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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  鎌苅館遠景 鎌苅館 鎌苅館遺構
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/07のブログ 松虫陣屋 荒野城山
所在地
 千葉県印旛郡印旛村鎌苅字諏訪山、字新宿
歴史、人物、伝承

戦国時代初期の館跡に起源をもつ館跡か
 館跡は南北を師戸川へつづく小谷に挟まれた「諏訪山」と呼ばれる南東から北西にかけてのびた長さ約300mほどの舌状台地基部に所在しています。その具体的な事情については分かりませんが、1990年代の始めに実施された千葉県教育委員会による「悉皆調査」対象からは除外をされた形となっています。
 なお「印旛村誌」(1984)には「鎌苅館址」(かまがりやかたあと)の名称で、地元では通称を「ホンノウジ」と呼び、「堀之内」の転訛である旨を推定した上で、15世紀中頃に起源を有する地方豪族の館址ではなかろうかと記し、あわせて岩戸城との立地条件の近似性を指摘しています。また同書編纂以前の昭和57年(1982)1月に調査・作成された複郭構造の様子を復元した略測図も掲載されています。
 印旛沼干拓が近世以降の幾度かの試行錯誤の過程を経て漸く戦後において本格的に実現されたものであること、および鎌苅は元禄郷帳では270石余とされていること等から推定する限りでは、戦国時代以前において大規模な領主階層が存在していたとは考えにくいものがあります。師戸川の低地を挟んだ対岸の南西約1.2kmには、小規模ながらも戦国時代の城館跡としての特徴を遺す「高田山城」も所在しています。

確認可能な遺構
 小口、土塁、空堀、郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月7日 10時50分から12時40分
訪城の記録 記念撮影

 土塁内側に溝
 事前の情報では、果たして中世城館跡なのかどうかについては不明でしたが、常総方面にはこうした同様の遺構が少なくなさそうに思われることから、80m四方にも満たない方形遺構を時間をかけてじっくりと見学させていただきました。
 確かに郭と思われる土塁の内側に畑の根切溝としては些か巨大すぎる空堀が所在していることは事実で、一般には理解しがたい縄張構造を呈しておりました。このほかにも郭の中心部の南北方向(より正確には北東から南西方向)にかけて空堀と土塁が存在しているために、さほど広くは無いと思われる郭を東西方向に分割した恰好となっています。またどちらかといえば郭自体の削平も極めて不十分な感じが否めず、かなり凹凸の目立つという印象もありました。
 こうした部分については、「松虫陣屋」における地形改変事例と同様に、近世以降の開墾跡によるものなのかも知れません。また舌状台地における占地が台地先端部ではなく、余り防御性を考慮したとはいえない台地の基部に所在していることから、確かに一般的な戦国時代の城館跡とは異なるものと考えられまし、その時代背景は不明ですが、南東方向には明らかに土塁を擁した屋敷構えを有する旧家も存在しています。
 こうした状況から考慮しますと、「印旛村誌」に記されているような複郭の居館説、周辺の土塁遺構と関連したより大規模な集落の防御施設の一部ないしは近世の野牧などの諸説も想定され、その性格が把握しにくい遺構でありました。

( 2009/12/19 記述 )
「鎌苅館南東側の土塁と空堀状地形」 ⇒ 画像クリックで拡大します
鎌苅館の土塁と空堀状地形 −画像A−
( 2009/03/07 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図については「印旛村誌」掲載の略測図(1982年1月)等を基本として、現地での印象などを加味して必要に応じて一部訂正を加えさせていただきました。

