ⇒同上の地形を南側から撮影したもの

 ⇒地山の尾根筋を利用し普請したというよりも、かなり手を加えて築造したようにも見える半ば独立した主郭南東方向の腰郭。主郭よりも50m近く下方に所在し東側の谷筋からの防禦を意識しているという印象があります。

 ⇒上から見下ろした程よく削平された北東下段の腰郭
 ⇒北東下段の腰郭から見上げた尾根筋の斜面の様子
 ⇒最下段の腰郭
 ⇒下山ルートから見える急斜面の岩肌
 ⇒尾根筋の曲折部に所在する腰郭状の地形
 ⇒上から見下ろした主郭北東中段の小規模な腰郭
 ⇒下から見上げた同腰郭
 ⇒ 
凸6 本来の登り口
 地元の方に入山の旨を説明し、予め下山ルート1か所を確保。たまたま伺った方はこの山の所有者ということもあり情報は確実そのもので、道は細いけれども尾根筋をまっすぐに登っていけるとのお話。
 無論、この個所から登るのが社会的一般常識というもの。しかし、最近とみに不調を訴える体力と足回りの状況を再確認すべく最悪の北西側から直登するという暴挙を敢行してしまったのでありました。挙句の果ては前述のとおりの為体に。尤も塩沢の砦から下山ののち、枇杷尾根城の遺構探しをする気力と体力程度は微かに残ってはおりました。
 ⇒この尾根筋を目指すのが正しいルート
 ⇒小祠脇の道から東側(向かって左側)の尾根筋へと向かう
 ⇒この谷を渡って攻め寄せてくるとは俄かには想像し難い三波川渓谷の断崖
交通案内

・比高差約180m、上り約50分、下り約25分程度、現地での遺構確認所要時間約60分

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「鬼石町誌」(1984/鬼石町)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

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