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素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県印西市の城館索引へ戻る  歓喜院の土塁 歓喜院の土塁のバナー 天台宗歓喜院
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/03/15のブログ 浦部竜崖城 手倉砦
所在地
 千葉県印西市浦部字大宮
確認可能な遺構
 土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年3月15日 12時40分から12時50分
訪城の記録 記念撮影

 寺構えの一部か ( 2010/09/05 記述 )
 この画像は県道59号市川印西線、通称木下街道沿い永治小学校斜め向かい付近の天台宗歓喜院(画像2)境内の北側に所在している土塁状の地形です。
 歓喜院東側はそれなりの急崖状の地形を呈していますが、南北方向は平坦な台地地形が続くという城館の立地としては余り相応しくありません。その形状は東西方向の直線で延長は約50mほど、高さは北側の畑の部分で約0.8mから1.3mほどを測り、県道沿いの民家部分(画像A)は後世に盛り土が行われたことが窺われ歓喜院側の地表よりも幾分高くなっております。
 台地を東西にのびその南北を隔てていることから印西の牧に伴う野馬土手の一部とも考えられますが、土塁基底部が最大でも幅1間ほどであることから現存する野馬土手と比べ明らかに規模が小さいという印象があります。従ってこのほかには寺院境内と外部を区切る土塁の一部として捉えることも可能かと思われますが、何れにしてもその詳細については不明です。なお歓喜院の建立に際しては、高家旗本上杉氏との関連を指摘する説もあるようです。

歓喜院の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
歓喜院の土塁 画像−1−
( 2010/03/15 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地での情報に基づき作成しました。

歓喜院の土塁概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係

■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「印西牧場之真景図の世界」(平成21年度企画展
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)

「千葉県印旛郡誌後篇」(1912刊/1971崙書房より復刻)
→歓喜院は天台宗延暦寺派にして泉倉寺末寺とされていますが、寺伝などの由緒については不詳とされています。ただし印旛郡誌が編纂された大正初期における境内地の面積が621坪(約2千平方メートル)と記されていることから、当時における境内地は現在の県道沿いの民家宅地部分を含んでいたものと推定すべきなのかも知れません。

「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

「下総地方史の発掘」(2001/松本隆志/同時代社)⇒印西市の伝承、郷土史等に詳しい
→浦部村は畠山氏の系譜をひく旗本(高家)上杉氏の本領とされ、寛永年間に創建されたと伝わる天台宗歓喜院の大檀那でもあったといい、領主である上杉氏の旗本陣屋に類した役割を担っていたとも推定されている。

■史料


■その他

・2010/09/05 HPアップ
・2010/09/07 参考資料追加に伴い、説明等を追記
・2019/06/17 画像ズレ補正
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