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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  神保植松城 神保植松城 神保植松城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/30のブログ 神保館 折茂の内出 高の砦
所在地
 群馬県多野郡吉井町神保植松701から705
歴史、人物、伝承

戦国期神保氏の本城か
 「吉井町誌」「吉井町の文化財ハンドブック」などによりますと、戦国期においては辛科神社神官神保氏の居城であったことが推定されています。
 この神保氏については、越後上杉氏の関東進出に際してまとめられた永禄4年(1561)の関東幕注文の白井衆(白井長尾氏を頂点とする)の一員として、さらに永禄10年(1567)生島足島神社へと奉納された起請文にも、武田氏支配下の長根衆の一人として神保氏の足跡を辿ることができます。
 名称については植松城(「吉井町誌」「日本城郭大系」「多野藤岡地方誌」「角川日本地名大辞典」)、多湖城(「日本城郭全集」「群馬県多野郡誌)、神保城(植松城)(「群馬県文化財情報システム」「群馬県の中世城館跡」)、神保植松城(「吉井町の文化財ハンドブック」「中世吉井の城館跡」)等があります。
 ここでは神保植松城の呼称がその所在地と歴史的経緯に照らし最も相応しいものと考え適用しました。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、腰郭、小口、郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月30日 10時15分から11時00分 、2008年12月13日再訪
訪城の記録 記念撮影

( 2009/04/05 )
 消滅してはいなかった遺構
 上信越道自動車道建設に伴い遺構の中心部分を含む大半が消滅したといわれている城郭。 確かに北東の腰郭そのものは郭本体、切岸とも側道工事等によりほぼ消失しているという印象が濃厚です。 僅かに東側から入込む谷と、かつて腰郭などが存在していた北東方向にのびる舌状台地に城跡としての名残をとどめているのかも知れないという状態です。
  とはいえ以前に、儀一殿などから「高速道路南側に遺構が残存する」との貴重なる情報を思い出し、念のため植松陸橋を南へと渡ることに。 すると先ず目に入るのは「への字」形の折を有する大規模な土塁。 高さは最大3m、延長60mほどの規模のものが残存。 その南側に続いて深さ約1m、幅約12m、長さ40mの耕作地化された外大堀と呼ばれる空堀跡も現存。 さらにこの二つの遺構を挟んで南北に郭跡と見られる削平地及び切岸も現存。
  つまりは高速道路建設以前の関係資料に記された遺構のうち、少なくとも全体の4割ほどに相当する南側部分については概ね現存しているということが判明したのであります。 予め以前の縄張図上に高速道路の想定位置を書き込んだ前日の急造資料が役立ち、予想以上の展開は当初の予定時間を大きく上回る結果に満ち足りた心境になったのでありました。

「神保植松城外郭土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
神保植松城の外郭土塁 ⇒ 幾分角度を変えた画像
( 2008/10/30 撮影 )


(注)「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
神保植松城の残存遺構概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
神保植松城北側の谷津 ⇒ 画像クリックで拡大します
上信越自動車道
凸1 北側の谷津
 概ね自然地形の谷津ですが、一部人工地形が含まれるとのことであります。
 既にこのような工場敷地の一部となっているために、現状では確認する手立てがなく高速道路の側道から俯瞰したのみで当該部分の踏査を終了(汗)
凸2 上信越自動車道
 主郭、二の郭などの城跡の中心部を東西方向に縦断しています。
 この建設に先立ち1988年に発掘調査が実施され詳細な縄張り構造が確認されましたが、その遺構の大半はこの道路建設に伴い消滅しています。

「神保植松城外郭土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「神保植松城外郭空堀跡(外大堀)」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 神保植松城外郭土塁
 外郭土塁の北西先端部付近を撮影したもので、以前の耕地化により土塁の基部が幾分狭められている印象があります。 
 しかし上信越道建設に関連する地形の改変に関しては、手元の関係資料を見た限りそれ以前のものとそれほど大差ない状態のように思われました。
外郭土塁先端部
外郭土塁基部の石積み?
外郭土塁基部の石積み?
凸4 神保植松城外郭空堀跡
 現状の右方畑との段差は1mほどに過ぎませんが、発掘に伴う調査では堀幅15m、堀底幅3〜4mで西側から北へとのびて東側へ回り込む総延長400mの壮大な規模を有していたとされています。
 ただし現状の地形から確認できるのは、南側のこの個所が最も良好な状態でその他は耕地化と道路の建設に伴い不明確化または消滅しています。

「神保植松城の南外郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
小口跡付近 ⇒ 画像クリックで、やや下方の画像へリンクします
凸5 南外郭部
 耕地化のために目立った遺構は確認できませんが、画像左側には切岸、画像の一番奥には自然の谷津が入り込み更に画像右手の台地続きには空堀が穿たれて要害性を高めていたものと考えられます。
⇒凸5-2主郭南側(推定) 
凸6 小口跡
 小口郭や主郭南部の郭により防御されているとはいえどちらかといえば手薄な防御形態であるように思われ、主郭からの脱出ルートを想定した場合には、恰好の搦め手となるものと考えられます。。
 従ってあえて大手口を探すとすれば、関係資料においても指摘されているように南外郭と外郭部により守られた外大堀に残る土橋跡方面が最も相応しそうに思われます。

北東の古墳群より神保植松城の全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 東側崖地基部
 
「凸6」の小口(搦め手か)を比高差にして15mほど下るとこの地点へと到達します。
 東側の大沢川と接する崖線中腹(川面はこれより10mほど下方)付近ですが、要害性を誇ったと思われる当時の面影は道路整備などによりその影が薄くなっておりました。
凸8 神保植松城全景
 北東の古墳群より眺望した神保植松城の全景で、標高約207mの稲荷山北東中腹に所在する標高170mから180mの緩斜面に占地しています。
 このため防御性に欠ける緩斜面には幅12mを超える大規模な空堀を穿ち、その内側に高土塁を構築したものと考えられます。
 とはいうものの、山頂部の稲荷山方面(現在は宅地化)からは城内を俯瞰されるという大きな弱点を克服できたとは到底思えないのであります。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)・「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2009/04/20 HPアップ
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