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山形県天童市の城館索引へ戻る  天童陣屋本丸付近天童陣屋のバナー仏向寺
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/12のブログ
所在地
 山形県天童市田鶴町
歴史、人物、伝承

幕末の織田藩陣屋跡
 織田信雄を藩祖とする小藩の陣屋跡。始め、上野小幡に陣屋を構えていたが、明和4年(1767)尊王論を唱えた山県大弐事件に藩の家老が関わり高畠へ移封。その後、天保元年(1830)に至り新たに天童に陣屋を構えるに至ったが、戊辰戦争の折の混乱の最中に庄内藩の攻撃の的とされ城下町とともに焼失したという。別名を天童城とも。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月12日 5時40分から7時00分
訪城の記録 記念撮影

 小藩の悲哀 ( 2010/09/20 記述 )
 戊辰戦争で焼失した織田氏(信雄の系統)の陣屋跡。陣屋跡の中央部には奥羽本線(山形新幹線)の軌道が敷かれて、僅かに城下町特有のクランクした道路が同時の様子を伝えるという塩梅でありました。その割には些か時間がかかりすぎのようにも思われますが、吉田大八の墓所の所在が分からずに右往左往していたというのが真相です。この日の夕刻に再訪し、お寺の方に伺い漸く判明しました。
 関連遺構は宅地化等によりほぼ消滅しているものと推定されますが、陣屋跡南側に所在する三寶寺の付近については時間の都合で確認しておりません。

天童陣屋本丸跡付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
本丸東側の稲荷神社と御陣屋の松 
( 2009/05/12 撮影 )
訪城アルバム
吉田大八屋敷跡
クランクした道路
凸1 吉田大八屋敷跡
 吉田大八は当初官軍の鎮撫使先導代理を務めたが、天童藩の奥羽同盟加入により自刃を余儀なくされた。
石高2万3千石の天童藩の財政状況は厳しく下級藩士は将棋の駒づくりに精を出し、これが現在の天童の名産品となっています。
凸2 クランクした道路
 少なくとも3か所ほどは確認できる城下町の名残りであるクランクした道路で、この画像は本丸の北東部です。
 幕末期の「天童御陣屋絵図」に基づき再現された現地案内板

仏向寺 ⇒ 画像クリックで解説板へ
吉田大八の墓 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 浄土宗仏向寺
 脇柱付の重厚な印象の冠木門ですが、天童陣屋と直接関係がある訳ではありませんでした。
凸4 吉田大八の墓
 実際には仏向寺本堂正面の大変わかりやすい場所に所在していましたが、標柱や案内板の存在を当てにして分からなかったのでありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「紀行 奥羽戦争」(柳 敏之 著/2000文芸社)
「織田藩と天童」(2008/天童市立旧東村山郡役所資料館)

史料、地誌、軍記物


県内各市町村の公式HP


・2010/09/ HPアップ
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