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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  師戸城の土塁 師戸城 師戸城主郭土塁と空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/07のブログ 船戸城 高田山城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村師戸字竜ノ谷
歴史、人物、伝承

臼井城の支城か
 築城の経緯は不明とされていますが、近世初期に編纂された「臼井家由来抜書」を引用したと考えられる「印旛郡誌」などによりますと、臼井四天王のひとりである師戸四朗の居城ともいわれています。
 しかし現存する城郭遺構については、対岸に所在する原氏の本拠地である臼井城の支配下で比較的大規模な支城として戦国期後期まで使用されていたものであると推定するのが妥当な模様です。
 また「印旛村史」によると、別名を竜ケ谷城とも。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、小口、土橋、郭、櫓台ほか
文化財指定
 なし(ただし、千葉県立印旛沼公園として整備されている)
訪城年月日
 2009年3月7日 16時40分から17時40分
訪城の記録 記念撮影

 威圧感溢れる遺構群
 この日最大の目玉となる城郭。城跡は公園整備がなされ土曜日でもあることから日中は家族連れなどで多少賑わうことを想定。このため予め夕刻時の探訪となる可能性を想定していたものの、3月上旬の夕日は既に西へと大きく傾き始め雲間から時々顔を覗かせるという案配。アスファルトが施工されたトイレが併設された駐車場に到着した時点で、既に時刻は午後4時40分を回るという正しく夕暮れ間近。
 さてこの駐車場が道場台とも呼ばれている外郭の四ノ郭に相当し、さらにその内側の広大な三ノ郭はバックネットが設置された野球場。何れにしても、やはり日中に訪れなくて正解だったのでありましょう。公園整備が行われているとはいえ、三ノ郭塁線の折歪は夕景時の陰影が穏やかに美しく、土塁上から眺めた城跡の景観も予想以上であったことに感動を。
 ただし日没までの残り時間の関係で、遺構確認は三ノ郭東側小口部分の記憶が曖昧となってしまいました。また麓の宅地化の進行が予想以上のため、遠景の城跡に相応しそうな撮影ポイントを探すまでに一苦労をすることに。
 なお、帰りがけには城内を住処とすると思われる2匹のネコさんたちとお近づきに。最初はこちらが近寄ると一定間隔を空けるという動作の繰り返し。こんな時のため、群馬県の鶉古城以来持ち歩いている「ネコのコリコリ餌」。5粒ほど駐車場のアスファルト上にそっと置いてみたところ、興味津津となり忽ち食餌モードに突入。城跡の遺構に満足しただけではなく、城跡在住のネコさんたちとの交流にも成功いたしました。

( 2010/01/14 記述 )
師戸城三ノ郭の北側土塁⇒ 画像クリックで拡大します
師戸城三ノ郭北側土塁と空堀 −画像A−
( 2009/03/07 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図については「中近世城館報告書」「改訂版 図説房総の城郭」等に掲載の略測図などを基本とし、現地での雑駁な印象などを加味してあります。ただし管理人の不手際により三ノ郭東側の小口部分の詳細についてかなり曖昧となっています。

師戸城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
師戸城三ノ郭北東の空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
師戸城三ノ郭北側の空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 師戸城の三ノ郭北東部
 道場台から眺めた三ノ郭北東付近の空堀跡と土塁の切岸。
 日差しが強い日中では露出不足が無いという半面、特にデジカメ画像は木陰の斑模様が強調されてしまうことがしばしば発生。このため臼曇りの天候や晴天でも西日が雲に隠れる時刻というのは、撮影には却って好都合という場合もあるようです。
駐車場(四ノ郭、道場台)の公園案内板 

凸2 師戸城三ノ郭北側堀跡
 三ノ郭は現在野球場となっており、残念ながら画像「1」の右上にもバックネットが写り込んでしまいます。
 実際のところは「印旛沼公園」(県立)の名称が示すように、城址公園というよりも眼下に見下ろす印旛沼の景観やスポーツ活動などを重視したレクレーション施設という発想なのでありましょう。
三ノ郭北西小口の手前(2-1)
城跡案内図
三ノ郭北側空堀(2-2)
三ノ郭側から北西小口の様子(2-3)


