凸藤田氏の伝承を持つ山城 標高631.4mの山頂部と、東側の削平地(主郭)などから構成される小規模な山城で、藤田峠方面を監視する役割を担っていたものと推定されます。「上野志」によれば、藤田弾正が居城とし、その子孫(※藤田信吉の子孫を指すか)は加賀に居したとも記されています。しかし、藤田氏の居城とするには烽火台や物見台規模の小規模な城郭遺構であることから疑問が呈されます。 山崎一氏が編纂した「上毛古城塁址一覧」あるいは「日本城郭全集 3」になどの資料によりますと、戦国期に武蔵西北部から西上州らかけて勢力のあった藤田氏の一連の城郭のひとつと推定されていますが、この地域に勢力のあった小幡氏との相互関係を含めてその実態については不明な部分が多いものと考えられます。 ※藤田能登守信吉(1558−1616)は武蔵天神山城主藤田氏一族の用土業国の子とされ、別名を用土新左衛門尉ともいわれ、北条氏邦の支配下では沼田城主を務めたが、天正8年に沼田城とともにそのまま甲斐武田氏に服属した。天正10年の武田氏滅亡後には、越後上杉氏に仕え後北条氏攻略に戦功をあげた。 その後慶長5年の関ヶ原合戦では上杉家から出奔し、徳川家康に仕官し下野西方1万5千石を領するに至ったが、元和元年の大坂夏の陣での失態を理由に改易となり翌年に病没したとされている。(「戦国人名辞典」2006/吉川弘文館より引用した)
凸 展望台 事前の情報よりも近年の林道整備などに伴いさらに地形が大きく改変されているようです。主郭(推定)付近の削平地は藤田峠東側に所在するキャンプ場の設営に伴う展望台の一つと化しており、遺構もある様な無い様な表現が難しい事態となっておりました。 またキャンプ場にともなうハイキングルートの整備やその後の林道整備などにより、藤田峠からの尾根筋ルートも山崎一氏が踏査した頃の面影はほぼ消失しているようです。
主郭から烽火台と推定されている標高631.4mの山頂部へといたるルートも林道の築造などによりなかば荒廃しかつては堀切跡とも思える地形も大きくその姿を変えていました。 この後は北西方向の尾根続きに所在しているとされている二ツ山城方面へと移動開始しました。
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