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群馬県富岡市の城館索引へ戻る 二ツ山城方面の遠景 二ツ山城のバナー 二ツ山城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月5日のブログ 藤田城 岩染城 浅香入城
所在地
 群馬県富岡市野上字二ツ山
歴史、人物、伝承

謎の多い山城
 藤田城の北西約1km付近の標高約545mほどのヤセ尾根上に所在し、明確な遺構は堀切1条と山頂部の削平地のみであり、当該所在地を含めて山崎一氏が踏査の上、作成された縄張図とは必ずしも一致してはいない。
 歴史的経緯の詳細も不明で、その所在地から藤田氏ないしは小幡氏との関連も想定されるのだが具体的史料は見当たらないとされている。
 藤田峠を俯瞰する役割を担っていたとものと推定される藤田城とは異なり、水場もない周辺の集落からの比高差約300mのヤセ尾根上の狭隘な地点に築城した背景も謎のひとつといえよう。小幡氏の動向から推定すれば天文から永禄記頃に使用されたものなのであろうか。

確認可能な遺構
 郭、堀切、腰郭?、土塁?、空堀?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年3月30日   10時35分から12時30分
 2011年4月5日再訪 10時35分から13時10分
訪城の記録 記念撮影

 所在地、遺構とも曖昧
(2011年3月30日)
 所在地がいまひとつ不明確なので、藤田峠西側の藤田城からそのまま敢えて歩きやすい林道を避け足元の悪い尾根筋経由でアプローチするルートを選択。山頂から北西にのびる尾根筋を約280mほどすすんだ標高600m強のピークまで降下。
 ここからさらに北西尾根筋へとルートをとり、直線距離にして約500m、2か所目の標高約550mのピーク付近の「城跡」へ到達。しかし、ここも予想通り明確な城郭遺構は確認できず。強いてそれらしいものを挙げれば幅8m×長さ約30mほどの痩せ尾根上の平坦地なのかと。北東側にのびる腰郭風の尾根筋の位置も資料と対比するかぎりでは些か曖昧。
 念のため標高544mのピーク付近まで移動して周囲の地形を確認。その途中土塁の様な地形と堀切のように見えなくもない自然地形などを確認するも、城郭遺構と関連付けるには余りに無謀(苦笑)
 踏査中は連続する棘の群生に気力・体力ともに喪失し、帰路の林道の棘にも失笑するほどまで疲労困憊。
 地形状の尾根筋そのものを誤ることは考えられないので、残る可能性としては時折あるように「中世城館報告書」に記された所在地自体に誤りがあることくらい...と責任転嫁(苦笑)

 重装備で再調査
(2011年4月5日)
 前回は消化不良気味に終始したので、再訪にあたり地形図を詳細にチェック...したはずでした。しかしその結果は捗々しいとはいえず。乏しい成果の内訳は、前回の地形の北西に続く竪堀を伴わない「堀切1条」(下記画像、深さ約2.5m)と「削平地」(8m×25mほどの郭状の地形)の確認だけでした。
 今後における気力・体力を勘案すると、この先3度目の調査は無いものと思い、念のために標高約550mの「二ツ山」そのものの山頂部自体も確認しましたが、山崎一氏作成の縄張図に相当する地形はとうとう見出せませんでした。
 都合2回の調査結果を概念図に表しますと、下記のように完全に2か所の遺構群に分かれてしまうことから、同氏の縄張図(単郭と腰郭から構成)からは益々遊離していくのであります。 ことによると、「中世城館報告書」の編纂過程で何らかの齟齬があったというのもそれなりに一つの見方なのかとも。こうした点については藤岡市内の三ツ山城にも酷似しているようにも思われました。

     ( 2011/04/08 )記述
二ツ山城の堀切状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
二ツ山城の堀切状地形 −画像A−
( 2011年4月5日 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」掲載の情報および「電子国土」の地形図等を参考に現地での印象を加味して作成しています。

概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
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 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 見えない遠景画像(画像1−1)
 藤田峠方面から撮影した遠景ですが、肝心の二ツ山の双耳峰方面はこの方面からは画像右側の小ピーク(標高約605m)の陰に隠れて直接仰ぎ見ることができません。
凸2 謎の遺構?(画像2−1)
 一見土塁と横堀のようにも見えますが、稜線上に所在していることから考えますとその可能性は少なく、後世の植林事業などに伴う地形改変の跡なのかもしれません。

 ⇒ 画像クリックで拡大
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凸3 堀切?(画像3−1)
 撮影角度によってはこのように堀切のようにも見えてしまいますが、明確な切れこみも少なく地形の現状からは自然地形のひとつと見るべきなのかもしれません。
凸4 主郭?(画像4−1)
 尾根筋先端の山頂部に2段の削平地を有する郭状の地形で、幅約8mから10m、長さは約25mほど。ヤセ尾根上の人工的な削平地ですので、城郭遺構として捉えたいところです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
・クマ等の野生生物出没注意

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「富岡市史 自然編、原始・古代中世編」(1987/富岡市)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)関東資料研究会による復刻本(1976年刊行)
「箕輪軍記」(1976/関東史料研究会)
 ⇒近世初期に記されたと考えられている軍記物で、長野氏の滅亡、箕輪城の落城の経緯等について記されている。

・2011年4月 8日 HPアップ
・2019年5月28日 画像のズレ補正および説明等一部訂正/追加
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