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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  神保館の遠景 神保館 神保館の北西堀跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/28のブログ 折茂の内出 多胡下城 高の砦
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字神保字門出432
歴史、人物、伝承

神保氏の居館と推定
 「吉井町の文化財ハンドブック」等によりますと、館跡は120m×100mの単郭と想定され、神保植松城を本城とした神職である神保氏の居館として推定されています。また、地形的には概ね平坦な台地ですが、舌状の丘陵地形が南方から館の西側方面へとのびていることにより、館跡は西北側の方がやや高いという地勢となっています。
 神保氏については、越後上杉氏の関東進出に際してまとめられた永禄4年(1561)の関東幕注文の白井衆(白井長尾氏を頂点とする)の一員として、さらに永禄10年(1567)生島足島神社へと奉納された起請文にも、武田氏支配下の長根衆の一人として神保氏の名称を見ることができます。なおこうした考察に関しては「吉井町誌」において、山崎一氏が詳しく論究されています。
 城館の名称について「吉井町誌」では「神保城」、その他では概ね「神保館」と記されております。

確認可能な遺構
 空堀、土塁ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年10月28日14時50分から15時50分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/04/05 )
 良好な空堀跡
 遠く榛名の山々、妙義山の岩峰、超大型航空母艦のようにも見えてしまう特徴のある平坦な山稜の荒船山と、「折茂の内出」よりも更にこれらの山稜が正に手にとるように一望にできるという大変見晴らしの良い高台に占地しています。
 関係資料を眺めてあらためて所在地を探すまでもなく、否応も無く視界に入る北西側の季節風を防ぐ広大な防風林が神保館そのものであることは自明の理であります。たまたま防風林脇の畑にて試掘調査中。始めたばかりで詳細不明の模様でしたが伺ったところでは恐らくは古代末期ものとのこと。ことによると、その時代から営々として続いていた人々の活動の証が確認されるかのうせいもあるような。
 さて肝心の堀跡・土塁等の遺構については北西部を中心として極めて明確に残存しておりました。幅8m弱、深さ最大2.5mの規模を有する空堀跡が凡そ100m近くにわたり現存している光景を目の当たりにしてこの日最後の探訪地で最大の収穫となったことに感謝して辛科神社に参拝。また部分的には堀を挟んで二重土塁の形態とも受け取ることのできる地形も。
 辛科神社方面にも同様の遺構が現存し、現在でも城館名と同名の旧家が数軒所在している模様でありました。広大な宅地の南東側には最大比高差4mの郭状の台地も現存していますが、おそらくはこちら側が小口(大手)ではないかと推定されます。



「神保館」北側からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
A 神保館(神保城)北側からの遠景
( 2008/10/28 撮影 )


(注)「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
 なお概念図の作成に当たっては、「中世吉井の城館跡」等を参考にさせていただきました。

神保館の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
一郷山城方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
神保館の北側堀跡付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 一郷山城方面
 「折茂の内出」からこの神保館へ向かう途中の沿道からは、観光開発のために事実上消失してしまった「一郷山城」を眺望することができます。
 あくまでも模擬天守風の建築物ですが、吉井町の各所からも眺めることができるのでランドマーク代りとしては重宝しました。
凸2 北側堀跡付近
 おおむね堀跡の角部分に相当するものと思われますが、外側では畑の根伐り溝との区別がつきにくいやや複雑な形状なのでありました。

北西部の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
辛科神社西側 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北西部の堀跡
 堀幅は約8m、深さは2mから2.5mを測る、延長約100mを超える規模の堀跡が残されていた事実に率直に感動をいたしました。
堀底から北東方向を撮影
郭内から空堀を俯瞰
堀底より南西方向を撮影
郭内から南西方向を俯瞰
凸4 辛科神社西側
 かつて舗装道路の辺りに空堀が所在していたものと推定されますが、現状では神社側の切岸状地形が残されているだけなのでありました。
 辛科神社の一部も館跡と推定する見解もあるようですが、後世のものと思われる地形の改変が多く見られその判断が難しいところなのでありました。

辛科神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大します
推定小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 辛科神社の社殿
 「」吉井町の文化財ハンドブック」等によりますと、大宝年間の創建と伝わる古社で吉井町指定史跡。祭神はスサノオノ命ほか15柱が合祀。手前が寛政9年(1791)修復された随身門で、奥の拝殿は本殿と共に寛文元年(1661)に修復されたということです。
⇒辛科神社境内の北側に残る土塁ないしは堀跡状地形
辛科神社の現地解説板
凸6 推定小口付近
 奥の方にも土塁のような地形が見えたのでありますが、日没時刻が次第に迫り始め、恐らくは奥のお宅の玄関先付近と思われたので、道路沿いの方からそっと拝見することといたしました。
 右側の郭状地形の比高差は最大で約4mほどを測り、この小口と推定される坂道を睥睨するには好都合の地形なのでありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)、「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)、「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2009/04/05 HPアップ
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