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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/03/12のブログ 浄法寺城 保美の砦 清水山城
所在地
 群馬県藤岡市三波川下三波川尾ノ無窪(旧鬼石町)
歴史、人物、伝承

築城目的の謎
 「鬼石町誌」によれば、「目で見る鬼石町の郷土史」(1969/鬼石町)を引用し、「平安時代(天慶年間・938-946)の築城と記され、平将門の乱の際に追討側の平貞盛が築いた砦」との伝承を記していますが、勿論こうしたことはあくまでも史実としての裏付けを伴わない民俗学の領域に属する口碑・伝承の世界の物語であると考えることが妥当であるように思われます。
 なお、三波川地域には地元旧家の飯塚氏が居を構え、長井政実、北条氏邦、猪俣邦憲、武田勝頼などが発給したとされる戦国期天正年間の古文書等を所蔵し、戦国期にその存在が遡及すると推定されることから、飯塚氏に関係する城郭群のひとつとも考えられますが、これもまたあくまでも無論推測の域を出るものではありません。

確認可能な遺構
 堀切、郭、腰郭、平場?、石積み?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年3月12日、2008年3月29日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/03/12 )
 山勘ヒット
 車の場合には途中の未舗装の林道が思いのほかの難路となります。 軽のオフロード用のモードを使用したのは今回が初めてとなりました。 普通車での登攀は常識的に考えるますと些か危険かつ無謀であるものと思います。 大型の四駆ならば登攀自体は可能かもしれませんが、しかし有効幅員が3mほどの個所もあり、谷側の路肩は余り強固とはいえない様子です。 このため軽ではありましたが、念のため峠の手前の平坦なスペースで駐車して徒歩にて探索開始しました。
 元々桜山公園方面へのハイキングルートであることから歩く分には極めて快適なルートなのではありますが。しばらくハイキングコースを西方に進み一旦北側へ迂回したあと、ハイキングルートに別れを告げて峠西側の標高409mの平坦な山頂へと向いました。平坦な山頂を縦断する整備された幅員2.5mほどの道を200mほど南進しました。
 古い轍が残る林道はそのまま山頂の南側で大きく迂回して西方へと続いている模様です。しかし城跡が所在するのは山頂から派生する一番東側の尾根筋の途中のはずと見当をつけました。ここで3千円で購入したスウェーデン製の方位磁石で念のための方向確認を実施。およその見当をつけて、余り見通しが良いとはいえない幾分杉の植林が残る尾根筋を南下しました。もちろん道や踏み跡などは皆無で、複数種の有刺植物と藪とのちょっとした攻防は不可避でした。このため帰宅後の入浴中に、まじまじと己の手足を眺めると十数か所ほどの擦過傷が残っておりました。
 さて城跡らしき地形は林道から南へ180mほど進んだあたりからようやく出現します。最初はやや埋もれた印象の堀切状の地形です。次に尾根筋が一度細くなった先で最初の明確な堀切地形と対面しました。ここからはすぐに長さ10m足らずの小郭をはさんで主郭手前の大堀切が出現します。主郭側の堀切との比高差は6m近くで60度ほどの傾斜があることから直接這い上がることは困難ですが、もちろん西側から迂回が可能なので探索には支障ありませんでした。
 主郭の削平はかなり大雑把で平坦な個所はほとんどないような地形で、その 広さは幅6mから8mで長さ約50mほどの規模となっています。また主郭の東側には縄張り図には記されていない腰郭状の地形も確認できます。堀切は全部で4か所ないし5か所ほどが存在しています。そのいずれもが明確な竪堀を伴わず、かつ堀切自体の長さが比較的長いという特徴があるようです。
 尾根筋先端の南東部には幾分平地に近い形状の小屋掛けするには適当なスペースが所在しています。伝承である平将門の乱の際に追討側の平貞盛が築いたとの説は取りあえずは別にして、尾根筋の途中に築かれていることなどから南北朝期のものが戦国期に改修されたと考えるのが妥当なところかも知れません。しかし約300mほどの細長い尾根筋を利用した小規模な山城であるため大勢の入城は難しく、山波川渓谷への侵入を監視するための物見としての役割として捉えるのが相応しい印象かとも感じました。

