群馬県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 群馬県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと錯誤についてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。 
群馬県の城館索引へ戻る 波志江中屋敷 波志江中屋敷のロゴ 波志江中屋敷
1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年3月26日のブログ 波志江の土塁
所在地
 群馬県伊勢崎市波志江町2丁目2580ほか(※「マッピングぐんま」より)
歴史、人物、伝承

中屋敷の字名が残る環濠屋敷
 周辺は赤城山南麓の北から南へかけて緩い傾斜のかかる平坦な地形で、東に桂川、西に神沢川がそれぞれ緩やかに南流し、蟹沼の西方約800mで波志江パーキングエリアの南西にほぼ接した位置に所在しており、群馬県所管の「マッピングぐんま」の文化財マップに登録されている情報によると「中屋敷館址」(なかやしきやかた/あと)と呼称された「中世城館跡」として掲載されている。

 一方、群馬県教育委員会がかつて実施した悉皆調査である「群馬県の中世城館跡」によれば「波志江中屋敷」(※約120m×150mほどの不整形の略測図が所収)としているが、まったく同一のものでありかつては「堀、小口」が現存していたことが記されているが、現在ではそうした景観については宅地化や北側を通過する北関東自動車道の建設などにより殆ど失われている。

 また、「日本城郭大系」(※囲い堀あり、100m×130mほどの規模と記載)「伊勢崎市史」「角川地名大辞典」では「中屋敷」とのみ表記されているが、無論これも同一のものを指しているものである。

 なお山崎一氏が記した略測図(※「伊勢崎市史」「群馬県の中世城館跡」等に掲載)によれば構堀で囲まれ、南側に虎口の形跡が残存していたことが記録されている。ただしこの構堀は単一の環濠屋敷としては些か広大に過ぎるものでもあり、元々は複数の屋敷から構成された小規模な環濠集落であったのか、またあるいは複郭形式の平城のような存在であったのかどうかなどについては明確では無いように思われるとともに、おそらくは波志江(橋江)氏などの地侍層によるものと推定されるこの環濠屋敷跡の成立と廃止の経緯についても不明であるらしい。
 このほか橋江郷に関しては中世後期の文書が存在しており、「黄梅院文書」によると守護代である長尾景仲が永享11年(1439)に波志江掃部助などに宛てた文書では当地との関わりを有すると考えられる地侍層とも推定される武士の名も見られる。その後「赤堀文書」によれば長享2年(1488)頃に赤堀上野介、永禄13年(1570)には長尾輝虎(※後の上杉謙信)判物により赤堀上野守に宛行われているという。(※これらの文書に関しては「角川地名大辞典」より引用した)

確認可能な遺構
 堀、小口(※ともに消滅)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年3月26日 午前7時30分から7時50分
訪城の記録 記念撮影

 構堀跡をひと回り
 北関東自動車道とその後のETCインターチェンジ建設などの影響を大きく受けており、かつてのその面影はほぼ消滅しているといっても良いように思われました。取り敢えずはやむなく「中屋敷」の地名が記された地元の集会施設(中屋敷公民館)の表札を撮影いたしました。なお未だ午前8時前ということもあり、地元学童の集団登校と重なっておりましたので、近年しばしば出没するような不審者と間違われないように集会施設内の石碑類をじっくりと拝見いたしました。敷地内に纏められている五輪塔の残欠部を除く石碑および墓石などの石造物についてはそれほど時代の古いものは見当たらないようで、概ね近世中期以降のものが大半を占めているようにも思われました。
 このあと中屋敷址を周回する公道を反時計回りに歩きながら、かつての痕跡をたどってみましたが、中屋敷公民館東側の公道がいくぶん湾曲しているという以外に地形上からはこれといった痕跡を確認することはできませんでした。
( 2019/6/28 )記述
中屋敷公民館
中屋敷公民館城 −画像A−
( 2019年3月26日 撮影 )
凸石碑類と味わい深い施設名表記が素敵な波志江中屋敷の南東隅に位置に所在している地元の集会施設です。
こういった歴史のある古碑、石造物が集約されて保存されているという経緯もまた、この地が有している歴史的な背景を物語るものなのかも知れません。
仮にほんの短い時間であればこの敷地内の一画附近に駐車させていただくことも可能かもしれませんが、やはり鍛冶原の公民館駐車場の方が遥かに広いこともあり徒歩で訪れたのは正解でした。

