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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
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所在地
 千葉県白井市神々廻字花堀込(ししば/あざ/ほっこめ)
歴史、人物、伝承

城館跡か野牧関連施設か
 「白井の地名」(2005/白井市郷土資料館)によれば、その歴史的経緯は不明だが近世初期に成立したとものと推定されている「高城古下野守胤忠知行高附帳」には、「志々はざま村村」という表記が見られという。同史料は必ずしも同時代資料ではないが、仮に城館が存在していたとすれば、小金高城氏等との関連も推定されよう。
 また、神々廻村はその東西南北が、印西庄内郷、印西庄外郷、臼井庄に相当し、千葉氏、原氏(臼井、手賀両氏)高城氏の支配が複雑に交錯した「はざま」の地域であったと推定をしている。ただし何れにしても城館の存在を裏付けるものではない。
 野牧など城館跡以外の施設と見られる要素としては、その現状に照らすしてみる限りでは、
「要害性に乏しい立地条件」
「郭面の低さ」
「外部土塁の方が内部土塁よりも高い」
「土塁で囲まれた郭部分がやや細長く、恰も櫛の歯状の地形に近い」
「付近の中込、長堀などの地区に印西牧に伴う土手堀が存在していた」
などの点が挙げられるものと考えられる。

確認可能な遺構
 土塁・空堀状の地形
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年2月22日 11時30分から13時05分
訪城の記録 記念撮影

 悩ましい城館跡 ( 2010/09/02 記述 )
 旧字名は花発込(花堀込とも)。城館としての立地は台地上ではなく、浅い入谷津の最奥部という要害性からは程遠い立地条件。 平地林と耕地の境界にかけて高さ2メートルから3メートルほどの崖線(人工地形の印象が大)が所在し、遺構は概ねこの崖線下の南側に集中しています。
 そのうち中世城館跡とも見えなくもない地形はその最も西側部分に所在し、上幅約8mほどの空堀と高さ2m前後の土塁に囲まれた郭状の地形も存在しています。ただしその南辺部分については耕地化、農道の築造などにより消滅している模様です。
 内郭土塁の位置で東西約15m、南北約40mほどの方形も存在していますが、東辺土塁の南端部は櫓台状に大きく拡幅されて途絶しています。なお隣接する東側にも複数の区画が存在した形跡が認められますが、後世の耕地化などによる地形の改変が想定されます。
 また全体として竹林を始めとする藪が繁り見通しが効きにくいので、地形の全体状況の把握が難しい状況にあります。その立地条件を始めとして、中世城館としては疑問も残り、印西の牧に含まれるとみられる近世の馬込(捕込、とっこめ)などの野牧との関連も指摘されているようです。 しかしその西側の部分については直ちに「馬込」と断定するには少々疑問があるようにも思われ大変悩ましい城館跡です。

神々廻城遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
神々廻城遠望 −画像A−
( 2010/02/22 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地での印象などから作成しましたが、藪のため見通しがきかず位置、方向、規模などの表記は不正確な場合があります。

神々廻城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
西郭状地形の北壁 ⇒ 画像クリックで拡大します
西側の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 西郭状地形の北壁
 西端部の郭状地形の北側の壁で、この向こう側に画像「2」から続く空堀が存在しています。この壁の高さは約2.5mで勾配も緩くはありません。歩測による郭の規模は東西約15m、南北約40mほどを測りますが見通しが利きません。
凸2 西側の堀跡
 画像「1」の西側の空堀で、常用のメジャーでの計測によりますと上幅で約8m。空堀の深さは画像右側(西側)の郭外で約2.5m、画像左側(東)の郭内で約2mを測ります。

土塁状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
小口状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土塁状地形
 西側土塁の先端部は次第に消失していくというよりも、寧ろ突然途切れるというような様子で断ち切られてい印象があります。遺構全体としても南側部分については後世の地形改変による消失の可能性が強く窺われます。
凸4 小口状の地形
 画像「3」の南端に近い部分に所在している小口状の地形ですが、小口としては「平小口」の形状を見せており西側外部の空堀との連動が全く見られないことから、後世の地形改変という印象が濃厚です。

櫓台状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
北辺の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 櫓台状の地形
 西側郭状地形の東辺土塁の南端部に所在する幅の広い櫓台状の地形です。土塁は台地の手前(画像の手前部分)で一度低くなり、その後僅かに上り坂となり幅広のこの地形へと続きますが、この画像の先端部で突然消失していました。後世に削平され拡張されたのかどうかについては、現地の地形のみからでは分かりかねます。
凸6 北辺の土塁
 遺構全体をカバーしている北辺部の土塁状の地形です。隣地である北側の畑との比高差は約1mから1.5m、総延長は所々不明瞭な様相を呈しつつも70m以上続いているような印象があります。なお、この土塁は画像の個所から南側に折れ櫛の歯状の土塁の一部へと続いています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
→「土塁・空堀が一部残る」とのみ記載される。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→一覧表形式の最低限の情報とともに「牧関連施設」の可能性を示唆しています。

■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「印西牧場之真景図の世界」(平成21年度企画展
「白井のあゆみ」(2005/白井市郷土資料館)
「しろいの散歩みち」(白井町役場)
→「...駒形神社から北方に小森があり、神々廻城跡がある。神社下から旧家宅裏に通ずる道があり、この道し馬道(俗称マミチ)といわれ馬頭観音がある。旧家裏は、その昔神々廻城の馬繋場であったという。城跡には、塚・堤のようなものがある...」との神々廻城についての記述があるが、城館跡としての記述に関しては具体性に乏しい。

「白井の地名」(2005/白井市郷土資料館)
→白井市内の地名(字名)の謂われ、野牧遺構(土手堀)など、地域の歴史的背景にも詳しい。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料


■その他
「ふさの国文化財ナビゲーション」のHP

・2010/09/02 HPアップ
・2019/06/23 画像ズレ補正
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