( 2008/03/16 )
 見えない城跡
 前回は麓または周辺から眺めた場合の城跡の所在地が皆目判然とせず、今回地形図を頼りにして漸く探し当てたような次第。前回と合わせると合計にして1時間ほどのロケーション。こちらの「みかん農園」下近くのヘアピンカーブの個所が唯一の撮影ポイントかもしれません。麓からも見つけにくいということは、当然尾根筋の城跡からも三波川渓谷の様子が把握しづらいということになるため、益々築城の理由とその果たした役割について愈々疑問が深まるのでありました。

( 2008/03/29 )
 ミニオフのついでに
 予定通りミニオフの時間が少しだけ余ったことから、天候も良好のため立ち寄ることにしました。これが直接的には2度目の訪城で、しかも殆ど下り道というこれ以上楽な山城はどこを探してもないという状況であるにも拘らず、案の定忽ち息切れしてしまう虚弱体質の管理人なのでありました。もっとも翌日は大腸ポリープに伴う内視鏡検査のために極度の食事制限中の身なので身も心もまさにヘロヘロではありましたが。

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尾ノ窪城遠望(唯一の撮影地点のようです)
( 2003/03/16 撮影 )
訪城アルバム
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林道の入口
凸1 真下城登山口からの遠望(2008/03/16 撮影)
 後日、真下城を訪れた際に撮影したものですが、暫くの間はずっと地形図と睨めっこ。20分ほどを要して漸く所在地を確認したというような経緯がありました。
凸2 林道の入口
 この先西方の桜山へと向かう道路からも途中で右折すれば最終的には谷の入口の個所で合流します。合流した谷筋から見上げた尾ノ窪城方面は、左側の尾根筋上と頭では分かっていても何処か自信が揺らぐような分かりにくさを感じます。なお、一般に車で安全に入山できるのは、資源センター辺りまでかと思われます。

未舗装の林道
無名の峠
凸3 未舗装の林道
 距離自体は約1km程ですが通常の乗用車では登攀困難と思われる個所が何ヶ所か所在し、谷側の路肩も決して頑丈とは呼べない印象です。加えて路面全体も凹凸が激しく四輪駆動車でもかなり微妙な道路状況ですのでスコップなどの工具類搭載も必要かもしれません。また、大雨の後は崖の崩落、路面の流失等の危険も内在しているように思われました。
凸4 無名の峠
 正面手前の平坦な杉山の山頂部は標高409mで、この山頂から左側へと続く一番東寄りの尾根筋上の標高およそ370mから340m付近に目指す「尾ノ窪城」が所在しています。なお、この山頂部には恰も人工的な削平が行われたような印象の平場が所在していますが、「鬼石町誌」付録の地形図では現在よりも20mほど高い山頂の標高が記されていることから、さほど古いものではないようです。なお、城跡へはこの峠から比高差40mほどの正面の山頂から迂回するのが最も安全確実です。

ここを左折して南へ
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凸5 ここを左折して南へ
 桜山へのハイキングコースから外れて、この標識の個所を左折して200mほど南へ進むとこの杉林が正面方向に現れます。なお、僅かに轍の形跡が残る林道はこの杉林のところからカーブして谷を横切り西方へと続いています。 城跡への道は殆どありませんが、余程のことがない限り迷う心配はなさそうでしたので躊躇なく突入を。途中で荊などの有刺植物が点在するため、厚手の手袋は必需品の一つ。
凸6 城跡北端の堀切
 尾根筋の西側から撮影したもので、画像「7」の堀切と一体の小郭を挟んだ事実上の二重堀切を構成し、北側尾根続き方面からの侵入を協力に阻む仕組みとなっています。堀切の深さは画像の左側(北側)で約3m、右側(南側)で4mほどになります。
堀切北側から撮影
堀切西側から撮影
 なお、この堀切よりさらに山頂寄りの北側尾根筋にも半ば埋まりかけた堀切状地形も確認することができます。

