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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  森東城の西方からの遠景 森東城 森東城の西側堀跡と土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/05/26のブログ 戸塚城 小林館
所在地
 群馬県藤岡市森字北口
歴史、人物、伝承

高山一族小林氏関係の城館
 こ」の地は戦国期には緑野郡「森郷」と呼称され、「小田原衆所領役帳」では伊豆衆垪和泰忠に対し「森之内中村郷の50貫文」が所領役高として記載されています。
 現在の地割と道路の形状から外郭部は東西約250m、南北230mの不整形な四角形をなす推定とされ、主郭部分は方約50mの規模を有しています。全体の形状と主郭(内郭)部分の規模等については、一連の小林氏関係の城館という性格からも「戸塚城」「中城」「下大塚城」「中大塚城」「上大塚城」などと相通じるものが感じられます。
 山内上杉氏時代には高山一族小林氏に関係する城館と考えられており、そののち後北条氏が神流川合戦に勝利を収めた以降には針谷氏が居館としたことが推定されています。
(「藤岡市史 資料編」、「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」、「角川地名大事典 10群馬県」より)

確認可能な遺構
 土塁、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年5月26日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/10/11 )
 主郭西側に良好に残る空堀と土塁
 当初は外郭と推定されている道路部分を完全に一周しようと心に決めていたものの、このあたりから照りつける日差しの強さが増し次第に気温が上昇してまいりました。元来が暑さに弱い性質のため忽ち軟弱モードへと切り替り、内郭の一部分と北東の鬼門に位置する飯玉神社を中心に見学させていただくことに。
  さて、この日の城館探訪では唯一遺構と対面できた城館跡なのであります。とはいえ主郭は地元の旧家の方の敷地そのものなので、公道から宅地の西側を中心とした土塁・空堀遺構を目玉にして拝見。堀幅約3間から3間半、土塁の高さは堀側で約1.5m、それぞれの延長は約50mほどで、然も南辺の西寄の一部にも明確に残存しておりました。また肉眼では北辺にも空堀遺構は続いている様子が見て取れるものの、宅地境界部分となっているために詳細については確認するに至りませんでした。
 何れにしてもこうした遺構の現状を維持管理されている所有者の方に心より感謝を申し上げなくては。なお内郭西側周辺では、現在新しい戸建住宅の建設が進行中でありました。この部分については宅地造成される以前には、もう少し歴史を感じるような景観が残されていたようにも思える次第なのでありました。

「森東城の堀跡と土塁遺構」 ⇒ 画像クリックで拡大します
森東城西側堀跡と土塁遺構
( 2008/05/26 撮影 )
訪城アルバム
かつては土塁、空堀等の遺構が存在していた「森東城」の北西部
「森東城」の西側堀跡と土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 かつての遺構跡
 山崎一氏の縄張り図にはこの城跡の北西部付近に高さ約2.5m、延長約50mほどの土塁及び空堀跡が示されています。しかしこの画像に示すとおり、近年の宅地開発の実施などによりほぼ完全に消滅している模様でありました。

主郭西側の様子
 宅地開発が進行中でしたが、画像中央部の50cm程の地表の段差は山崎一氏が作成した縄張図にも示されているものと符合するようにも思われます。然し、単純にそのまま城館関連地形という訳でもなさそうです。

凸2 西側土塁と堀跡
 南西隅から撮影させていただいたもので、土塁の一部と空堀跡が南側に続いていることが窺えます。堀幅は約7m前後、延長は約50mで南北方向に伸びています。また主郭土塁もこれに平行して続いており、空堀側の高さは平均で約1.5mを有しています。
 なお北辺にも堀跡と土塁が続いていますが、隣接する民有地との関係で事実上死角となっている事情もあり、その外観からは遺構の詳細については判然としませんでした。
北から撮影した西辺の空堀跡
同上 右手の農道が小口へと続いていたようにも

「森東城」北辺の堀跡らしき公道
「森東城」の北東鬼門に所在する「飯玉神社」
凸3 堀跡の名残り
 この不自然にカーブした公道は、かつての外郭部分を形成していたと推定される堀跡の名残りと考えられているようです。
 また付近には後北条氏時代にこの地を付与されたとされる一族を祖先とする方もお住まいのご様子でありました。 
(現地及び「藤岡市史 資料編」の記述より)
凸4 飯玉神社
 後北条氏の支配下において、武蔵から移住した針谷対馬が天正14年(1586)に再興したと伝わる飯玉神社(神明社)が、城跡の北東(鬼門)に所在しておりました。天正10年(1582)の「神流川の合戦」に勝利した際に針谷氏が入封したと推定されています。

  (「藤岡市史 資料編」より)
 
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「角川地名大事典 10群馬県」(1988/角川書店)

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2008/10/11 HPアップ
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