鎌苅館概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
鎌苅の「宗像神社」 ⇒ 画像クリックで拡大
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 鎌苅の宗像神社
 宗像三女神を主祭神とした「印旛郡誌」宗像村の項に記されている鎌苅字老作の村社宗像神社がこれに該当するのではないかと思われます。
 この神社の土塁もこの地域の他の宗像神社と同様に、実になかなかの出来栄えで、何時もの癖が抜けずに長居をしておりました(苦笑)
凸2 屋敷構えの土塁
 近世初期頃からの存在が想定されそうな屋敷構えの土塁で、鎌苅館の南南東約250mほどの地点に所在しています。「印旛村誌」に記されているように現存する方形遺構の南東方向に連続する複郭が存在していたことと考え合わせると非常に大がかりな城塞集落に...
 商工会の建物に飾られた印旛村のイメージキャラクター?のオブジェ⇒ナマズ

鎌苅館の北東部 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 鎌苅館の北東部
 北側を東西方向に走る林道の拡張などよりある程度の地形改変が加えられているものと思われますが、些か無理をすれば二重の土塁にも見えなく、また林道の元になった里道はその位置関係から想定すると、館跡よりも後世のものかととも。
⇒北東側に所在する小口と土橋状の地形3-1
⇒土橋状地形の西側の空堀と土塁3-2
⇒土橋状地形から撮影した北西側土塁3-3
⇒行き止まりとなっている東方向角の空堀跡3-4
凸4 鎌苅館北方角
 画像左側が堀底から高さ2.5mほどの郭に伴う土塁と切岸で、より正しくは鎌苅館の方形遺構の北西角部分に相当しますが、左側の林道と館の土塁・空堀の位置関係が平行ではないためにこのようなややこしい表現となります。
⇒北東方向から撮影した北西側土塁4-1
⇒南西方向から撮影した北西側土塁4-2


郭を分断する土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭南東方向の土塁と空堀状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 郭を分断する地形
 実際の土塁・空堀よりもやや大きく写り込んでいますが、空堀の深さは土塁側で最大でも2m未満という規模。土塁には途中で小口のように低くなった部分も見受けられますが余り判然とはしていません。
 後世の地形改変によるものなのかどうかについても、判断がつきかねます。
凸6 南東側土塁
 郭部分から南東側の土塁を撮影したもので、堀底から土塁の頂部までの高さは最も深いところではおよそ5mを測ります。こうして改めて眺めてみると、郭の辺縁部が堀上げ土塁状に形成されており、向こう側の土塁との間の空堀状地形が後世の排水溝や根切溝の疑念も払しょくできない要因の一つでもあります。
⇒溝の介在により目立つ南東側土塁最高部6-1

南方の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
鎌苅館の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 南方の空堀
 南側の空堀跡部分から土塁に囲まれた郭の南角部分を撮影したものです。
 なお、この空堀と画像Aの空堀状地形とが繋がっていないこと自体がこの遺構の謎のひとつなのであります。
南東方向にのびる空堀消滅部分7-1
二の郭跡と推定されている耕地7-2
凸8 鎌苅館の遠景
 館跡自体は谷津田の奥部である台地の基部(画像右側の方)に位置しているため、当時においても眺望は優れてはいなかったものと考えられます。
 また、印旛沼開拓が成功する以前の戦国時代においては印旛沼の一部を形成する湿原のような地形に囲まれていたものと推定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)
⇒千葉県教育委員会が実施した悉皆調査である「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」(1995報告)を複製し縮小の上刊行したものですが、この「鎌苅館」に関する記述はありません。

■郷土史・歴史関係
「印旛村史」(1984/印旛村)
 下記の書籍については直接の記述はありませんが、この地域の戦国時代の歴史や伝承などを知る上で大変役立ちます。
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)、「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)、「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「千葉県の歴史100話」(川名 登 編著/2005/国書刊行会)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)両書に「松虫陣場」・「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
「千葉県印旛郡誌上下巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「常総内海の中世」(2007/千野原靖方/崙書房出版)

■史料
なし

■その他
探訪にあたり参考とさせていただいたサイト ⇒ 「余湖くんのホームページ」

・2009/12/19 HPアップ
・2019/06/18 画像ズレ補正
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