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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  河内城 河内城 河内城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/28のブログ 多胡下城 多胡砦 峯山城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字吉井川字八束415ほか
歴史、人物、伝承

武田氏の攻勢の前に壊滅したとも
 永禄6年正月に武田信玄は3万5千の軍勢を率いて西上野に侵攻し多勢を以て一郷山城、多比良城(新堀城)を攻略し、その勢いを以て河内城を始めとして吉井(⇒不明)、上野(⇒不明)、白倉(⇒白倉城か)、塩川(⇒塩川城か)、天引(⇒天引城か)、馬庭(⇒馬庭城か)、本郷(⇒本郷城か)、小幡(⇒国峰城か)の9か所の小城攻略すべく軍議を諮った。(中略)河内城主牧野丹蔵英一は塩川城主菅野間大膳とともに信玄の元に使者を送って徹底抗戦の意思表示を行い城兵300人と共に暫し抗戦したが寡兵のため落城した。
 以上については、あくまでも長野氏の視点に立って近世初期に編纂されたといわれる「箕輪軍記」によるもので、箕輪城の落城時期など史実との食い違いも指摘されています。しかし河内城の歴史的経緯については、「吉井町誌」をはじめとする関係資料にもこうした上記の内容が記されているに過ぎない模様です。
 別名を河内砦(かわうちとりで)、河内の砦とも。

確認可能な遺構
 腰郭2段(北東部)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月28日 11時55分から12時55分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/02/14 記述 )
 竹林に隠れる腰郭
 鏑川右岸の所在する他の城館と同様に北方に張り出した舌状台地に占地しています。吉井町刊行の関係資料等によれば土塁・腰郭跡も残るとのことですが、10月下旬にも拘らず未だ夏草の勢いは旺盛のため残念ながら土塁の消息についてその存否を確認することは叶いませんでした。
 それでも蜘蛛の巣を払いつつ当たりをつけた北東角の竹藪へと突入を敢行し、忽ち薮蚊の大軍による間断の無い攻撃に曝されて顔面など数ヶ所がボコボコに。そんな経過を辿りつつも、台地北東部において辛うじて2段からなる腰郭状の地形を確認するに至りました。
 また城跡の西方一帯は既に住宅地化され、腰郭遺構もそのすぐ近くまで自動車の修理工場の敷地が迫っておりましたが、地元の方の墓地(廃寺となった八塚山弥勒院跡か)が所在していることにより辛うじて従来の景観が保たれているような状況です。
 なお「吉井町誌」の記述によれば、戦前から戦後の一時期にかけて伝染病の隔離病棟が所在した場所でもあるとのことです。然し現在は既に住宅が立ち並びそうした痕跡を敢えて求めるとすれば、入口となる坂下に残された通行止めのために設置されたと思われる小さなコンクリートの石柱だけであるように思われました。


河内城の遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
河内城の遠望
( 2008/10/28 北側の平地より撮影 )
訪城アルバム
河内城の北側斜面 ⇒ 画像クリックで拡大します
河内城が所在する台地 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 河内城北側斜面
 河内城が所在する台地の北側斜面付近の状況ですが、近代以降の道路建設や斜面保護などによってかなり地形が改変されているものと考えられます。
 なお画像手前の道路が交通の要衝である国道254号線(信州街道)ですので、単なる監視の役割というよりもまさしく街道の往来を一定の軍事力により制圧するという機能を果たしていたと考えられます。
 こうした観点で捉えるとするならば、河内城の大手はこの方面を意識したものとなるように思われます。
凸2 河内城大手?
 北側斜面には台地上の住宅地へと続く斜面を削平した道路が建設されていますが、昭和15年度に隔離病棟の建設に伴い「道路改修整備費」が予算措置されている事情を考慮しますと、従来から存在していた御嶽神社への参道を拡張整備したものと推定されます。
 なお城域の推定範囲の問題を別にすれば、この道路は城跡が所在した台地上からは約100mにわたり横矢がかかる位置関係となっていますが、無論その真偽の程は分かりかねます(汗)

河内城北東上段の腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
河内城北東下段の腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 上段の腰郭
 墓地直下の竹林内に所在し、幅・奥行きともに約10mほどの規模を有していました。この画像からも分かるように比較的丁寧に削平されている様子が窺えます。
凸4 下段の腰郭
 上段の腰郭から2mほど下方の崖の中腹部分に所在しています。幅約8m、奥行き約7mほどの規模を有し、その下側は崖地となってそのまま国道へ続いています。

河内城北東の土塁跡付近
河内城からの眺望
凸5 土塁跡付近
 土塁が残存しているとすれば恐らくこの辺りの筈なのですが、見た目では余り判然とはしません。
 念のためものは試しに藪の上に乗ってはみましたが、盛り土があるような無いような微妙な感触でありました..(苦笑)
凸6 北東方向の眺望
 吉井川沿いの谷筋から河内城を撮影したもので、北側の眺望に優れ、北側の信州街道を意識した占地であることが窺われます。しかし「箕輪軍記」によりますと、武田信玄は西上野の制圧に際して、この南方に所在する天久の丘陵地帯に布陣したとされています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)・「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)・「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)・「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)・各市町村の公式HP


■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
■「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「箕輪軍記」(1976/関東史料研究会)


・2009/02/14 HPアップ
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