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凸7 主郭北側の堀切
 東側から逆光で撮影した、主郭北側に所在する城跡最大の堀切で画像右側(北側)で深さ3m、左側(南側)で6m近くを有しています。
 一般的には順光よりも逆光のほうが堀切としての質感を表現できる場合が多いように思われます。また、全く同じ堀切でも露出の変更や、撮影する方向(西側からの順光)や角度の変更によりその表情が異なるところが堀切撮影の妙味でもあるようです。堀切は合計4本所在しいずれも東西方向に尾根筋を堀切る距離が長い(約10mから12mほど)とともに、かつ明確な竪堀状遺構を伴わないという傾向があります。
凸8 主郭
 北側の二重堀切の防備と対比すると、幅は6mから8m、長さは約50mという細長い形状で幾分湾曲し削平の不徹底さが目立ちます。
 この主郭上に小屋掛けするには余りに幅が狭く、かつ風当たりが強い地形となっていることから、画像「10」の東側の水場に近いと推定される平場状地形付近に居住区画が配置されたものと考えることもできそうです。
 
 ⇒主郭南側の堀切
 東側から撮影したもので深さは主郭側で約4m、反対側で1.5mほど
 ⇒同上

「主郭南側の堀切」 画像クリックで拡大します
平場状地形
凸9 主郭南側郭の南端堀切
 城跡遺構の事実上の南端部に所在する堀切で、東側から撮影したもの。右側の深さは5mから6m、左側は1.5m程度の規模を有しています。
 ⇒角度を変えた画像
 また、堀切北側の郭は上下2段に分かれ、下段部分は上段の東側に腰郭のように回り込み、東側の谷筋を意識した普請がなされているように見受けられます
 ⇒主郭南側の切岸と腰郭状地形
凸10 平場状の地形
 城跡南東先端の尾根筋から比高差にして20mほど下方に所在する関斜面の平場状の地形で約30m四方の規模があります。谷側には切岸状の地形も所在することから人為的な地形であると想定できますが、植林の伐採などに伴う整地の可能性も考えられることから、城郭関連遺構であると断定するには決め手を欠くものと思われました。

「自然石」か「石積み」か 画像クリックで拡大します
「腰郭か」 画像クリックで拡大します
凸11 石積み状地形
 平場状地形と尾根筋斜面の境付近に所在していたもので、全体として枯葉の山に埋もれていたため、5分ほど時間をかけて少々掘り起こさせていただきました。石自体は人工的に積み上げられたという印象がありますが、石のサイズとしては拳大程度のものも混ざりかなり小さ目という印象です。規模は長さ約1.5m、高さ70cmほどですが、左右に連続しているような形跡も見ることができます。石積みの役割としては、斜面からの土砂の崩落・流出を防ぐような位置関係となっています。尾根筋の東側であることから耕地開拓に伴うものではなさそうですが、年代的にあまり古さを感じないところもありますが、その反面金鑚御嶽城で確認した石積み遺構に酷似しているようなところもあります。
 
凸12 腰郭状地形
 この画像からは分かりにくいのですが、主郭東側直下約15m付近に所在する長さ約20m、奥行6mほどの規模を有する腰郭状の地形が所在しています。
 山崎一氏作成の縄張り図に記されている通り、地元の方のお話によれば現在でも谷筋からの旧道(たぶん踏跡程度)が存在しているとのことですので、腰郭を普請する必然性があるようにも思われるのでありました。

画像クリックで拡大します
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凸15 「真下城」方面
 肝心の「尾ノ窪城」からは樹木の生育のためこのような眺望を得ることはできません。加えて東西方向は谷筋をはさんで同程度の標高を有する南北に細長い稜線が並行しているため南側の視界はかなりの制約を受けるはずです。
 この画像は標高260mほどの蜜柑畑や資源センターの所在する開けた平坦な丘陵からの眺望で、南側斜面ということもあり居館を設置するには恰好の立地条件なのですが、宅地化、耕地化などにより以前の地形が殆んど分からないのであります。
凸16 「塩沢の砦」方面
 左の画像の撮影場所からは「塩沢の砦」も明確に目視できます。また、その後ろ側あたりが「諸松城」方面かと思われるのですが、4月中旬の陽気のため春霞が漂い遠望はいまひとつ不鮮明な季節になって来たようです。
 この時点では1日1ヶ所+アルファが体力の限界。すなわち息切れと、足首等の問題から、この3月中に、三波川方面全制覇を達成できるとは夢にも思わない管理人なのでありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
・クマ等の出没注意、一部ノイバラ有り、低山ですが場所が分かりにくいので地形図持参必須

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「鬼石町誌」(1984/鬼石町)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2008/04/05 HPアップ
・2019/05/29 訪城記録/画像のズレ等訂正
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