群馬県内の城館跡目次
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1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年3月26日のブログ 中野屋敷 波志江中屋敷 岡屋敷
所在地
 群馬県伊勢崎市波志江町下波志江
歴史、人物、伝承

波志江氏の居館とも伝わる
 山崎一氏によると近世の中頃の宝暦年間に編纂されたと推定されている「上州故城塁址」(著者不明)によれば、波志江村に「この村に堡あり 小堡九千二百八十歩・・・」とのみ記されている。この点について、山崎氏はこの小堡が下波志江にある波志江氏の居館であるとしているのであるのだが、その具体的な論拠についてはあまり明確では無く些か不明な部分も多いように思われるのだが果たして実際にはどうなのであろうか。この点については考究を待ちたい。
 以下「伊勢崎市史通史編」においても、同説に従い「波志江館は波志江(橋江)氏の館跡と伝承されている。「いほり」(居堀)と称される方70mの方形居館に跡に接して東北の金蔵寺敷地や南の遺構も館(城)の張出し部分とも考えられる」と述べられている。この点については、「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」においても山崎氏が関わっていることからおおむね同様の扱いが為されている。
 なお橋江郷の一帯に関しては中世後期の文書が存在しており、「黄梅院文書」によると守護代である長尾景仲が永享11年(1439)に波志江掃部助などに宛てた文書では当地との関わりを有すると考えられる地侍層とも推定される武士の名も見られることから波志江氏の存在については裏付けられることになるものと考えられる。
その後「赤堀文書」によれば長享2年(1488)頃に赤堀上野介、次に永禄13年(1570)には長尾輝虎(※後の上杉謙信)判物により赤堀上野守に宛行われていることが記されている。(※これらの文書に関しては「角川地名大辞典」より引用した)
従ってこれによれば、少なくとも15世紀前半くらいまでは波志江氏が領主として存在していたものの、15世紀末頃になるとその領主としての地位を喪失し、波志江郷の領有権は赤堀氏へと転じ波志江の動向も確認できなくなるように思われる。こうした経緯をこの城館跡について考慮すると、おそらくは館が館城へと転化する過程で事実上の廃城となったものであるようにも思われるが無論その詳細は不明である。

確認可能な遺構
 土塁、空堀(ともに金蔵寺墓地西側に残存)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年3月26日 午前9時10分から午前10時00分
訪城の記録 記念撮影

 屋敷跡よりも北側に
 以前には地元旧家である細井家の周囲に館跡に関連する「いぼり」(居堀)ともいう地名が伝わるように方形の堀跡や土塁などが存在していたということなのですが、近年の宅地化などによりそうした形跡は殆ど消滅しかかっているように感じました。
 寧ろそれよりも金蔵寺西側の裏手には延長40メートルほどの堀跡とこれに伴う一部土塁状の地形などが残存しておりました。さらにこの地形の北方の延長線上にある金蔵寺境内地西側境界部分が続いており、その個所さえもが恰も土塁状の地形のように微妙な地形が残存しているようにも思われましまうのでありました (^^ゞ
 また、北側に隣接している愛宕神社の境内北辺部分にも築山状の盛り土地形が所在していますが、こちらについても後世の地形改変も想定されることもあり城館遺構に関連するものであるのかどうかについては分かりかねました。
 この日は目覚ましは時計4時半にセットしていたのですが、どういう訳か午前3時に覚醒してしまいました。二度寝はそのまま熟睡してしまうことから、やむを得ず時間調整のためのんびりと身支度を整えたりして出かける支度を始めましたのですが それでも当初の予定よりも大分早く自宅を4時半過ぎに出発してしまうこととなりました。
このため朝からの行動時間はすでに6時間近くとなってしまい、早くも疲れが出始めてしまいました。それでもここまでは蟹沼方面から歩いてきたこともあり、このあとは東方の地蔵山古墳を見学するために一旦鍛冶原公民館の駐車場所まで戻ることとしました。
( 2019/7/4 記述 )
波志江館付近土塁と堀跡
波志江館付近の土塁と堀跡 −画像A−
( 2019年3月26日 撮影 )
凸画像右側の後世の耕作地との境堀のようなものである可能性も考えられるのですが、大まかなところでは「群馬県の中世城館跡」および「伊勢崎市史通史編」に収録されている山崎一氏の作成された略測図にも掲載されている「土塁/堀跡」状の地形と概ね一致しているように思われました。なお郭内は画像左側の金蔵寺境内方面となるようです。

