凸 所在地、遺構とも曖昧
(2011年3月30日)
所在地がいまひとつ不明確なので、藤田峠西側の藤田城からそのまま敢えて歩きやすい林道を避け足元の悪い尾根筋経由でアプローチするルートを選択。山頂から北西にのびる尾根筋を約280mほどすすんだ標高600m強のピークまで降下。
ここからさらに北西尾根筋へとルートをとり、直線距離にして約500m、2か所目の標高約550mのピーク付近の「城跡」へ到達。しかし、ここも予想通り明確な城郭遺構は確認できず。強いてそれらしいものを挙げれば幅8m×長さ約30mほどの痩せ尾根上の平坦地なのかと。北東側にのびる腰郭風の尾根筋の位置も資料と対比するかぎりでは些か曖昧。
念のため標高544mのピーク付近まで移動して周囲の地形を確認。その途中土塁の様な地形と堀切のように見えなくもない自然地形などを確認するも、城郭遺構と関連付けるには余りに無謀(苦笑)
踏査中は連続する棘の群生に気力・体力ともに喪失し、帰路の林道の棘にも失笑するほどまで疲労困憊。
地形状の尾根筋そのものを誤ることは考えられないので、残る可能性としては時折あるように「中世城館報告書」に記された所在地自体に誤りがあることくらい...と責任転嫁(苦笑)
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凸 重装備で再調査
(2011年4月5日)
前回は消化不良気味に終始したので、再訪にあたり地形図を詳細にチェック...したはずでした。しかしその結果は捗々しいとはいえず。乏しい成果の内訳は、前回の地形の北西に続く竪堀を伴わない「堀切1条」(下記画像、深さ約2.5m)と「削平地」(8m×25mほどの郭状の地形)の確認だけでした。
今後における気力・体力を勘案すると、この先3度目の調査は無いものと思い、念のために標高約550mの「二ツ山」そのものの山頂部自体も確認しましたが、山崎一氏作成の縄張図に相当する地形はとうとう見出せませんでした。
都合2回の調査結果を概念図に表しますと、下記のように完全に2か所の遺構群に分かれてしまうことから、同氏の縄張図(単郭と腰郭から構成)からは益々遊離していくのであります。
ことによると、「中世城館報告書」の編纂過程で何らかの齟齬があったというのもそれなりに一つの見方なのかとも。こうした点については藤岡市内の三ツ山城にも酷似しているようにも思われました。
( 2011/04/08 )記述 |