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千葉県印西市の城館索引へ戻る  浦部竜崖城遠景 浦部竜崖城のバナー 浦部竜崖城の土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/03/15のブログ 手倉砦 神々廻城
所在地
 千葉県印西市浦部字神台
歴史、人物、伝承

大菅豊後守の伝承
 大菅豊後守の居城であったとの伝承が残るが、この事項を傍証する史料は確認されてはいない模様である。また大菅豊後正(→守か)が、千葉城落城の折に手勢300を引連れて救援に向かった際、奇襲を受けて落城したとの伝承についても同様である(「千葉県印旛郡誌後篇」)。なおこの大菅氏は千葉氏庶流である成田市大須賀保を本拠地としたといわれている大須賀氏を指すものと考えられている(「日本城郭体系 6」「戦国房総人名事典」ほかより)。
 地域的にみれば戦国時代には原氏を含めた千葉氏一族の属城として機能していたであろうことも想定されるが、これもまた推測の域を出るものではない。なお城館名は同様の名称が少なくないことから、旧大字名を付して表記した。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、腰郭、郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年3月15日 10時30分から12時30分
訪城の記録 記念撮影

 城域不明 ( 2010/09/04 記述 )
 2010年の2月末に訪れた「手倉砦」から北北東へ約1.3km離れた台地上に所在しています。城跡南東麓には「月影の井」といわれる所縁の井戸跡という説明板説明板所在しています。今シーズンに入ってからというもの、城跡もしくは城跡に関係した説明板に対面できたのはこれが2度目というマイナー路線のまっしぐらです。
 遺構が集中しているのは、主として台地西部に張出した付近。これといって特に登り道は無いので、麓の南西部から比高差8mほどの帯郭へ直登。郭部分はさらに比高差4mから5m上段の畑部分。部分的とはいえ土塁遺構も3か所ほどに分散して残存しています。また、郭への小口と想定される地形も現存していますが、余りルートが明確とはいえない状況です。
 台地全体の形状と平場等の残存状況からは、少なくとも複数の郭から構成されていたことが推定可能ですが、北側の城域の範囲がいまひとつ明確であるとは言い難いものがありました。帰路は予定通りに妙見社の祠に参拝し、そのまま台地を東に横断して永治小学校方向へ。敢えて推測をすれば、この台地を東西に横断する細道が城域の北限に相当するのかもしれません。(画像10を参照)

浦部竜崖城の土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
浦部竜崖城崖線中腹の土塁と空堀 −画像A−
( 2010/03/15 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

浦部竜崖城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
浦部竜崖城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
急崖の麓 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 浦部竜崖城遠景
 城跡の遠景を南方から撮影したものです。この方面から上る道は特にありませんが、画像左手あたりのやや傾斜の緩い個所から小走りに勢いをつけて這い上がりました。
凸2 急崖の麓
 崖線中腹の遺構までは比高差にして8m前後ですが、この画像の個所から這い上がるのには些か骨が折れるほどの急斜面を形成しています。

土塁先端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
南東側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土塁先端部
 櫓台状のやや幅広の土塁の東端部で、北側から台地を廻り込む土塁のラインはこの個所で途切れています。ただし画像中央部の石祠が祀られている個所から上段の郭方面へと進むことは可能です。
凸4 南東側土塁
 郭の南東部に断片的に残されている土塁ですが、櫓台として利用できるほどの幅はありません。この土塁の背後には幅20m以上に及ぶ空堀地形が残されていますが、竹林が叢生し前へと進むことが叶いませんでした。

土塁跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭の北側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 土塁跡
 空堀跡と推定される小谷津へと続く斜面部分と、崖線に遺された土塁状の高まりです。なお、画像右半分は郭の一部を構成していたものと推定されます。
凸6 郭の北側土塁
 郭の北側に僅かに残されている土塁上から東側方向を撮影した画像です。郭面の耕地化の進行に伴い土塁遺構自体も少なからず影響を受けていることが窺われました。

妙見神社
月影の井 ⇒ 画像クリックで現地解説板へ
凸7 妙見神社
 大須賀豊後正(→守か)の氏神とされる妙見社を守る地元の中村・大菅の両家は家臣の子孫と伝わるという。(「日本城郭体系6」「印旛郡誌後篇」より)
凸8 月影の井
 城外の南東低地に所在する大菅豊後守正氏が産湯をつかったともいう「日本三井」(にほんさんせい)のひとつ月影の井。(もうひとつは鎌倉の「星の井」とのこと)
※漸く日の目を見た福島県二本松城の 「日影の井」
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
→印旛郡誌に記されている「大菅豊後守」については、千葉氏庶流大須賀氏の一族であろうと推定をしている。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→「台地の形状からみて、南北、東西それぞれ200m四方の台地全体が城跡」であろうと推定をしている。この点について現状の地形から判断する限りでは、仮に台地東部は明瞭な崖線部で区切られるとしても、台地北部方面は平坦な台地地形が続いている(→画像9)ため当該城域の推定は困難であると認められる。そうしたなかで強いて北部方面の城域を特定する材料があるとすれば、概ね東西方向にのびる公道のライン(→画像10)が想定されるものと考えられる。

■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「印西牧場之真景図の世界」(平成21年度企画展
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)

「千葉県印旛郡誌後篇」(1912刊/1971崙書房より復刻)
→「大菅豊後守城址 浦部区字神台にあり今は畑地と化し民有に属し、縦20間横15間、其坪数約300坪周囲は土堤をめぐらし樹木繁茂せり。伝にいう。嘗て土堤を切り崩せし時其の人鼻より流血せしを以て中止し、今尚存すと。その北に龍替と称する處ありて妙見社鎮座す。大菅豊後守は千葉介平常胤(常重の子、1135年家督相続)の族下なりと伝う」(一部現代語表記に改む)と記されている。無論、現存する城郭遺構は戦国期のものと考えられている。

「上総下総千葉一族」(2000/丸井敬司著/新人物往来社)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)
→大須賀姓のなかに豊後守の受領名を有する人物の収録は見られない。

■史料


■その他
「ふさの国文化財ナビゲーション」HP
→遺構概要に「多郭(雑形)」と表記されている。

・2010/09/04 HPアップ
・2019/06/16 画像ズレ補正
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