国土地理院航空写真より編集加工
国土地理院航空写真より編集加工 −画像B−
( 2019年7月3日 編集加工 )
凸もともと近代の早い時期からある程度町並みが賑わいを見せていた地域でもあることから、戦後間もない時期のものではありますが、この画像からは北辺部の境界部分についてはある程度その様子を把握することができるものの、中心部と思われる「いぼり」の周辺や南部の方の様子についてはなかなか窺い知ることが難しいように思われます。
 なお、赤枠で囲まれた波志江館の北東方向に所在する屋敷構えは地元旧家である矢内氏の屋敷(※伊勢崎市指定天然記念物である樹齢600年ともいわれている「波志江の大シイ」が所在)ではないかと思われます。

訪城アルバム
愛宕神社境内北辺
愛宕神社社殿
凸1 愛宕神社境内北辺
 「伊勢崎市史通史編」などではこの愛宕神社境内も金蔵寺境内と合わせて館(城)の張出し部分と推定しています。
この北辺部分には、こうした築山風の地形が所在しているのですが恐らくは後世の築造によるものなのでしょうか。
なお、愛宕神社と金蔵寺の境内については大正2年(1913)に敷地の交換が行われているとのことです。(※愛宕神社の縁起が刻まれた「画像2」の石碑の文面より引用)
凸2 愛宕神社社殿
 この愛宕神社境内に建立されている縁起の刻まれた石碑の内容はここからリンクします。
同碑に刻まれている「三郷村郷土史」(※みさとむら/明治22年(1889)に波志江、安堀、太田が合併し昭和30年(1955)に伊勢崎市へ合併)に記されているという文治3年(1187)の「源頼朝の臣である佐位の治官がこの地に築城するにおよび・・・」という文言については有力な史料上の裏付けも見当たらないことからあくまでも伝承の域を出ないものと考えられます。(※佐位(さい)/奈良から平安期の郷名で、南北朝期から戦国期には佐位荘で現在の伊勢崎市に比定される)
また、「この地」が波志江郷全体を指すのか、この下波志江を指すのかについても不明です。
なおこちらの石碑の建立にも、地元旧家である矢内家が関わっておりました。

金蔵寺山門
金蔵寺境内の西側
凸3 金蔵寺山門
 金蔵寺の東側に所在する山門です。なおゾウさん形状を模った掲示板はおそらく付属の幼稚園を考慮されてのもののように思われます。
凸4 金蔵寺境内の西側
 北側の愛宕神社方面からも廻り込んで訪れることができ、土塁と堀跡状の地形の個所はこの画像の右上の竹林の辺りとなります。
※画像クリックで拡大します

金蔵寺境内
土塁状地形
凸5 金蔵寺境内
 境内側から見た西側の地形で、幾分境内地の境界部分が数十センチメートルほど盛り上がっているように見受けられます。落ち葉などの掃き集めたもののようにも見えたので、踏み込んてみたところの足の感覚では地面自体が盛り上がっているように感じました。
この地形は「画像A」「画像6」の個所からの延長線状に所在しています。
※画像クリックで拡大します
凸6 土塁状地形
 墓地に隣接した地形ですので、ある程度地形の改変が行われている可能性が想定されますが、この土塁状地形の内側の高さは現状では数十センチメートルから1メートルほどの高さでした。
堀跡の方は画像の竹林の辺りから窪んだ地形を確認できますが、土塁の方については墓地の近くでは湮滅している部分もあるようです。
※画像クリックで拡大します

遠景
「いぼり」付近
凸7 遠景
 金蔵寺付属墓地と土塁・空堀状地形が所在する近辺の風景です。画像の中央部やや上の辺りにこの地形が所在しております。
※画像クリックで拡大します
凸8 「いぼり」付近
 屋敷跡の中心部である「いぼり」(居堀)と呼ばれている個所とその周辺部の様子ですが、おおむね宅地化と耕作地の整備などにより最早堀跡と土塁の痕跡を見出すことは難しいように思われました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)⇒記載あり
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)⇒記載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)⇒記載あり
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)⇒記載あり
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)記載なし
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年 7月4日 HPアップ
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