師戸城三ノ郭北東角の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
師戸城三ノ郭東側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 三ノ郭北東土塁
 三ノ郭はバックネット付きの野球場を兼ねた広場となっているためやや殺風景な印象も拭えませんが、内部から観察した土塁の質感は見事です。また、この画像の右奥には谷津が入り込んで台地続きの地形を狭めている状況も窺えます。
⇒細長い台形状を呈す三ノ郭北東土塁の突出部(3-1)
⇒屏風折の形状を成す三ノ郭北側土塁と空堀(3-2)
⇒見かけ上の堀の深さは目測で最大10mに達する三ノ郭北側土塁と空堀(3-3)
三ノ郭南東部の土塁で、中央のやや低いところが二の郭側に面している部分(3-4)
⇒事実上は一塁側スタンドと言えなくもない三ノ郭北側土塁(3-5)

凸4 三ノ郭東側土塁
 画像右手の外側の少しだけ凹んでいる部分が小口といわれている部分だったのではないかと記憶しているのですが、曖昧な記憶を辿る限りでは土塁の切れ目がかなり不十分で小口としては些か不釣り合いな印象があったようにも...ただし、「印旛村史」の記述からは、公園化の際に地形の改変が行われた可能性も否定できないのかもしれません。
東側土塁(4-1)
西側の断崖(4-2)
外桝型形状の三ノ郭南西小口へ(4-3)
三ノ郭と主郭を隔てる空堀(4-4)
三ノ郭東側土塁と切岸(4-5)
三ノ郭東側土塁切岸と空堀(4-6)


師戸城主郭東側遺構群と二ノ郭小口方面⇒ 画像クリックで拡大します
師戸城主郭東側の土橋・土塁・空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 師戸城主郭部の空堀・土塁と二ノ郭小口 
 一般に画像左側が主郭部分と考えられており、堀幅と土塁の規模の小ささと合わせて、この画像の空堀の先端部が三ノ郭との間の空堀跡まで続いていないことなどから、本来はひとまとまりの郭であったものを、後に分割した普請であることが窺えます。
 天正末期の豊臣氏による関東侵攻に備えた臼井原氏の改修によるものという見方も想定できますが、無論改修の経緯そのものは全く不明で、あくまでも憶測の域を出るものではありません。
主郭西側の搦め手口か(5-1)
二ノ郭を隔てる主郭土塁等(5-2)
二ノ郭より俯瞰した印旛沼方面(5-3)
二ノ郭北東土塁先端部(5-4)
 
凸6 主郭土橋と空堀
 日没が近い時刻のため城跡の公園内で遭遇したのは、、僅かにバトミントンをしていた帰り支度中の家族1組のみ。
 さらに夕方午後5時過ぎに至っては、人気は全く無くなり師戸城の空間を独占するという大層贅沢な時間を過ごさせてもらいました。
 この主郭と二ノ郭を隔てた改修に関しては、外郭部との普請規模が大きく異なり、その点高田山城と同様に何処となく慌ただしい印象が残ります。
主郭と二ノ郭を隔てる空堀と土塁(6-1)
面構えが鋭い籠城中のネコさん
西側の県道64号千葉臼井印西線からの遠望(6-2)

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)⇒三ノ郭の構造について当時の残存遺構の状態から、元来は東西に分かれていた可能性もあるとの説を提示しています。
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)
「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「印旛村史」(1984/印旛村)
 ⇒昭和46年(1971)当時の略測図を掲載し、約6頁にわたり町史編纂当時における城跡の様子が詳述されています。

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒同書に収録されている「諸国廃城考」には「印西城 天正18年小田原之役に城陥つ(城主未考)」との表記があります。この点について「印旛郡誌」では、この師戸城に比定していることが窺われます。

■その他


・2010/01/15 HPアップ
・2019/06/19 画像ズレ補正
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