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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/17のブログ 奥浅間砦 小串城 峯山城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字黒熊字日光328ほか
歴史、人物、伝承

別称の多い城跡
 地元には羊太夫の臣黒熊太郎の古跡との伝承が残るとされていますが、この点は羊太夫の実在を含めてあくまでも民話・民俗学の世界の話。古くは関東管領上杉憲政の家臣である奥平茂原政長は黒熊中城に居を構えたとされますが、山内上杉氏滅亡後は武田氏の支配下に組み込まれ、国峰城を本拠とする小幡氏寄騎の長根衆として仕え、天正10年(1982)の武田氏滅亡の際に甘楽郡奥平に帰農したとされています。
 一方、この黒熊中城は当地の旧家である三木家(飛騨の姉小路氏を祖とする三木氏の後裔とする説あり)とも関わりを示す説も当家に伝わる古文書からも有力とされていると共に、さらには西方峯山城主の富田氏が黒熊郷を所領として宛がわれた旨の古文書も残されており、こうした土地領有の流動的な状況からも武田氏、上杉氏、後北条氏などの大勢力の狭間で翻弄されつづけた上野の在地小領主の苦悩が垣間見えます。
 なお、城の別名は「深沢城」(「上州古城塁記」)、「中城」(「上野国志」より)、ほかに「黒熊砦」などともいわれています。黒熊中城の南方約500メートルの地点には本城を防御する一連の砦群として「奥浅間の砦群」も所在しています。            (「中世吉井の城館跡」等より)
 また「黒熊」の地名については天正年間には「黒駒」と呼ばれていたとの見解がありますが(「群馬県郡村誌」「入野村郷土史」「多野郡誌」「三木氏の碑文」等より)、康正元年の足利義政御教書によれば上野国小串地頭職並びに名胡桃村・黒熊村を小串次郎右衛門尉成行に対して安堵している旨が記され、また上記の富田家などの古文書の記述を見る限りでは、この村名の経緯については諸説が存在する模様です。

確認可能な遺構
 堀跡?、土塁跡?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/17 )
 限りなく館に近い城郭
 東西を浅い谷筋に挟まれた舌状台地の北方先端部分に所在。しかし周辺に所在する水田面との比高差は数メートル前後で、その現状からは台地上に占地しているとはいっても、およそ要害の地と表現するには程遠い地形という印象があります。さて資料によれば延命寺境内が主郭で、南側の内出と呼ばれるあたりが二の郭に相当するとのことのようです。紀年銘が明確では有りませんが、歴史を感じさせる宝篋印塔や五輪塔が所在する寺院墓地脇の竹林。ふと直感的に何かありそうにも思えたのですが、堀跡や郭跡などを連想できるような地形も見られず、ごく普通の斜面でこれといって格別の成果はなく。天然の堀跡は西側の谷川を利用しており、その点では非常に分かりやすい構造。
このほか段差の目立つ地形がそこかしこに所在するものの、そのままそのすべてを城館遺構と断定するには幾分躊躇するような後世の宅地化や開墾の影響を無視できない印象が感じられるのであります。


「2の郭南側の土塁状地形」 画像クリックで拡大します
二の郭南側の土塁(切岸)状地形
( 2008/01/17 撮影 )
訪城アルバム
主郭とされる延命寺と南側の二の郭との間の堀跡?
主郭東側の道路(かつての堀跡t?)
凸1 主郭とされる延命寺
 主郭部分は画像右側の幾分標高が低い台地北側であるという見解も素朴な疑問の一つ。現在の京都市右京区に所在する御室御所真言宗総本山仁和寺の末寺として文禄元年(1592)に創建されたとされています。(「日本名跡図誌」⇒「吉井町誌」の記述より孫引き)なお、「中世吉井の城館跡」では三木和泉守が文禄4年(1595)に創建したと記されています。
 
 ⇒紀年銘不明の五輪塔
 石材の磨滅・風化等の状態から、その歴史的経緯の古さを感じさせてくれますが残念ながら委細不明です。
 ⇒延命寺生垣のヤブツバキ(たぶん)
凸2 主郭東側の道路
 緩やかな傾斜を見せる主郭東側の公道で、おそらくは「4」の画像のような天然の谷川の流れを堀代わりとしていたのではないかとも思われます。もし仮にそうでないとすれば、この城郭としての立地条件は益々理に適わないものとなってしまうのであります。(画像「3」の左端の地形を参照)
 ただし、宅地化が進行しており遺構に相応しいような地形を辿ることは難しいのですが、地形だけで判断すれば深沢地区にも東西を谷に挟まれた恰好の舌状台地が所在しています。
あくまでも地形上からの憶測地いつもガイドの案内図

「北側から眺めた主郭の所在する台地先端部」 画像クリックで拡大します
「西側の天然の水濠」 画像クリックで拡大します
凸3 北側から眺めた主郭先端部
 奥浅間砦方面の景観を確認するため、庭石用と思われる数トンの重量があろうかと推定される巨石の上から撮影したもの。両者の間は直線でも約500mの距離があることから、一定の相互関連を想定できるものの現実にどのように機能していたかについては疑問の余地もありそうです。なお、この北側の台地先端部と水田面の比高差は現状では約3m前後という規模のため、手前の水田部分が余程の深田でない限り城郭としての防御上からは大きな弱点であったように考えられます。
 
 ⇒懐かしのキャラクターたち
 南北の両郭を分断する道路の突き当りの場所に懐かしくかつ面白いものを発見。ブロック塀に描かれてた「チロリン村とくるみの木」のオールスターキャストによる交通安全キャラクター。その描かれたキャラクターの色褪せ加減と相俟って誠に郷愁をそそられるものがありました。
凸4 気になる蛇行
 元々の谷川の流れかどうか興味が沸く些か不自然な印象のある河川の蛇行。いずれにしても出郭のような役割を担うことが可能とされる地形であることは想像に難くはないのでありますが。
 
 ⇒二の郭南側の切通し(東側から撮影)
 如何にも城郭の遺構との関連が窺える地形なのですが、切通しの個所は別としても高低差のある地形が、奥浅間砦の所在する方向の南向きの城外側と推定される位置に所在するという現状をどのように理解してよいのか理解に苦しむのであります。

 ⇒同切通しと土塁状地形(同上)
交通案内

・城跡は黒熊の延命寺とその南側の周辺

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)・

■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
  「上州古城塁記」には、武田信玄の家臣駒井右京が居城したと記されていますが、山崎一氏によれば同書の注釈において、駿東郡深沢城の誤りであることが指摘されています。

■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)1976関東資料研究会による復刻本
 「前上野誌」からの引用として、深沢村の項に「深沢古城が駒井右京輔が居城し元亀元年4月に北条氏政の軍勢により攻め落とされた」旨の記述があることを示していますが、編著者の富田永世は「諸国廃城考に記されているところの相模駿東郡の深沢城である」と指摘しています。また城郭研究者である山崎一氏も、おおむね同様の内容を「吉井町誌」等で指摘されています。


・2008/03/20 HPアップ
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