城 
国土地理院航空写真 −画像B−
( 2019年5月19日 編集加工 )
凸赤色の実戦で囲んだ個所に堀構(※戦後間もなく頃までの時期は屋敷跡の西側部分については水路と重なっていたものと考えられます)と推定される地形を伴う中屋敷の集落が所在していたものと思われますが、この画像だけでは堀幅も狭く信頼に値する傍証となるのかについては全く自身がありません (笑)
 また、北西の方角にも纏まった集落が存在し環濠集落との関連が気になります。

訪城アルバム
鍛冶原公民館駐車場
石造物
凸1 鍛冶原公民館駐車場
 極力路上駐車を避けるべくこちらの公民館の駐車場(向かい合わせ2列で約30台ほど収容可能か)をお借りして、ここから徒歩にて西方に所在する中屋敷方面へと向かいました。
 加齢等に伴う足元の方の劣化現象の方は最早歯止めが儚くなってはおりますが、この画像の右端上に地蔵山古墳(じぞうやまこふん、群馬県伊勢崎市五目牛町/ごめうしちょう)が写りこんでおり、このあと数か所ほど伊勢崎市内を回ったのちこの眺望の良さそうな古墳も見学させていただきました。
凸2 石造物
 中屋敷公民館の敷地内には墓地の改修あるいは道路の拡張などの事情により移転集約された石造物群が恭しく鎮座しておりました。画像の左端は天明七年11月と刻まれており矢内氏を名乗る旧家が施主となって建立したようです。この矢内氏について「関東幕注文」に記されている由良氏家風ま矢内弥十郎との関わりについては不明です。また服装の裾が些か気になるのですが、おそらくは馬頭観音の一種なのでしょうか。その右側の石仏は蓮華を手にしているのでたぶん聖観音像ではないかと思われるのですが、刻まれている文字についてはモノクロにして拡大してみたり色々と工夫してみたのですが残念ながら結局は判読できませんでした (^^ゞ

東側の公道
北側の公道
凸3 東側の公道
 この屋敷跡東側の湾曲した公道がほぼ東側の堀構の位置と一致しているように見受けられました。そうはいってもこのようにすぐ東側には波志江パーキングエリアが隣接しているため余り中世城館跡としての趣は感じられません (^^ゞ
凸4 北側の公道
 この屋敷跡の北側の三分の一位は北関東自動車道の建設に伴いその真下に埋もれる形となっています。またこの高速道路北側の部分も一部も屋敷跡の北限であるように思われますが、この公道の側道ど同じような景観であるため画像の撮影は諦めました。

西側の公道
屋台の倉庫
凸5 西側の公道
 中央奥に見える2階建ての建物が、右の「画像6」の波志江の屋台が収蔵されている倉庫となります。道路の幅員や形状は大きく変容しておりますが、おおむね屋敷跡の西限に相当しているものと考えられます。なお、歩道上のグレーチング部分は概ね以前からの水路跡と一致しているように見受けられ、あわせて中屋敷の西境の構堀の位置とも重なっているようにも感じました。
凸6 屋台の倉庫
 「波志江の屋台」として全部で10台あるうちの一台のようですが伊勢崎市指定の重要有形民俗文化財である地元祭礼の屋台が収蔵されている倉庫が西側の公道に面して設置されておりました。むろん中世の屋敷跡との関連を示すものではありませんが、中世の環濠屋敷跡がそのまま近世における集落として受け継がれ現代に至っていることの傍証にはなるものと思われます。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)直接の記述なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)直接の記述なし
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)直接の記述なし
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)直接の記述なし
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)記載あり
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年 6月28日 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動