凸小林氏、小野里氏関係の城館跡 「藤岡市史資料編」等によりますと、外郭部は堀跡との関係で東西約150メートル、南北約200メートルの三角形を形成し、その中央部分に東西約80メートル、南北約50メートルの内郭が存在し、かつては西側を中心にして土塁、堀跡などの遺構が残存していたとされています。ちなみに内郭部分はかつての在地領主階層と同姓の地元旧家の方の宅地となっています。 同史によれば、鎌倉期から戦国時代にかけてこの地を実質的に支配していた小林氏関係のものと推定していますが、かつての中郷には天正年間に小野里和泉守が在城したと伝わる「中城」も所在していることなどから、小野里氏との関わりも想定されるものと思われますがどうなのでしょうか。
( 2008/10/14 ) 凸 初夏とはいっても摂氏30度超 関係資料などによりますと、内郭部分は東側を除いて土塁などが残るとの期待すべき情報が。とりわけ西側部分は土塁と堀跡が残存するとの記載も...しかし肝心の西側部分は既に宅地化により大きく状況が変化...すなわち土塁状の盛土があるような無いような判然としない状況なのでありました。 そうしたなか南側西端部分にかつての土塁状の高まりのような地形を拝見できますが、近年の庭園造園工事との判別がつきにくいという印象でした。また北側は道も無く防風林の竹に囲まれている状況のために、外部からは地形の確認が難しい状態です。東側は大分以前から存在していると思われる幅1間ほどの細い通路が通っています。然しこの通路が、かつての堀跡であったのかどうかについては分かりませんでした。 なお、山崎一氏の縄張図に示されている中心部から50mほど南側の一帯も確認してみましたが、現況は宅地および農道と畑が存在するのみで更にそうした痕跡からは程遠いという印象でありました。このあと日没までの時間にかなりの余裕があったものの、初夏とは思えない気温の上昇のため早々に撤退を余儀なくされました。
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