素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。
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2010/03/15のブログ 凸手倉砦 凸神々廻城 | |
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千葉県印西市浦部字神台 |
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土塁、空堀、腰郭、郭 |
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なし |
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2010年3月15日 10時30分から12時30分 |
( 2010/03/15 撮影 )
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社) →印旛郡誌に記されている「大菅豊後守」については、千葉氏庶流大須賀氏の一族であろうと推定をしている。 「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林) ⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版 →「台地の形状からみて、南北、東西それぞれ200m四方の台地全体が城跡」であろうと推定をしている。この点について現状の地形から判断する限りでは、仮に台地東部は明瞭な崖線部で区切られるとしても、台地北部方面は平坦な台地地形が続いている(→画像9)ため当該城域の推定は困難であると認められる。そうしたなかで強いて北部方面の城域を特定する材料があるとすれば、概ね東西方向にのびる公道のライン(→画像10)が想定されるものと考えられる。 ■郷土史・歴史関係 「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館) 「印西牧場之真景図の世界」(平成21年度企画展 「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店) 「千葉県印旛郡誌後篇」(1912刊/1971崙書房より復刻) →「大菅豊後守城址 浦部区字神台にあり今は畑地と化し民有に属し、縦20間横15間、其坪数約300坪周囲は土堤をめぐらし樹木繁茂せり。伝にいう。嘗て土堤を切り崩せし時其の人鼻より流血せしを以て中止し、今尚存すと。その北に龍替と称する處ありて妙見社鎮座す。大菅豊後守は千葉介平常胤(常重の子、1135年家督相続)の族下なりと伝う」(一部現代語表記に改む)と記されている。無論、現存する城郭遺構は戦国期のものと考えられている。 「上総下総千葉一族」(2000/丸井敬司著/新人物往来社) 「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房) 「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社) 「利根川の歴史」(2001/国書刊行会) 「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房) →大須賀姓のなかに豊後守の受領名を有する人物の収録は見られない。 ■史料 − ■その他 「ふさの国文化財ナビゲーション」HP →遺構概要に「多郭(雑形)」と表記されている。 ・2010/09/04 HPアップ
・2019/06/16 画像ズレ補正 |