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山形県天童市の城館索引へ戻る  天童古城全景天童古城のバナー天童古城大泉楯付近
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/13のブログ 天童古城郭群 天童陣屋 成生城
所在地
 山形県天童市城山(舞鶴山公園)
歴史、人物、伝承

天童氏の本城
 最上八楯(延沢氏、尾花沢氏、飯田氏、楯岡氏、長瀞氏、東根氏、成生氏、六田氏)の盟主である天童氏の本拠である天童古城は、10代頼久の時に有力国人衆である延沢氏、成生氏等の離反により、天正12年(1584)10月山形城主である最上義光の攻略によって落城したとされ、その後天童氏は伊達氏を頼りその家臣となり1千石を封じられ準一家として続いた。なお、天童城の落城時期については「奥羽永慶軍記」等による天正7年(1577)説も存在するが、前説の方が有力視されている。
 天童氏の本城には天童八楯(八森楯、小幡楯、成生楯、小松楯、向楯、安斎楯、草刈楯、大泉楯)と呼ばれる在地領主らによるものと推定される複数の郭群が現存しているが、最上八楯と直接関わりのありそうなものは成生楯のみである。
 また、天童八楯自体が文献に現れるのは幕末の天保年間(「天宝9年宝幢寺文書」)以降のもののようであり、多分に伝承的要素の強いものと思われる。しかし現存する郭群と概ね符合する部分も少なくないことから、その後「天童古事記並戊辰戦争記」(明治30年3月)、「最上48楯の研究」(昭和19年)等が公刊された。ただし各楯の名称と位置については余り明確ではなく楯主名、楯位置が一致しているのは八森石見守の八森楯のみである。

確認可能な遺構
 櫓台、郭、腰郭、帯郭、小口(?)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月12日 8時00分から9時30分
訪城の記録 記念撮影

 天童古城 ( 2010/10/06 記述 )
 天堂城、天童城とも呼ばれる愛宕山とその尾根筋の遺構。 近世天童藩織田氏の「天童陣屋」も天童城と呼ぶ場合があるとのことで、 このため地元の郷土史家・研究者は「天童古城」と区別して呼称しているようです。
 残念ながら尾根筋の階段状郭群の下段部分については、かつての観光開発により地形の改変が顕著となっています。とはいえ階段状をなす郭群の切岸の原型自体はどうにか現存し、下記主郭櫓台部分を含め周辺の郭群との相乗効果を想定すればかなりの堅城を形成していたことが窺えます。
 この日は林床を好む野生種のシャガが満開だったため、豪雪にも強いその常緑葉が地表遺構の観察にとっては大きな阻害要因となっておりました。天童城は一般的には、あの「人間将棋」の舞台と呼んだほうが馴染があるのかも知れません。

天童古城主郭櫓台 ⇒ 画像クリックで拡大します
天童古城主郭櫓台 −画像A−
( 2009/05/13 撮影 )
訪城アルバム
天童古城の中心部が所在する愛宕山 ⇒ 画像クリックで現地解説板へ
大泉楯乃至草刈楯方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 愛宕山天童古城の現地解説板
 舞鶴山公園駐車場より撮影した天童古城の中心部が所在する愛宕山方面。画像左上の台形状の山が天童城の主郭部分に相当します。
 この日は山形遠征のなかで最も天候に恵まれた一日でしたが、これに反して体調は刻々と悪化の一途を...
凸2 大泉楯方面
 天童八楯の東郭群の北端に所在する大泉楯(画像中央部)と草刈楯の尾根筋。比高差約110の間には、合計20段以上にものぼるとされる大小の郭群が刻まれているはずなのですが、遺構観察の季節としては遅きに失しておりました。(主郭郭群より撮影)

小口(?)跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
小松楯東側の尾根筋
凸3 小口(?)跡現地解説板へ
 階段状に連続する主郭へと続く尾根筋に刻まれた9か所ほどからなる郭群のうちのひとつ。最下段から3番目の郭に見られる小口状の地形のようにも思われますが、観光開発に伴う遊歩道との区別が余り明確ではなくなっておりました。
凸4 小松楯東側の尾根筋
 愛宕沼方面からは急崖をなす尾根筋のため、城郭関連遺構は確認されていないとされています。何れにしてもこのように樹木が叢生しておりますので踏査できる季節は限定されています。(主郭郭群より撮影)

腰郭
主郭櫓台 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 腰郭
 主郭の愛宕神社南方の尾根筋に刻まれた腰郭群のひとつです。5段から6段の郭群を構成している筈なのですが、シダやシャガが叢生しデジカメ撮影で腰郭と判別できそうな個所はそれ程ありませんでした。
凸6 主郭櫓台現地解説板へ
 「画像A」の主郭櫓台西側部分のみを拡大撮影したものです。主郭部分との比高差は最大で約5mほどあり、南東側には最上義光が天正12年(1584)12月に建立したとされる愛宕神社社殿が鎮座しています。

天童神社境内
天童古城全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 天童神社境内
 主郭南方の尾根筋に所在する天童神社の境内地で、南方の郭群のなかでは最大の規模を有しています。
凸8 天童古城全景
 舞鶴山の東麓、田植え前の貫津の水田地帯から撮影したものです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「出羽諸城の研究」(沼舘 愛三 著/1980/伊古書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「天童氏と天童古城」(2005/天童市立旧東村山郡役所資料館)
→天童氏の系譜、天童古城、天童八楯、最上八楯、天童合戦などについて詳述されている。特に、主郭周辺の郭群等に関しては最新の研究成果が反映されている。

「出羽の三森」(1998/天童市立旧東村山郡役所資料館)
「天童市史 上巻」(1981/天童市)

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)

・2010/10/06 HPアップ
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