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千葉県八千代市の城館索引へ戻る  正覚院館の遠景 正覚院館のバナー 正覚院館
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/21のブログ 吉橋城 尾崎城 
所在地
 千葉県八千代市村上
歴史、人物、伝承

千葉氏一族の館跡か
 伝承をふくめて城主などに関する資料はありませんが、数次にわたる発掘調査の成果、および正覚院寺境内に残されている康永3年(1344)銘の板碑、応永18年(1411)銘の宝筐院塔の存在、13世紀後半の作と推定されている清涼寺式釈迦如来像胎内に天文15年(1546)に平胤広が大檀那として記された修理時の銘札が納められていたことなどから、千葉氏に関わりを持つ一族が支配していた館として存在していたことが明らかにされています。(「八千代市の歴史通史編上」ほか)

確認可能な遺構
 空堀?、土塁?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月21日 15時50分から16時25分
訪城の記録 記念撮影

 土塁のような地形も無くは無く
 かつて現存していたとされる遺構は寺院の墓域の拡張等に伴い漸次消滅している模様が窺えます。手持ちの資料と照合した限りでは、土塁遺構として残存している部分は北辺のごく一部と参道の脇の一部分に限られているものと思われます。ところが、これとても近年のものと思われる改変が加わっている様子が明白で、かなり不鮮明といわざるを得ないという印象が拭えないのでありました。
 この時点で日照時間が延びたみともあり、日没までは未だ十分なゆとりが。しかし生憎と西側には分厚い雲がかかり日差しを遮断し辺りは黄昏が迫りくるという状況に。低気圧接近に伴う頭痛の発症に加え覚束ない己の足取り等が災いして、西側山林の藪中に所在するはずの堀跡等の確認には至らずじまい。
                                                ( 2010/03/31 記述 )

正覚院館 ⇒ 画像クリックで拡大します
かつて土塁が所在した境内南辺付近 −画像A−
( 2009/03/21 撮影 )

訪城アルバム
正覚院館東側台地に残る地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
正覚院館西側水田地帯からの遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 境内東方に所在する民家の屋敷構え
 道路面からの高さは2mを遥かに超えている個所も散見される、正覚院館東側に所在する旧家の屋敷構えに伴うものと考えられる見事な土塁状地形。
 無論、あくまでも市道拡張工事と宅地の整備等の影響を受けていることは否定できません。また正覚院館の城館跡と直接的に関連付けるには、些か東側に偏在しているという問題もあり、南北170m×東西約150mという館跡規模の枠には収まってはおりません。しかしその一方で、土塁といえば確かに土塁であることには相違が無く...
凸2 西側低地からの遠望
 かつては「阿曽沼」と称された印旛沼へと続く沼沢地からの遠望です。
⇒この部分は「八千代の歴史−資料編−原始・古代・中世編」に掲載されている測量図には記されていないのでたぶん新しい土塁なのだと思われます。(2-2)
⇒一方こちらの参道右手の土塁については従来の土塁の一部分と関連がありそうなのですが、この時点では上記の土塁とほぼ一体化していたこともあり旧状については分かりかねました。(2-3)
⇒北側の台地続きの部分を隔絶するという本堂北辺の土塁と空堀(堀切)地形なのかとも(2-4)
 
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)、「八千代の歴史−資料編−原始・古代・中世編」(1991/八千代市)

■史料
-

■その他


・2010/04/11 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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